第26話

 店が大繁盛している。兄と真理子の愛の結晶、本場仕込みのインドカレーが名物になりつつある。さらに、兄がディズニーからアイディアを盗……ヒントを得たスイーツが若い人たちに受けて客層が広がっている。以前にもまして客が増えた。テレビの取材申し込みまであったらしいが、兄が丁重に断ったようだ。英断、というよりも当然の判断だ。これ以上客が来たら対処しきれない。

 こんなはずじゃなかった。兄と真理子のラブラブ夫婦を中心に店を回す。それを見守るような形で両親が手伝う。祖父には少し楽をしてもらう。姉と私は気が向いたらたまに手伝う。そういうしたたかな計画があった。そして、その計画はほとんど上手くいきかけていた。

 兄と真理子がまるでワルツを踊るみたいに店を切り盛りしている。変な表現だが、そう言いたくなる。店の雰囲気がとても良い。客はその雰囲気に酔いつつ、おいしいコーヒーや料理を味わう。もともと二人はベタベタするようなカップルじゃない。モジモジもだいぶ無くなった。今は割と理想的な状態だと思う。満足したお客さんがリピーターになって、何度も足を運んでくださっている。

 そして何よりすごいのがウチの両親だ。二月、三月とカレンダーが進んでも父が旅に出ない。まあ普通の親はそう簡単には旅に出ないと思うが、ウチの両親にすれば奇跡のようなことだ。ちょっとしたキャンプや温泉旅行にも行かない。母を伴ってたまに、日帰りで都心へデートしに行くぐらい。日帰り! 夕方に父親が家に帰って来たのを見て、私はビックリして固まってしまった。

「どうして帰って来たの?」

 そんな言葉が喉まで出掛かったのを私は寸前で飲み込んだ。父が変わった。祖母にかなり言い含められているらしい。一方母は相変わらずニコニコして父の後ろを付いて回っている。父の働きぶりは相変わらず遊び半分な感じだけれど、お客さんを不快にさせるような方向ではない。むしろ場を盛り上げるような遊び方。そこは年季が入っている。母は元々丁寧なお嬢様教育を受けているので人当たりがよい。真理子と一緒になってフワフワと楽しそうに働いている。ある意味店は完璧な状態だ。完璧すぎて問題がある。店のキャパシティに対して、来客が多すぎる。

 父と真理子の目標は早々に達成された。

 「店をディズニーランドのようにしたい」

 この混雑ぶり。ディズニーランドに負けていない。店の前に順番待ちの列が出来る時がある。しかし待っているお客さんが不快な顔をしていない。窓ガラスから店内を覗き込んで、今か今かと楽しみにしている。夢を売っている。たかが喫茶店がどうしてこうなったのか。

 部活と受験勉強に専念する私の計画が、もろくも崩れ去った。こうなると部活に出ている暇もない。学校から帰ればすぐに手伝いの為に店に出る。そしてヘトヘトになるまで働いて、みんなで晩御飯を食べて一息付く。あとはぶっ倒れて眠るだけの生活。充実しているが何かが違う。私が思っていたのとはだいぶ違う。

 最初に気付いてくれたのは祖父だった。夕飯が終わってみんながくつろいでいる時、突然祖父が私に向かって話し出した。

「佐奈ちゃん。佐奈ちゃんは自分の好きな事をしなさい。店が忙しくなった事は私は嬉しい。でも佐奈ちゃんがそれに振り回されるのは本望じゃない。やりたいことをやりなさい。店はどうにでもなるから。大丈夫だよ」

 普段ボディータッチをあえて避けるような祖父が、私の手をしっかり握って言ってくれた。涙が出そうになってこらえたが、ポロっと一粒こぼれてしまった。

「でも私、店が忙しいのは嬉しいし、特にやりたいことがあるわけじゃないの。手伝えて嬉しいよ。兄さんと真理子がすごくいい感じだしほら、父さんと母さんが働いているのを見てるだけで、幸せな気持ちになれるし」

 そこから私は我慢しきれず、ボロボロと涙をこぼしてしまった。父の働き振りを褒める事は、家族の中では禁句になっていた。それを言ったら父が、ここぞとばかりに旅に出てしまいそうな感じがしていたから。しかし私はそれも言ってしまった。

「佐奈ちゃんごめんなさい。あの……泣かないで? 上手く言えないけど、わたしが言っていい事ではないと思うけど、おじいさまがおっしゃったように、佐奈ちゃんは自分の好きなことをしてください。真理子もそう思います」

