第68話 霊となった女は

 サカガミの悪夢――それは、顔のよく分からない女が登場し、喉を絞めつけるのだ。ピントがズレているようにぼんやりしていて、女の顔ははっきりとしてない。だが、口元だけははっきり見えていて、それは――

 罪を思い出せ罪を思い出せこのくそジジイ死ね死ね死ね――と女は言い続ける。

 喉を絞められている間は息が出来ず、目が覚めたときはいつも過呼吸となってしまうのだった。ときには、悲鳴とともに起きるときもあった。しかし、その理由は本人さえも思い当たらなかったのだった……今まで。

 どんな悪人でも悩みがあるものだ。

「おかげで、あんたが飼ってたゾンビ社員と、とんでもない怪物に全身を引き裂かれたわ」

「すまないすまないすまない!」

「どんなに痛かったか」

 びりびりっと女はドレスの腰あたりを引き裂いた。はらわたが飛び出した醜い傷跡がそこにあった。どす黒い真一文字からはいまだ血が溢れ出ていた。その血が、社長室にある高級絨毯を赤く染めた。

 ぼたぼたぼた……。

「止まらないのよ……困ってるの」

「償いはするよ! 幾らでも払う! 何でも持っていってくれ」

「こんな風になった今、お金が必要なワケがないでしょう」

「じゃあ、何が欲しい? わしは何でも持っている……くれてやる」

「そうね」女はふっと微笑んだ。血にまみれた顔が天使のような笑顔を見せた。

「あのレヴィって怪物から、あたしと同じ目に遭ってもらおうかしら」

「れび?」

 突然、サカガミの脳裏に19541103という数字が思い出された。セキュリティ・ロックのナンバーだ。サカガミの最初の妻の誕生日だった。生前は、サカガミを支えてくれた。……だが、金持ちになるにつれて他の女に目が移るようになり、サカガミが気づかぬうちに心労で死んだ。

 後悔を忘れない為の、意味のある番号だ。

 ようやく社長室をシェルターにすることが出来る……。

 だが、それが怪物を阻むことは出来なかった。さあ、パスワードを押すぞ……と、その二秒後に扉が吹っ飛んだのだ。扉は風車のように回転し、窓ガラスを割って外に消えた。怪物はピカソの絵を盾にしたサカガミを見つけた。

「やめてくれーっ」

 サカガミは怪物ではなく、女に懇願していた。怪物を女が飼っていると思ったのだ。

「反省してる! やりすぎたッ」

 その言葉が届くはずもなく、怪物はサカガミに喰らいついた。頭を丸呑み、その細い上半身をいとも簡単に千切ったが、突入の激しさで勢いあまってガラスを突き破ってしまった。

 不幸中の幸いにもピカソは、怪物の血を浴びただけで済んだ。(後にその価値が分かるスタッフが修復してくれるだろう。)

 サカガミの体は手応えなく、あまりにも簡単に千切れた。怪物は宙を舞いながらそのことを少し残念に思い、達成感で吠えた。怪物自身と関わりのない実験室にいる哀れな犬たちの復讐も兼ねていたはずだが、それはあまりにもあっけなかった。その咆哮は、神原がいつか聞いた野犬の遠吠えを思わせた。しかし、その声は建物全体を揺るがすような、ずしんという地響きとともに消えた。怪物の首は真っ二つに、自らの自重によって長い体が折れた。窪田の霊は、その様子を割れた窓ガラスから見下ろしていた。

 窪田の隣には、赤い女がいた。

 どこかで見たような女だ……。

 全身血まみれの女は、何も言わず窪田を睨みつけていた。はて、そんな睨まれるようなことを自分はしたのだろうか……そう窪田は思った。

 赤い女は窪田に少しずつ近づいてきて、かつてはゾンビのような半壊していた体を持っていた男に飛びついた。

 霊となった女は、霊となった男に触れられるのだ。


 神原は息を切らせて、ようやく本社ビルにたどり着いた。途中、葉月刑事と遭遇し、高倉警官に結びつけたロープをゆだねていたのだ。

「神原刑事……どうする気なの? 気づいてないの? 胸に穴が。血だらけよ!」葉月は、神原のぼろ布のような体を見て言った。

「まだ、何かをするつもりなの?」

「ああ。あのでかいやつを退治しなきゃ」

 神原が猟銃に新たな弾を装填する姿を見ても、葉月は止めようとはしなかった。代わりに駆けつけた警官らに、地下の高倉の救助に向かわせた。

「刑事を辞めたのは、勿体なかったわね……。あなたほどの人間はなかなかいないのに」葉月が言った。

「いいんだ。普通の警官じゃ、テレビのように銃をぶっ飛ばせないからな」

 葉月に見送られて、神原は霊喰い退治に向かった。

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