第39話 そのはかない夢

 神原浄の背負うリュックの音が、がしゃがしゃと坑内に反響する。足元はぬるつき、走るたびにぐちゃぐちゃ汚泥が飛び散る。

 懐中電灯で通路を照らしながらなので、うまく走ることは出来なかった。ガラクタも多いので、転んで怪我をするのも厄介だ。慎重に、それでいて背後から迫る警官から逃げるように小走りで進んだ。

「戻ってきなさい!」

「何を考えているんだ!」

 警官たちの声が追いかけてきたが、神原も佐々木豊も振り返らなかった。声は山びこのように繰り返し、距離感がつかめない。

「ポリ公! どうした、追いかけてこい! 怖いのか。ざまーみろ」

 神原と佐々木に従うヤンキー少年の幽霊が、トンネルの口に向かって楽しそうに舌を出した。

 やがて、背後からの足音が消えた……だが、何かを叫んでいる。「戻ってこい」とかなんとか。

 ……しばらく直進が続いたが、やがて通路がY字に分かれ、神原と佐々木は選択を迫られた。

「どっちに行こう?」

「サカガミ工場に近い側だ。左だな。まずは水源へさかのぼりたい。そして、行き止まったら、戻る。しらみつぶしさ」

「なるほど。しかし、この縁石はどこまで続くんだ? サカガミの浄水場までつながっているんだろうか」

 水面は底まで数十センチなのが分かった。思ったより水が澄んでいる。ヘドロにまみれてはいるが、通路も川辺ほどゴミがない。遠くでばしゃばしゃと注がれる水音が反響する。滝があるのだろうか。

「サカガミの敷地内にあるのは、塩素接触槽と呼ばれる施設だ。それは、浄水工程としてはかなり最終に近いし、放流に至るに従って水質を検査する必要があるから、人が通れる余地がある。……奥に行くに従って、天井は低くなるがね」佐々木が言った。

「ふーん。浄水にはいくつか段階があるんだな?」

「……まあ、汚れた水を人が飲めるまでにするわけだからね。浄水施設は各家庭からの廃水や雨水を集めて、沈殿地と呼ばれる場所で沈殿させ、微生物やオゾンを使ってろ過処理する。理想的な浄水とは、これを何度か繰り返し最終的に放流に至るまでを言うんだが、飲み水に使用しない場合は途中から汚水としてそのまま川に流されるんだ。サカガミは工場で使う水を確保する意味で、浄水施設もろとも敷地内に確保した。一部はいまだに町の住民にも配水されている」

「そうか……水が澄んでいると思った」

「ああ。川に放流された時点で水が濁るんだ。だから、懐中電灯で照らすことで(娘の)足はかなり見つけやすいはずだ。慎重に探さないと見つからないのは、もちろんだが」

 神原は、佐々木のロジカルな説明に頷きつつ、内心驚いていた。佐々木の目的は、あくまでも少女の失われた足なのだ。小走りとはいえ、真っ暗闇を駆けていた中で水面を探っていたその執念に敬服した。

 神原もそれに見習って、なるべく床を照らしつつ歩き始めた。

 遠くから聞こえていた警官たちの声がか細くなり、やがて消えた。

「警官が現れるなんて。さっそく計算外のことが起こった……騒ぎになる前に、何とかしたい」佐々木が呟いた。

 何度か通路が枝に分かれた。佐々木は常に足元を照らし、好美の足を求めながら歩いた。神原は素直に佐々木に従った。

 空気が固まっていく。思った以上に息苦しい。奥に進むにつれて闇が深くなり、それが迫ってくるようで心細くなる。トンネルへ入るまでにあった冒険気分が、暗闇への恐れでしぼんでいく。落ちつけ落ちつけと思っても、内心に原始的な脅えが生まれる。

「……くそっ、何も見えねえ。おっさん、怖くねえのかよ」

 ユズルが言ったが、神原は答えなかった。転ばないように、緊張を足下に集めていたからだ。だが、ユズルの気持ちは分かった。

 すぐそばの暗闇から何かが出てきそうで、びくびくする。とても一人でここを歩くことは出来なかったろう。だが、霊である少年自身が暗闇を恐れているのを神原はややこっけいに感じた。

