第19話 矢河原の由来

 〝わたし〟には、終わらせたい物語があった。

 それはこの町で起こっており、わたしはずっとそれを見つめてきた。

 賢明な読者なら覚えているだろうが、わたしが他人の夢のなかに入れることは話したと思う。あらゆる生き物の夢を歩んできた。楽しいときもあった。しかし、悪夢が日々進化するのも見続けてきた。

 死んだ獣たちがトンネルに飲み込まれた情景もそのひとつだ。この町でわたしはあれに似たものをうんざりするほど目にしてきた。

 ……だが、わたしにはどうすることも出来ない。動けないのだ。

 だから、何とかしたいと思った。

 それを神原浄に押しつけようと思ったわけではない。それは信じて欲しい。神原にとって最悪の偶然が、わたしにとって都合の良い条件に合っただけだ。かれが、わたしのテリトリーに足を踏み入れたのは、なかば宿命のようなものだったのだ。

 この物語は、神原浄だけのものではないのだ。

 ……わたしのことを少し話そう。

 わたしの寝床は、浅い堀に囲まれた小さな無人神社で、祭りの時期には露店が並ぶ広場にある。石畳が数本の鳥居の元に並ぶ。五月という季節なのに、境内にはまだ桜が残っている。微風に流れていくつかの花びらが舞った。

 わたしは地縛霊だから、この場所を離れることが出来ない。心だけはわたしの意志に関係なく、他人の夢を彷徨うのだが、この神社から外へ歩くことは出来ない。

 わたしは神原浄に挨拶しようと近づいた。

 神原には遠くから霞のようなものが近づいてくるように見えたはずだ。

 わたしは、普段はモヤのような姿なのだが、久々に老人を装った。神原はわたしに警戒しなかった。

 ――わたしは笑みを浮かべ、神原を観察した。神経質そうな中年男性。だが、芯に強い意志が感じられ、好感を持てた。苦しみに強く、それを打ち砕く精神力を持っている。しかし、人生を苦しんでいるようだ。紙袋に隠れた酒瓶がそれを象徴していた。

「いい若いもんが、こんな昼間から酒をかっくらって……」

 わたしはもっとましなことを言うつもりだったのだが、考えなしに言ってしまった。

 神原は苦笑いを浮かべた。……だが、わたしのその言葉でかなり安心したようだ。かれは誰にも会いたくない一心でここを訪れたのに、不思議とわたしと会えて喜んでいるように見えた。

 わたしは古い羽織袴を着ている。藤が彩られた家紋がまぶしてある。たいていの霊は、死んだときの姿をそのままに、その後も生きる(霊なのに、生きているという表現も変だが)。大木の年輪のように、顔中に彫られたように重なる皺もそのままに。神原は、わたし顔に生きた年輪を感じたようだ。それを敬意に結びつける常識もあった。

「……すみません。出来るなら、桜を見ながら酌交わしたいところですが」

 わたしは、芽が出始めている枝葉を見上げた。

「桜の季節はもう終わりだね」

「失礼して、おれだけ頂きます」神原がそう言い、酒瓶をあおった。

「水口だ」

 わたしは名乗った。

「わたしは胃の腑を悪くして死んだ。酒も、もうこれ以上飲めんと言うほど飲んだ。きみがまだ飲んでない量を内臓に注いだよ」

「……おれが、あなたの姿を見えるのに気づいたんですか?」

 わたしは頷いた。

「何となく分かるものだよ。生きていたって、そうだろう? 気の合いそうな友人を見つけるときは、雰囲気で判断することもある」

「あまり友人がいなかったので、よく分かりません。だけど、この感覚は子供の頃からあった。でも、最近まで忘れていたんです。今朝、突然見えるようになったんですよ」

 わたしは、「続けて」と言った。

 わたしはひとつの〝企み〟を抱えていたが、本題に入る前にもっとこの男と話したかった。

「教えてください。見ず知らずの人に相談するのも気が引けるんですが……」

「何だね」

「あなたは、なぜ、ここにいるんです?」

「成仏していないからだ。霊というのは、天国地獄にまだ行けない者を呼ぶのだ。そうじゃないかね?」

「それを意識しているのに……?」

「迷っているからだ」

「霊は、自分が死んだと気づかない人間がなるものでは?」

「そうじゃない霊もいるんだよ。霊にもいろいろ。心残りをして現世にしがみつく者から、自分の〝役割〟を終えるまで仏様から待ったをかけられるものまで。いろいろだ」

 わたしは無人の社を眺めた。この社はずいぶん昔の火事のあと、縮小されてしまったのだが、以前は神主が控えていた。

「わたしはこの神社を好いておってな。生前から神主として、この場所と運命を共にしたいと思ってた。だから、体が朽ちた後も、性懲りもなくこうしておる。きっと、この石灯籠や鳥居が無くなるまで、ここにおるだろう」

「役割?」

 わたしは、こくんと頷いた。

「動けないのだ。堀の外には行けない」

 ゆるやかに社の奥まで神原を誘った。神原も素直について来た。当初はどう切り出すか迷っていたが、まるで導かれるようだった。わたしの意図に神原が従うように感じた。

 命運の歯車にわたしの体が噛み合っているようだった。

 小さな社のなかは、閑散とした部屋に屏風が並んでいる。城を中心に、戦国時代の争いが描かれている。墨の濃淡によって描かれたそれは、歴史を重ねた風格がある。炎が鎧兜の男たちや足軽を取り巻いており、どれも死にもの狂いの形相だ。誰が描いたのかは分からない。

 神原は開いたふすまから外を見た。

 境内から先ほど神原を驚かせた〝城の霊〟が見えた。

「子どもの頃には、あんなもの見えなかった。なぜだか分からないが、霊が見える感覚が研ぎ澄まされているような気がするんです……」

 屏風にその城が描かれている。

「あれが造られた当初は、金升城と呼ばれた」わたしは言った。

「なぜだか、知ってるかね? この矢河原の地には、金鉱があったんだ。山はたくさん削られ、そこから金が出た。いまもこの町の地面の下には、たくさんの空洞が開いている。戦国から江戸時代まで、この辺りは金を狙った戦ばかりが続いた。この町が〝矢河原〟と呼ばれるのは、文字通りに河原に矢を受けた死体が流れ着くことが多かったからだ。この地には無縁仏が山ほど眠っている。この地は、黄金に人の血がまみれる場所なのだ」



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