第38話 落ち武者の霊

 霊は、日々同じことを繰り返す。

 その起点はまちまちだが、動き回った後はユーチューブのリピートボタンを押すように、翌日からは同じ行動パターンを示す。だから、自分が死んだことや、自分が他人から見えないことにいつまでも気づかない。おそらく少女は、何度か父親の背を足の無い姿で追ったはず。

 だが、父親には神原浄に身についているような霊を見る感覚が欠けているために、娘の姿に気づくこともなく遠ざかったに違いない。父親に気づかれず、背を向けられるつらさを思うと、神原は胸が引き裂かれるような気がした。辺りの冷気がかたちと持って、神原を押し潰すような気がする。早くこの場から去りたい。

「放っておいていいのかよ?」

 せめて父親に、娘がそばにいることを教えるべきじゃないかとユズルは言った。

「……どうかな。信じるか、信じないか。どちらにしろ、ショックを受けるだろうな」

 神原はそうヤンキーの少年霊に言って、木陰から離れた。仮にそうしたとして、友人が苦悩するのを見たくはないのだが……。

「きみは小便しながら、独り言を言うのか?」佐々木が言った。

「いや、一人じゃない」

「?」

 神原は代わりにこう言った。正直に話すことにした。

「……霊と話していたんだ。実は、ひとり少年の霊がおれたちにくっついて来ている。そいつは時どき、おれに話しかけてくるんだ」

 佐々木は眉を上げた。それから、ああ~と合点したように頷いた。

「ふむ。ちょっと薄気味悪いが……まあ、私は気にしないよ」

「ああ、そうしてくれ。おれが時どき、独り言を言うのも無視してくれていい」

「分かった。これは、冗談半分に聞くんだが、……その少年は、手伝ってくれるのか?」

「ああ、多分。気づいたことは知らせてくれると思う」

 ユズルが佐々木に向かって、ぞんざいに手を振った。かれなりの協力への挨拶だ。もちろん、それに佐々木は気づかないのだが。

「なるほど。人手は多いほどいいんだ」佐々木が言った。

「ハナシの分かるおっさんじゃねえか」

「黙ってろ」神原は、小声でユズルに言った。


 用水路周辺は、昼間と比べて随分閑散とした印象となり、ゴミの山も雑草の海に溶けこんでいて目立たない。神原と佐々木の、枯れ草を踏みしめるざくざくという足音だけが響いた。

 まだ辺りは暗いが、空が雲っているのは分かった。遠くの赤い雲の一部に光の線が走った。不思議な稲妻だった。空と地上を分けるような光の線だった。

「雨が降りそうだ。今日は、嵐なのかも知れない……」

「ああ、だが傘は必要ないぞ。この排水トンネルはきみの家の前にもつながってる。濡れずに帰れる」佐々木がそう言ったが、神原にはそれが冗談なのか分からなかった。

 ユズルがトンネルを眺めて、露骨に嫌そうな顔をした。霊は臭いを感じるのだろうか? 感じるのだとしたら、確かに相当くさい場所なのだが。

「……これに入っていくのかよ。おっさんたち、ホント頭おかしいんじゃねえの? 知らないだろうから言ってやるけど、ここもクビヌキ通りと同じで、昔から縁起が悪いって誰も近づかない場所だぜ。噂じゃあ、落ち武者の幽霊なんかが群れて現れるらしい」少年幽霊が言った。

 おまえだって幽霊のくせに、と喉まで出かかった言葉を神原は飲み込んだ。

「何か言ったか?」佐々木が言った。

「……先ほどの、少年の霊がここには落ち武者の霊が出るって」

「この川辺は、戦国時代には戦場だったそうだ。だから、確かに落ち武者の幽霊に出逢ったという目撃談は聞いたことがある」

「そりゃ、怖しいな」

 昼間の佐々木の言葉どおり水面が下がっているので、川底に沈んでいた様々なガラクタが突き出ている。自転車の残骸が人の骨のように見える。トンネルはまるで竜か何かが、大きく口を広げたように見えた。かつて無断侵入できないように鉄柵で覆われていたようだが、年月とともに錆び折れた残りが、牙のように内側から突き出している。