「おっさん、デカだったのかよ」ユズルが言った。黙っていると怖いので、気晴らしだろう。佐々木の前で返事するわけにもいかないので、こくりと頷くだけにした。

「……どうして辞めちまったんだ?」

 肩をすくめた。だが、たとえ口に出来ても、学生に向かって「弱さのせいだ」とは言えなかった。ユズルも神原が喋らない様子を見て、適当に合点したようだった。

「おれもツッパリやってるけど、白バイにはなりたいと思ってるんだぜ」

 ユズルが独り言を続けた。

「かっこいいもんな。車道を勝手きままに猛スピードで走れるし、ダセーやつ捕まえて切符切ってやることもできるしな。おれをコケにした先公に罰金払わせてやれる」

 そんなに都合のいいことばかりじゃないぞ、と神原は思わず口にしそうになった。

「ミーコに話したら、大ウケだったけどな」

 神原はユズルに向かって、誰だそれ? という顔をした。

(彼女か?)

「あたりきだろ。おれ、童貞じゃねえんだぞ。ちゃんとやることやってんだ。若いからってバカにすんなよな。おっさんこそ、その歳で結婚してねえのかよ」

 大きなお世話だと思った。

「へっ。昨日もふたりでイイコトやったんだぜ。うらやましいだろ。明日もおれに会いに来るって約束したんだ。だから~おっさんの間違いさ、……おれがユーレイってハナシは。ミーコがおれに嘘つくはずがねえ。ホレてんだ、おれに」

 神原はそれはいつの昨日だと思わず尋ねそうになったが、やめた。そして、急にこの少年幽霊に対して様々な疑問がわいた。

 ユズルは、これまで何度そのはかない夢を繰り返したのか。そのミーコという少女は、本当に翌日このユズルに会いに来たのだろうか。本当に愛していたのなら、少年が死んだことをどう思っただろう。ミーコは現在、幾つになっているのだろう。いまだに死んだかつての恋人のことを覚えているだろうか……。

 そう考えると、何だかこの少年に対して同情的になった。霊のくせにいちいち減らず口を叩く小うるさい奴だと思っていたが、哀れで気の毒な存在になった。

 少し目頭が熱くなった。

「……佐々木」思わず、佐々木に話しかけた。「どうやって、今おれたちがいる場所を知るんだ?」声が震えているのを悟られないように。

「地図があるさ」

 佐々木は手袋の手をこつこつとこめかみに当てた。

「それに、通路は全部暗記してきた」佐々木の頼もしい声が返ってくることが、神原を安心させた。

「さすがだな。きみは学生時代から頭が良かった」

「ああ、記憶力が私の自慢だった。……だけど、頭が良かったわけじゃない」

「学年でもトップクラスだったじゃないか」

「学校で習うことのほとんどは、覚えればいいことだけさ。テストも単なる記憶力ゴッコだ。教師の言うことをいかにテストまでに覚えているかが勝負だ。私はたまたま記憶力が良かった。だから、答案用紙に覚えていたのを書きこむのが得意だったわけだ。だけど、卒業してそんなものが何の役に立ったか分からない。世間に出てからは、仕事をうまくこなすことや同僚と仲良くすることの方がよっぽど大事さ」

「まあな」

「人間が生きるうえで、うまくやっていく方法を学校は教えない。いま考えれば、学校はさまざまな人間が集まる格好の舞台なんだ。そんな場所で、どうやって人間関係を築くかが、社会でいちばん大事なことなのに、誰もそれを教えてくれない。自分の存在する世界とどう折り合いをつけるかが、人間にとっていちばん大事なことだ。そう思わないか?」

「そうだな」

「おっさん良いこと言うじゃねえか」とユズルが言った。

 折り合いか、と神原は思った。

 神原は、あまり人付き合いの得意な方ではない。人間関係を築くのが苦手なタイプだ。東京では友人も少なかった。せっかく故郷に戻ってきても、すぐさま連絡を取り合う人間は少なかった。まだ、誰にも故郷へ戻ったことを知らせていなかったし、内心それをわずらわしいとも思っていた。

 しかし、佐々木に出会えたことは嬉しかった。失われた足を探すという目的はどうあれ、共に行動できるのを嬉しく感じた。

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