時の流れにさらされて

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下手話

 廃村まじかということで、せっかくだからと帰省した田舎はポツポツと古い家が立しているだけで、荒地や土壁の砕けた荒屋が多くを占めていた。


 コンクリートはかろうじて道に敷かれているが割れている箇所が目立つ。


 ふと、目に止まった川沿いの道路の端にBMWを停める。

 

 白いれきたちをせせらぎが撫でている。


 私は特に何でもなしに素足をつけた。

 程よい清涼感が足を包む。


 周りを見渡せば茜が山間を塗って照らし始め、まだ項垂れるような暑さがトンボと共に宙を筆先に乗せた絵の具のように限界集落のキャンバスを飾っていた。


 もうここいらを離れて四十年になるだろうか。

 四国の山奥は廃村になりかけている場所が多く、ここいらも例にはもれなかった。


 老いというものは悪徒いたずらにやってくる。

 目に止まったのはここでよく遊んでいたからだろう。そして若葉のいたりを思い出していたからだろう。

 

 近くの木々から紅く染まった葉っぱが白い髪にそっと舞い降りてきた。


 手で振り解くと川面に落ちて勝手に流れていった。


 次は腕をまくって水を手で掬ってみる。


 白くぼやけた反射光が手のひらで揺らぎを見せている。


 指の隙間に小さな隙間を作って水を戻す。


 ドボドボポロポロと小気味良い音がした。


 川の中に目をやると、自分の毛むくじゃらな足が目立つ。


 昔は手で魚を捕まえられるほど魚がいたような気がする。

 魚もいなくなるものなのかはたまた偶々なのか。

 半ばジジイの足が浸かるだけで他には何もなく、淋しい。

 

 何かないないか手を突っ込んで岩を退けてみるも、魚はやはり居らず。次は皺くちゃな手が目立つ。


 岩を握るのも今となってはあまりないだろう。趣味でするくらいの行楽登山で、手袋の上からちょっと掴むぐらいか。


 どちらかと言うとここ数年は毎日画面やらキーボードやらを触っている日々である。


 昔はオタクのものだと揶揄やゆされてきたものたちは今となっては欠かせないものになっている。

 

 オタクという言葉ですら、昔見た超時空要塞マクロスが始まりだったなだとか、まあそれなりにこの淋しい空間には余計なことを考える余地が十分にあったのである。


 そういえば、あの頃は夏ですら、現代の秋のような暑さはなかった。


 ただ、正直なところあの頃は刺激的で蒼かったといっても、それが「あの頃はよかった」と言い切れるのかはわからなかった。


 ちゃぷちゃぷと足を動かしながらちょいと川を歩いてみる。


 ありありと記憶が呼び覚まされる。


 窮屈な田舎を飛び出して、ビルが林立した人の巣窟に飛び込んでみたはいいものの、時代は少しずつ暗い時期に入っていった。


 同期は泡沫バブルのようにどこかにってしまったし、部下は疲弊していくばかりで自分の若手だった頃と比べて可哀想に感じ、辛かった。

 私は息子にいい思いをさせてやれなかった気がするし、自分にとって満足した人生を歩んでこれた気がしない。

 

 いっそ、ここにずっといたほうが良かったのかもしれない。そうすれば余計に傷付かずに済んだから。

 だから、あの頃がよかったなんて肯定すればするほどに今の自分に自信がなくなる。そしてそれをどこかで嫌がっている自分がいる。


 川面に自分の影がかかっている。

 しかし、それも周りに同化してきた。


 暗くなってきたか。


 航海薄明こうかいはくめいと呼ばれる空に星が浮かび上がってきた。

 

 街灯が全くないので、幾つもの輝きがその輪郭を帯びてくる。


 そして川に投影される、空。

 星がまるで流れていく。


 人間にとって、その茫漠すぎるスケールが圧縮されて、川に遍く時の流れをキネマティックにさらす。

 残留することなく浮き沈みを繰り返し、後悔も幸せも何もかも。

 

 この景色はもう見れないし、見ることもない。


 この目に、心のフィルムに焼き付ける。


 そうして夜の闇の中でゆっくり現像されていく。


 冷えてきた。

 うって変わり、夜は冬への誘いを予告している。

 

 「家に、えるか…」


 その途端、風が背中を押して、頬を撫でて突き抜けていってしまった。


 もう帰ってくんなよと言われている気さえした。


 時の風の、川の、記憶の流れにさらされた。


 男はその老けた顔つきの中、子供のような目の潤いを作って川から離れた。


 廃れた自然のそばで、不釣り合いな直6エンジンの音は遠ざかっていく———

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