【その日、僕たちは一人増えた】

 十年前。――島根県、神無し島。


 チチチチチ……という小鳥の鳴き声と羽音が同時に響いた。

 体を横たえたまま微睡んでいると、頬のあたりに温もりを感じた。柔らかな木漏れ日が、頭上から降り注いでいるようだ。感じるのは温もりだけではない。誰かの気配も。

「いーち」と何度か名前を呼ばれたので、いい加減に目を開けた。あんまり無視を決め込むと、『彼女』の機嫌が急降下してしまうのだから。


「あ、起きた」

「ふああ……。あれ? 僕、何分くらい寝てた?」


 島の南側にある花咲神社の境内。ここは、僕がよく昼寝をする場所だった。神社の境内で昼寝なんて罰当たりだ! と怒られそうだが、たとえばミャンマーのお寺では、真面目に礼拝する人だけでなく、昼寝をしに来る人も受け入れる自由な空間なのだという。

 ようするにここも、そういうのんびりした場所だってこと。


「んー、三十分くらいかな?」

「まだ寝足りない。もうちょっとだけ、寝かせてくれたらよかったのに」


 むくりと上半身だけを起こすと、巫女装束姿の女の子と目が合う。

 くりっとした瞳を真っすぐ向けてきた彼女の名前は花咲夏南はなさきかな。格好から想像される通り、ここ、花咲神社に住んでいる巫女である。

 ショートボブの髪をかき上げ、彼女は僕の隣にちょこんと座った。


「そんだけ寝たら充分だよ。この炎天下のなか寝てばっかりじゃ、ふやけちゃうでしょ」

「たかだか三十分だぞ」

「三十分もあったら溶けるよ。ん? いち的には、溶けるのとふやけるのとどっちがいい?」

「煮るのと焼くのとどっちがいい? みたいな表現やめてもらっていいですか。どっちも嫌です」

「あはは。でも、すっきりしたって顔してる」

「まあね」と言って、両手を上げて伸びをした。「昔の、夢を見ていたんだ」

「夢」と夏南が話に食いついてきた。

「そう。僕がまだ小さかったころにね、この島にある大銀杏の木の下で、同い年くらいの女の子と会ったの。その時の夢」

「ほうほう」

「とっても歌が上手な子だった。歌声に引き寄せられるように山ん中を歩いて行ったら、銀杏の木の真下で彼女が歌ってたんだよ」

「へえ、どんな子だったの?」

「それがさあ……。全然覚えてないんだよね。名前は聞いてないから当然として、顔も。なんとなく、可愛かった、という記憶はあるんだけどな」

「鼻の下、伸びてるよ」

「うそ!?」


 慌てて表情を引き締めると、「冗談だよ」と言って夏南がケラケラと笑う。


「もしかして、都の初恋だったりしてね」

「まあ、あながち間違いじゃないのかもなあ。じゃなければ、繰り返し夢にみる、なんてこともないだろうし」

「ん、そういうもんかな」


 夏南がちょっとだけ拗ねた顔をした。何に拗ねたのかはわからないが、コイツは感情の変化がすぐ顔に出るのだ。かと思えば、もう鼻歌を歌っていた。ころころ変わる表情、面白い。

 この熱気のなか、色白な横顔にしかし汗はひとつも浮いていない。


「夏南はいいよなあ、汗かきじゃなくて」

「今日ってやっぱ、暑いよね?」

「空見たらわかるでしょ?」

「だよね。……暑いならさ、川で泳ぐってのはどうだい? ここに来る途中の川で、真人たちが泳いでいるの見たよ。泳ぎ得意なんだし、都も行ってみたら?」

「川、かあ……。悪くはないね。行ってみっか」


 んじゃ、と掛け声とともに立ち上がると、僕と夏南は並んで歩き始める。

 神社の赤い鳥居をくぐり、長い石段を下り切って県道に出た。見上げた空は清々しい青で、立ち上る入道雲が、ソフトクリームのような涼し気な外観をさらしていた。

 夏らしい陽光を浴びて煌めく海面が、視界のずっと先に見える。ガードレールを挟んで眼下に広がっているのは、連なる瓦屋根の家屋。海がほど近い場所にあるこの街は、多くの家が瓦屋根だ。