 私以上に涙をこぼしながら、真理子が言った。変な感じで場が盛り上がってきて、私は今度は笑い出しそうになってしまった。別にここまで盛り上がる事じゃない。でも嬉しかった。

「佐奈ちゃん……。僕は当分は旅には出ないよ。この状況で旅に出るほど僕は馬鹿じゃない。それにご存知の通り、僕は体力には自信があるんだ。まだまだ余力を残している。佐奈ちゃんが手伝ってくれなくても余裕で店を回せる。ね? 久美子さん」

 父が母の名前を呼んだ。母はあまり事態を飲み込めていないようで、ただただニッコリと微笑んでいる。

「父さんは余力を残しすぎでしょうよ……」

 姉が辛らつな言葉を吐きながら階段を降りて来た。髪の毛はボサボサ。肌はガサガサ。研究が忙しいらしく、家には最近寝に帰ってきているだけだ。

「デザートの残りがあるよ。あと、ピザがあるけど温めようか?」

 あくまでも優しい兄。

「お願い。血が足りないの……」

 ゾンビのような姉。みんなでせっかく盛り上がってたのに。

「大学……忙しいのかよ」

 言えるのは私だけなので、涙を拭いて強気に姉に迫っていく。

「大学というか……今やってる研究が忙しいわね。あと……共同研究してる准教授と結婚するかも。今度ウチに連れてくる」

 居間がシーンとなる。な、なんだと……。それに関わらず姉が続ける。

「じいちゃん。研究の為にパソコンが欲しいの。二百万円ぐらいするんだけど。ダメかな?」

 ちょっとふざけたような表情で、姉が祖父を見て言った。

「いいよ。研究は楽しいか?」

 祖父が微動だにせず静かな声で言った。……すっごーい。

「すごい楽しいのよ! 上手く行ったらね? みんなにちゃんとお返しするからね? まあ期待しててよ!」

 急に姉が活気付いて言った。これは単に疲れすぎてハイになっている人のように見えるが、真相やいかに。姉は兄謹製のデザートを味わう暇も無く飲み込み、レンジでチンしたピザを大事そうに抱えて自分の部屋に戻って行った。

「ノーベル賞でも取るつもりかよ……」

 私が言ったらみんなが爆笑した。それで場がなごんだ。家族の中で、私は自分の役割を知っていると思う。

「加奈ちゃんのマネをしろとは言わないよ。ただ佐奈ちゃん、ゆっくりでいいから好きな道をさがしなさい。見つからなくてもいいんだ。おばあちゃんを見てごらん、今でも探し続けているんだから。わたしの言っていること、分かってもらえたかね?」

 祖父が優しい笑顔で私に言った。

「うん。少しみんなに迷惑かけるね」

 私は小さな声で言った。


 春休みが近づいてきて真理子がそわそわし出した。他の人は気が付いていないみたいだけれど、私には分かる。我ながらすごい観察眼だ。祖父に言われたように、人の観察ばかりしていないで、自分の事をよく考えなければならないのだが。

「当ててみようか真理子」

 一見いつもと変わらず、楽しくお給仕している真理子に私は声をかけた。

「え? 何がですか?」

 真理子が慌てた感じで言った。やはり。

「何かたくらんでるでしょう。やりたい事があるの? 兄さんにも言えないこと?」

 そっと私は言った。

「……あの、いいえ。単なるわたしのワガママですから。我慢します」

 歯を食いしばって真理子が言った。驚いた。真理子が自分で自分のワガママを認め、それを我慢すると言うとは。成長したな。しかし本人は相当辛いだろう。ワガママ、イコール真理子と言っても過言ではない。

「お腹に溜め込むと良くないよ。とりあえず私に話してみてよ。実現可能かどうかは後で考えればいいじゃない」

 気軽に私は言った。真理子のワガママ。もはや警戒しても意味が無い。だいたい予想の斜め上を行くだろう。

「わたし。春休みにインドへ行きたいです。おばあさまにもう会いたくなってしまいました」

 ニコッと笑った真理子。目の端からポロっと涙が一粒こぼれた。か、家族想いだな。私も見習うべきかも。と言うより、真理子は単に祖母になついているだけか。真理子は自分の実家に対しては結構冷たいあしらいをしている。すっかり真理子がウチの人間になってしまって、むしろ真理子のご両親に悪い気がする。私が考えることではないかもしれないが。

