第67話 悪夢の理由
サカガミの乗った車は、そのまま中央ビルに向かった。そのままスピードを出して、街へ飛び出せば怪物を振り切ることが出来たはずだが、愚かなことに老人は本社に構える車庫へと運転手を急がせた。車庫はエレベータとなり、上階へ登ることが出来る。サカガミは社内に逃げられると思ったのだ。
……当初はそう思えた。しかし、肝心のビルは既に傾きかけていた。
怪物はよろめきつつサカガミの車を追いかけたが、間に合わず閉じた鉄壁に阻まれた。間一髪でサカガミの車は、エレベータに入ることが出来たのだ。何度か鉄の扉に体当たりを食らわせたが、びくともしないと知ると怪物は別の方法を考えることにした。悲鳴をあげて逃げる社員数名とすれ違ったが、いまの怪物は見向きもしなかった。
「レヴィ、落ち着け。どこに行くんだ」
窪田の制止も耳に届かず、怪物はもはや主の命令が聞こえなかった。それだけ怒り狂っていたのと、両耳に傷を負ってその声が聞き取りづらかったのだ。怪物は中央ビルの正面に周り込むと、玄関ガラスに突っ込んだ。愚かにもまだそこに居た受付嬢――彼女は恐怖で動けなかったのだ――が、突然の闖入者に踏み潰された。気の毒に。
傍らのパネルには、中央会議室で新製品発表会とあった。
怪物は赤い血肉をまとわせて階段を登っていく。怪物にぶつかって、死体のまま引っかかった者たちも、発表会へ向かう。
本来ならば、その発表会では犬猫に向けてペースト状のペットフードの新製品が発表されるはずだった。目新しい商品ではないが、ビジネスというのは常に店の棚を埋めるものを考えねばならないのだ。
怪物の目当てはペットフードではない……もちろん、自分を苛めた老人だ。怪物の恨みはそれほど根深かったのだ。
怪物は階段を駆け抜け、会議室前に出た。マホガニーの扉をはじき飛ばして入室した。サカガミ社の関係者、ペット産業の同業者たち、地方の政治家らが怪物を見てどよめいた。
なぜ、まだそんな連中がいるのか――その会議室だけは偶然にも地震に強かったのだ。部屋の傾きは、安定していた。そして、かれらは傾斜するビルから逃げ出すよりも、サカガミの振るった高級シャンペンを選んだ人間たちだった。かれらは常に、サカガミの横暴で違法なビジネスに目をつぶることで恩恵に与ってきた者たちで、ここに残っていればサカガミからのおこぼれをもらえると、それを目当てに残っていた。
「あれが、新製品?」
そういうバカなセリフを言った男は、数秒後に肉塊となった。
一人が怪物に引き裂かれたことで、そこにいた者たちはようやく自分たちの愚かさを実感した。
阿鼻叫喚というに相応しい血の饗宴が始まった。
怪物は高級なパーティメニューの載ったテーブルを木の葉のように払い、数々の賓客を踏み潰しつつ社長室に向かった。男も女も差別しなかった。スマホで怪物を撮ろうとした女は、後のち自分の死体がモザイク付きで放送された。我先にと他人を押し退けて逃げようとした高級スーツの男は、怪物に吹き飛ばされ、ガラスを突き破って階下へ落ちた。
(会場にはテレビカメラもあったが、いまの地上波で血まみれを映すのは難しい。怪物の姿も映っていたが、やがてここにある映像機器はすべて炎とともに灰になる。)
怪物の頭から生えている棘や牙が、室内のほとんどの客の体を引き裂いた。即死した者たちの魂は、即座に怪物の餌となってすすられ、かれのエネルギーとなった。
「いいぞ、レヴィ」
からからと窪田は笑い、拍手した。どうとでもなれと思いつつ、自分の飼い犬が狂喜乱舞している姿を楽しんでもいた。
怪物の通った後には、鮮血が川となって階下に注がれた。
驚くべきことにエレベータもかろうじて動いた。中央ビルは洗練されたデザインの割りに安普請だったけれど、自分が日ごろ使うものだけには、老人は金を注いでたのだ。
