第22話 まだ死臭はしない

 死にかけている自分を救う方法など、神原浄には分からなかった。どうすればいいのか、見当もつかない。

 ……神原は神社に舞い戻り、水口の姿を探した。

 だが、いくら呼びかけても、舞い散る桜のなかに老人の姿を見つけることが出来なかった。

 このまま、神原浄は死者となるのだろうか。

 先ほど商店街で見かけたヤンキー学生の霊が思い出される。かれもまた、死んだ場所に囚われた地縛霊だ。そういった霊は、自身が死んだことに気づかず、心残りを抱えたまま、いつまでも死んだ場所を彷徨う。

 いまの神原浄には、死に至る原因となった出来事が思い至らない。

「どうすりゃいいんだ? どうすりゃ……」

 思わず、独り言を繰り返してしまう。

 同じ処を行ったり来たり……すれ違う商店街の買物客が、胡散臭そうに神原の姿を見る。

「そこのねーちゃん、シンナーくれよ」

 ヤンキー学生の霊、ユズルの声が聞こえた。

 相変わらず、煙草の自販機に向かって悪態をついている。まるでインターネットのバナー広告のように、同じアニメーションを繰り返しているようだ。

 心臓が止まったとき、それに気づかず霊になると――そうなると、記憶は固定されたまま、同じことを繰り返していても、自分では分からなくなってしまうようだ。いつまでも自分が死んだことに気づかず、生きていると勘違いしたまま彷徨うのだろう。

「無視かよ、ざけんな」ユズルが叫んでいる。かれは何年のあいだ、そんな悪態をつき続けているのだろうか。

 怖ろしい。

 神原の全身に冷たいものが走る。


 神原浄は、ダンボールにくるまっていた今朝の場所に向かった。

 そして、その場所に至ることになったルートを推理してみることにした。かつては刑事だったのだ。過去を辿ることで、記憶が蘇るかも知れない。死に至る原因を探さなければ……。

 ひとり捜査の開始だ。

 水口老人の計画に従いたいわけではなかったが、他にどうすることも出来ない。逃れがたい宿命に足を踏みこんでしまった。

 不安が、冷たいエネルギーとなって神原を奮わせる。

 片足を無くした少女を見た場所から、商店街を抜けて外へ。おそらく、少女はこの脇道を通ってきたに違いない。家庭菜園程度の収穫しかないと思われる田畑がちらほらあった。その向こうは数車線をまたがるバイパスで、矢河原の中央を流れる河川とほぼ直角に交わる。

 町の中央を貫く道路には、ひっきりなしに大型トラックやスポーツカーが過ぎ去っていく。誰も、この町に立ち寄ろうとは思わない。数百メートルごとに、道を横切る歩行者には不親切な押しボタン式信号機がある。向こう側へ渡るには、歩道橋かバイパスをくぐり抜ける地下道の方が早い。

 地下道は工場地帯への大通りにつながっており、数本に枝分かれして、そのうちの一本は川岸の土手へつながっている。地下道からは河川も見える。

 水口老人の話では、戦国時代には折れた矢で河が埋まったという。

 幅が五百メートルある矢河原の川岸は、公園となって埋め立てられている。用水路が分断することで、野球場やゴルフ場がそれぞれの区画に分けられている。

 ……そのどこかに死体が見つかったのだ。


 神原浄は公園岸を歩き、そこから用水路の風景を眺めた。

 神社の老人に死にかけていると伝えられた慄きが、懐かしい風景を見て少し落ち着いた。心臓に手を当て、まだ鼓動があることにほっとする。

 とんでもない悪に神原が触れてしまったことが原因だ――と水口老人は語った。その影響で、霊が見えるようになったという。それは刻一刻と死に近づいているからだと……この心臓はどれくらいもつのだろうか。

 少しずつ鼓動が無くなるのか、それともあるとき急にストップするのか。

 神原は、自身を匂ってみた。慣れた自分の匂いだ。

 バルデッサというコロンは、刑事時代の徹夜明けのワキの匂いを消すのに使ってから習慣となった。男がコロンをつけるのに反対する同僚もいたので、配慮してその量も微量だった。今はそのコロンの匂いも、アルコール臭と混じっていてよく分からない。

 だが、まだ死臭はしない。

 川は穏やかで深いが、そこにつながる用水路の淵には、朽ちた船の残骸やどうやって運んだのか分からないバイク、中古車の残骸が沈んでいた。チューブの無くなった自転車、かつては建物の一部であった廃材や割れた看板、ペットボトルや空き缶が浮いている。

 濁り、淀んだ川底はそれでも生きているかのように、ぶくぶくと絶えず泡を吹き出している。

 神原浄は、そんな掃き溜めにひとりの男がゆらめくのを見た。

 汚れたシャツに泥だらけのジャージにズボン……浮浪者を思わせたが、足どりはしっかりしている。

 霊ではない。

 やや薄い後頭部。メガネをシャツの裾で拭っては、なぜか川淵に目を凝らしている。手には、一冊の手帳があり、男はしきりに何かを書き付けている。

 ……見覚えがある。神原はその男をじっと見つめた。

 その気配を感じたのか、ジャージ姿の男が振り向いた。

 メガネを外した素顔には見覚えがあった。年齢とともに刻まれた皺があり、記憶よりも老けていたが、高校時代によく知った人物だった。

「佐々木!」

 神原浄に呼びかけられて、ジャージ姿の足が止まった。男は目を細め、やがて合点したように眉を上げた。

「……神原か?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る