 真理子のインド行き。もちろん祖母は大喜びするだろう。しかしこれを実現するにはいろいろと障害がある。

 ハッキリ言って私の両親が奇跡的に今、店で働けているのは真理子の存在が大きい。かわいいお嫁さんの前で張り切ることが、父を家につなぎとめている最大の要因だ。真理子がインドへ行くとなれば、父も一緒に行くとか言いかねない。インドではないとしても、同じタイミングで旅に出てしまうとか。家族の為に旅に出ないと確かに父は言った。しかし風が吹けば気分が変わる。そういう人なのだ。

 真理子がインドへ行くとして、フィアンセの兄が帯同するのが自然だろう。兄がインドに行くことになるとしたら、店はどうなってしまうのか。例え私が店を手伝うとしても、祖父と二人では店を回せるわけが無い。

 まあここは兄に相談だ。私が悩むところじゃない。私もいざとなったら逃げるぞ。

「兄さんちょっといい?」

 忙しそうにしていたのに、私が声をかけると笑顔で手を止めてくれた。柔らかい兄。

「どうしたの。何か問題アリ?」

 たぶん私があからさまに不安な表情をしていたのだと思う。それを見て取って、兄が少し笑っている。

「えーと。……真理子が、春休みにインドへ行きたいと申しております……」

 恐る恐る私は言った。兄は表情を変えない。

「あのね、真理子はがんばって我慢してたのよ? でも、真理子に我慢は似合わないでしょう? 我慢させると他のところで爆発するかもしれないし。それとさ、ばあちゃんが出国する時に私が余計な事を言っちゃったのよ。またすぐ会いに行けばいいじゃないって。真理子を励ますつもりで言ったの。そしたら喜んじゃってさ。真理子、相当ばあちゃんになついてるみたい」

 まくしたてるように私は言った。

「そうだな……。真理子さんをインドへ行かせるのはギリギリOKだとして、現実的に考えると僕は一緒に行けないなあ。店が本当に忙しくなってるからね。父さんと母さんにも抜けてもらうわけには行かない。加奈は大学が死ぬほど忙しいみたいだし。あとじいちゃんは……じいちゃんにインドは過酷過ぎるよ。そういうわけで、じゃあどうしようか」

 兄がおかしそうに笑って言った。え。それってどういう?

「まさか真理子一人で行かせるわけには行かないわよ? あのインドに。あ、片山さんがいるか。でも不安だなあ、あの二人だけじゃあ」

 私は言った。

「うん。もう少し身軽な人間が付いていて欲しいね。トラブルが起きても、体当たりで対処できるような人。具体的に言うと、インド人と対面で値段交渉ができるようなレベル。気合の入った若者が欲しいね」

 いじわるそうに兄が笑った。く……ここにきてさわやか兄発動か。

「うそ! ちょっと待ってよ。えー! 私またインド行くの? ブッダガヤーに? ……でも確かにそうだよなぁ。それしかないのか……」

 何かずっしりと重いものが、頭の上に乗っかってきたような気分だ。

「佐奈? よく考えて、佐奈がどうしたいか決めて。嫌だったらそれでいいんだから。他の人の為に無理しちゃダメだよ」

 そう兄は言ってくれるものの、絶対兄は私に行かせるつもりだろう。もう分かってる。だいたい損な役割は私が引き受けることになるのだ。断れない性分でもある。

「分かった。行きます。私がインドへ行きましょう。その代わりオプションをつけてもらうよ? ばあちゃんと真理子が熱望していたけど、パ、パリのディズニーランドに行きたいんだって。私もわりと行きたい。今回インドはさらっと済ませて、ヨーロッパで楽しく春休みをエンジョイしたい。それでどうですか? すごいお金かかるけど」

 思い切って私は言ってみた。パリ、ローマ、ベネチア。本場イタリア料理。私はあこがれていた。それなら行ってもいい。私は兄にダメ元で吹っかけてみた。

「ああそれはいいよ。佐奈はもっと外国を見るといいと思ってたんだ。それで行こう。計画はみんなと相談して、佐奈を中心に考えてもらっていいかな? 旅の計画を立てるのもけっこう楽しいものだよ。勉強になるし。航空券やホテルの手配の仕方も、この機会に僕が伝授するよ。どう? 楽しめそう?」

 わああ! やったー。すごい豪華な春休みになる。言ってみるものだ。インドは絶対大変だと思うけど、そのあとにご褒美が待っていると思えばがんばれる。私はそういう性格だ。

「兄さんありがとう。俄然楽しみになってきた。まあトラブルは絶対にあるだろうけどね。真理子とばあちゃんの命だけは守るよ」

 私は言った。

「よろしくね」

 兄が笑って言って、また仕事に戻って行った。これは……燃えるね。

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