第21話 戦いの元手
「冗談じゃないよ。そんなことおれには出来ない」
「わたしはこの町で、この神社で死んだ。離れられない。遠くへ行くことも出来るが、それは他人の夢に入るときだけだ。誰かが苦しんでたり、死にかけているとき等、最悪なタイミングで意識へ潜りこむことしか出来ないんだ」
「どういうことだ? ……もしかして、おれがこうなった原因を知っているのか」
「わたしは、あんたの悪夢を見たことがあるよ。ミタカ事件の加害者が出てくる夢だ。浴槽で血まみれになって笑っていた。あんたに同情するよ。あんな汚らわしい笑顔に生涯つきまとわれるなんてぞっとするね。だが、酒や睡眠薬などに頼りながらも、意志でその苦しみをはねのけているあんたを尊敬もする」
神原浄は眉根を寄せた。
「疑わないでくれ。わたしの〝特技〟だが、覗こうと思ってやったわけじゃないし、好きでやったわけじゃない。偶然、あんたがその夢を見ているときに入り込んでしまったんだ。悪夢を見ているとき、あんたは〝邪悪〟に遭遇したのだ。わたしは、あんたの夢と現実の狭間で、あんたに襲いかかるものを見た。恐ろしいものだ。正体は分からないが、それがあんたを変えたんだ」
「……何なんだそれは?」
「怪物さ」
「そいつはどこにいる?」
「町にいるとしか言えん。繰り返すが、わたしはここから動けない。飛び出せるのは心だけだ。それも自分の意思では難しい」
「それが、おれがこうなった原因だと?」
「そう思うね」
「そいつを何とかすれば、まだ死を食い止められる?」
わたしは頷いた。
「可能性はある。わしは、死人にならあの世がどっちか教えることが出来る。わしは行ったことがないんだがね。あんたが、ほんとうの死人になったら導いてあげよう。だが、そうなった者がここに辿り着くのも、またまれなことだ」
「ようやく分かったぞ、あんたの目的が。おれをダシにしやがって」
勘のいい男だ。
「その通り。あんたはその正体を探すうちに、その大元に出くわすだろう。それを何とかして欲しいというのが、わたしの願いだ。根こそぎにするべきなんだよ、誰かがそれを」
「おれに手が負えないとしたらどうするんです?」
「いや、あんたを信じてるよ。わたしは、あんたがここを訪れたのは偶然でないような気がするんだ」
わたしは社の幾つかある柱のひとつを指した。
「この柱は見せかけだ。フェイクだ。目のように見えるふしくれの部分を押してみなさい」
神原がそうすると、柱の仕掛けから、板状にされた黄金が滑りでた。
「先々代が残したへそくりだが。それは前金といったところだ」
「こんなカネいらない」神原は言った。
「必要になると思うよ。いまのあんたにゃ、武器がない。戦いには元手が必要だ」
「おれをあんたのいざこざに巻き込まないでくれ」
「もう、あんたの戦いなのだ」
そう言って、わたしは神原浄に背を向けた。
ここまでがわたしの役割だ。
わたしは急げと行ったのに、神原はしばらく立ちすくんでいた。すぐさま立ち上がることが出来ないようだった。
神原浄は、わたしの神社を出ると内科医に駆けこんだ。
かれが少年時代から世話になった馴染みのある小さな医院だった。五十代の白髪混じりの町医者が診療を受け持っていた。かれは二代目で、子どもの頃の神原のことは知らない。
「何事です?」
受付前のドアをぶつかるように開けた神原を見て、中年の看護師が言った。
「他の患者さんの迷惑です。順番を守ってください」
神原は緊急だと大声を張り上げて、看護師らの静止を聞かず、診察室に飛びこんだ。待合室の患者が数人、神原の暴動を唖然と見守った。
「体を診てくれ」
汗みずくの神原を見て、医者も何事かと驚いた様子だったが、警察を呼ぼうとする一同を静止する落ち着きを持っていた。この医者は、実は普段から患者の診療代を多めにごまかしており、警察を呼ばれるのはマズかったのだ。
「おれは、……死にかけている。その原因を知りたいんだ」