 先ほどまで心の奥底にあったやる気が、吸いこまれる気がした。あえて怪物の胃袋に飛び込む感じか……モチベーションが上がるわけない。辺りに漂う臭気と、不吉しか感じさせない空模様。目的は死んだ少女の足を見つけることで、パートナーはなかば狂った父親と、幽霊となったヤンキーだ。そして、おれ自身も神社の老人からは「死にかけている」と忠告されている。

 破滅の予感を感じ、体が震え始めた。

 濃い酒を入れるスキットルをもっと用意するんだった。

「……気をつけろ。柵の一部が壊れて尖っている。うっかり切ってしまったら破傷風になる。地面から突き出しているものもあるぞ」佐々木が言った。

「大丈夫だ。ちゃんと長靴を履いてきたし、厚着してきた」

「まるで、登山に行くようだ。何を用意してきたんだ?」

「佐々木だって似たようなもんじゃないか。懐中電灯に、予備の電池、軍手とかビニール袋、タオルとかいろいろさ。家に家族の残した災害時の非難リュックがあったから、それをそのまま持ってきた。さすがに缶詰などは捨ててきたが、チョコレートと水くらいは用意した」

「……頭いいな。だけど、下水の中で、食欲は沸かないと思うよ」佐々木がふっと笑った。

 遠くからほら貝を吹く音が聞こえてきた。びくりとユズルが遠くを見つめた。戦国時代の戦争を思わせた。

 いや、まさか。ここではないどこか他のトンネルの虚が反響しているだけさ、と神原は思った。そう思うことにした。

 来た道を振り返り、先ほどまで好美がいた場所を見た。少女はとっくに姿を消していた。どこへ向かったのか。また、商店街で遊び相手を探しているのだろうか。胸に愉快ではないわだかまりが生まれたが――、

「行こう」

 神原はふっきるように深呼吸して言った。


 神原浄がトンネルに入ろうと一歩踏み出したその時、土手の向こうから一筋の光が差しこんだ。がさがさと雑草をかき分ける音が近づいてくる。

「貴様ら、何している!」

 神原には聞き覚えのある声だった。

 男が二人、茂みをかき分けて神原たちに向かってくる。

 ――警官が二人。見慣れた二人だ。

 昨日の朝、神原を留置場に叩き込んだ警官たちが現れた。

 高倉が、警棒と懐中電灯を手にしている。傍らには、田原の姿があった。……だが、神原たちとは川をはさんで向こう側にいる。

「神原刑事! こんな処で何をやっているんです」

 田原の持つ光が神原の顔を照らした。二日続けて、まぶしい光を向けられるとはな……。やれやれと神原は思った。

 またか、といった感じだ。それにいつになったらこの警官たちは、刑事を辞めたことを覚えてくれるのか。

 高倉は、佐々木にも光を向けてその顔を見ると、ぎょっとしたようだった。被害者の父親と知っていたからだ。

「佐々木さんも……ふたりで、何をやっているんです?」

「放っておいてくれ、お巡りさん!私たちは、何も迷惑をかけてない」と佐々木。

「その格好で、何をするつもりなんです? ……まさかこのトンネルに入っていくつもりじゃないでしょうね」

 警官二人は、まるでや山登りにでも向かうような格好をした男ふたりの姿が信じられないようだった。

「今から、そちらに行くので、じっとしてて下さいよ」田原が言った。

「大人しくしてろと言ったのに……」と高倉。

「時間がない。説明するつもりもない。モタモタしてたら水面が満ちてやり直しだ」

 佐々木の言葉に、神原も頷いた。

「急ごう」

 男ふたりはトンネル内の縁石を暗闇に向かって駆けた。

「待つんだ! 危険ですよ。やめなさい!」

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