サカガミは社長室に辿り着いたが、後悔していた。社長室には鍵が二つしかなかった。パスワード式のセキュリティロックとただのドアロックだ。金庫は他の部屋にあるし、企業秘密はもっと他の場所にあったからだ。
老人は自身をこの部屋に幽閉し、怪物から身を守ろうとしていた。……もっと頑丈なドアにしておくんだった。
サカガミは怪物に追われていることを直感で感じていた。
数々のペットたちを虐待していたのをようやく思い出した。しつこく追ってくる怪物が、その直系にあたると分かった。数分前までそんなことを思ったことは無かったのに、都合よく罪の意識が老人の脳に噴き出した。
「ああ、悪いことをしたな……」
部下の配達員が、地方から家出人を餌にしているのも黙認していた。知り合いの政治家から預かった闇金を、怪物を逃がさない為のクロロホルムのボンベ代に回したことを思い出した。
「許してくれ。許してくれ」
そう呟きつつ、セキュリティ番号を思い出そうとしていた。歳のせいか脂汗のせいか、全く思い出せない。
サカガミは白髪をかきむしった。
そうしている間に、どしんどしんと地響きが近づいてきた。ずるずると体を引きずる音もする。時どき、休む音がした。怪物も疲れていた。
ドアを完全に閉じなければ、死ぬ……。
そう思ったサカガミは高級机を扉に立てかけようとしたが、そうするには体力が無かった。キャビネットは書類束の重さでびくともしなかった。動かせるようなものを何とか歯止めにしようと探したが、その代わりに部屋の隅に立つ者の気配に気づいた。
「だ、だだだ、誰だ?」
全身を血に染めた女が、自慢のピカソのそばに立っていた。
すべてが赤い女だ。
見覚えのある顔だが、……思い出せない。誰だか思い出せないながらも、サカガミは悲鳴を上げた。ぽたぽたと絨緞に赤いものを垂らしながら、真っ赤な女がサカガミに近づいてきた。そのどこか神秘的な様は、まるで絵画から飛び出してきたように見えた。
「あたしを忘れた?」
赤い女が言った。
神原に対しても喋らなかった女が、口を開いた。霊は恨みがある者にだけ、語りかけられるのかも知れない。
「……ここへ来るときに、新製品発表会があるとパネルがあったわ。あたしの時もそうだったわね?」
あたしの時って? そう聞き返そうとした瞬間、サカガミは目の前の女と悪夢で出会ったことに気づいた。
「思い出した? あたしは動物虐待であんたの会社を訴えようとしていた。パーティに潜入して、めちゃくちゃにしてやろうと思ったけど、逆にあんたの警備員に捕まったわ。……お手製の爆弾が見つかっちゃったのよね。スプレー缶の中に仕込んでおいたやつ。あんたは逆上して、あたしを浄水場に突き飛ばしたわね? 暗い夜だったわ。凍るようだった」
「あんた、あれから死んだのか? てっきり……」
女は呆れたように長いため息をついた。
「覚えてないの?」
「酔っていたんだ」
「自分が殺した相手くらい覚えてなさいよ!」
「す、すすす、すまない。そんなこと、するつもりなかったんだ」
そのサカガミの告白は実は真実だった。パーティで誰かを傷つけた記憶はあるのだが、それが誰だったのか全く覚えてなかった。酒と軽い痴呆のせいだ。そのパーティの翌日、それに関わった同僚を問いただしたが、社員たちは社長の機嫌を損ねるのを恐れて口をつぐんだ。
この老人は毎晩、気味の悪い夢に苦しんでいた。
目覚めると、その内容ははっきり思い出せないのだが、サカガミはようやくその悪夢の理由に気づいたのだった……。
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