「見たところ、十分健康そうですが」
神原に反して、医者は冷静に言った。それまで診察を受けていた少年が、腹を見せたまま神原を驚きの目で眺めていた。
「見かけだけじゃなく、脈を測ってくれ。証明できる!」
「大声を出さないでください」
医者は事を荒立てることを避け、少年と看護師らを外に追い払い、聴診器を神原の胸から背に当てた。それから脈を測り始めた。
「血圧百八……やや低いが、成人男子としてそれほど異常な数値でもない」
「そんなはずないんだ。もっと、ちゃんと調べてくれ。採血するとか」
医者は言われたとおり注射器を取り出し、神原の静脈に刺した。
「痛っ……」
神原が濁った血を見て顔をしかめた。
「それは、生きている証拠じゃありませんかね? 血液検査には時間がかかりますよ」
「そんなヒマはないんだ。何とかならないか」
「全身をくまなく調べたいんなら、ここの設備では無理だ。駅前の大きな病院に行きなさい」
「くそ」
「見たところ、顔色は最悪だ。ちゃんと眠っていますか」
「いや、睡眠薬の世話になることがしょっちゅうだ」
「ほう、どんな薬を使っていますか?」
「以前ひどいウツになって、リリウムやカラボネートなんかに世話になったが、飲みすぎで胃腸に穴が開いてやめた。ヴェガタミンやレスペリドンとかを何日か受けたが……」
「ちょっと種類が多すぎるね。ちゃんと医者の処方に従いましたか? 中途半端にそういった薬を使うと、ときに中途覚醒や睡眠障害が発生する。人によっては、統合失調症やひどいノイローゼを起こす」
神原は、部屋にいる医者以外の存在に気づいた。
衝立の向こうから、じっと神原を見つめる老婆がいた。
着衣の乱れはないが、顔が真っ青だ。ほとんど髪の抜けた頭蓋の向こうに、人体解剖図が透けている。検診衣の内側が真っ赤だった。おそらくこの医院で息を引き取ったに違いない。目が合った途端にぶつぶつと何かを伝え始めたが、神原はそれを無視した。
「おれが死にかけていると言うのは、妄想だと?」
老婆の気配を感じながら言った。
「可能性はある。精神障害の薬を間違って処方されると、麻薬に似た症状が現れるときもある。落ちつきがなくなり、独り言が多くなる。見えないものが見えるようになり、虫が肌に這う幻覚や、体内に異物があるような錯覚に包まれる」
「おれに霊が見えるのは、幻覚だと言うのか?」
老婆のぶつぶつ呟く声がわずらわしい。ふと目をやると、どんどん他の連中が増えてきた。老婆の声に導かれるように、ビニールの衝立の向こうに影が増えていく。
「見えるのかね?」
「ああ。おれが狂っているというのか」
影がどんどん増える。
「ここは心療内科じゃないので、詳しくは言えない。きみの受け答えはしっかりしているが、若干の錯乱が見られる。よければ、知り合いを紹介しよう」
「そんなことはいいんだ。身体のことが知りたいだけだ」
「額の傷が目立つね。消毒して、包帯を巻こう」
「いや、放っておいてくれ」
医者はしばらく神原に何か言いたそうな顔をしていたが、やがてため息をついてその場で出来る限りの検査をした。
医者の落ち着いた対応に感化されて、神原もやがておとなしくなった。
結局のところ、健康で異常はないと言われたが、神原にはそれが信じられなかった。神原自身が片手をもう一方の手首に当てても、脈拍が遅く感じられるのだ。
「騒いで、悪かったが……」
医者から去ろうとする神原を老婆が目で追った。他の連中の叫びが聞こえた。だが、神原は無視した。かなりの努力が必要だった。
神原はまるで吐き捨てるように……
「あんた医者として、あまりいい腕じゃないな。あんたの代から、ここで何人か死んでるようだ」
「何だって?」
「幻覚じゃない。あんたがヤブなだけだ」
神原は病院を出た。
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