「夏南も泳ぐ?」と歩きながら隣の夏南に提案した。このまま道なりに歩けば、目的地である川には十分じゅっぷん足らずで着く。


「ボクはいいよ。神に仕える身ですしね。柔肌を晒すのはご法度なんで」

「んなこと言って、本当は水着になるのが恥ずかしいんだろ」

「そういう訳じゃないよ。根本的に無理なの」

「神様でもさ。暑いーって思ったりするのかね?」

「うわー、女の子に水着の話題振っておいて、放置するとか正気を疑うね。そこはもっと食いついてきなさいよ」

「ははは」


 ここ、神無し島は、『神様が住む島』としてその名が知られている。

 島根県に属している島で、面積は二五〇キロ平方メートル。人口は約一万五千人。さほど大きい島ではないが交通の便は思いのほかよく、本土からの移動手段は、二時間半かけてのフェリーの他に、一日一便とはいえ飛行機も飛んでいる。

 島の守り神を祀っているとして有名な花咲神社。

 日本の快水浴場百選にも選ばれている砂浜。

 島の中央にそびえている、年中枯れない大銀杏の木など、風光明媚ふうこうめいびな場所が多いことから観光地としても有名だ。

 そんなわけで――。


「こんにちは」

「はい、こんにちは」


 道を歩いていると時々観光客とすれ違う。

「ねえねえ、今のってカップルかな?」と興味津々で振り返った夏南に、「たぶんね」と答えた。


「なんか釣り合ってなかったね」

「どっちがどっちにだよ。失礼だからやめろ」


 ところが、神様が住む島、なんていわれがあるわりに、島の名前は神無し島なのである。

 なんとも皮肉めいた名称だが、これにはちょっとしたわけがある――。


 とかなんとか思っているうちに、島で一番大きい七尾ななお川が見えてきた。橋の上で佇んでいる女の子をみつけ、「おーい!」と僕は手を振った。


「都くん」


 そう言って、こちらに顔を向けたのは新條光莉しんじょうひかり。親交の深い、幼馴染の女の子。ゆるいくせ毛のミディアムボブをふわりと揺らし、大きな瞳をまん丸に見開く。

 快活そうな見た目をしているが、運動が苦手で、案外大人しい性格である。

「みんなは?」と駆け寄って声をかけると、「ほら」と言いながら橋の下を彼女は指差した。

 橋の欄干に手をつき見下ろすと、五メートルくらい下の川で泳いでいる同級生らの頭が幾つか見えた。


「1、2、3、4……5人。なんだよ、涼子以外、いつもの面子が勢ぞろいじゃん。……っと、そんな御託はともかくとして」


 ティーシャツを脱ぎ捨て欄干を乗り越えると、僕はそのまま川にダイブした。

 落下していくなか「都くん!」という悲鳴じみた叫びが背後から聞こえたが、後ろ向きに親指を立てて次の瞬間どぶん、と水の中に沈んだ。

 もがが。

 この場所は河口付近なので水位も十分じゅうぶんにある。足がつかないため泳ぎが苦手だとちょっと危険だが、水泳部所属の僕にしてみたら、こんなの文字通り屁の河童。


「やっぱ来たか都! 夏と言ったら、海だよな!」


 ぶはーッと水から顔を出した僕に声をかけてきたのは、同じ水泳部所属の鮫島真人さめじままさと

 つんつんと逆立てた髪の毛と、日焼けした浅黒い肌がトレードマークのスポーツマンだ。


「なーにが海だ。ここは川だろうが」


 川幅も広いし、まるで海みたいに解放感があるけどな。


汽水域きすいいきって知ってっか? 都。海水と淡水が交じり合う場所のことを、そう言うんだ。だからここは、半分海みたいなもんなんだよ」

「じゃあ同時に半分川だろうがよ」

「細けえな」

「どっちがだ」


 くだらないことで言い争いをしていると、「おーい、まさとー!」という声が頭上から降ってくる。


「ん?」


 もみ合っていた真人を開放して振り仰ぐと、橋の上からこちらを見ている女の子の姿が、透明な空をバックに映えた。

 僕らの仲良しグループ最後の一人、南涼子みなみりょうこだ。長い髪を風になびかせ麦わら帽子を右手で抑えている彼女は、切れ長な瞳から受けるクールな印象と異なり、わりと活発だ。このへん、むしろ光莉とは正反対。


「私もそっち行っていーい?」

「おお、もちろんだ。でもお前……」

「ちょっと涼子ちゃん! 本気で言ってるの?」


 真人と光莉が止めるのもどこ吹く風。ミニスカートのまま欄干を乗り越えた彼女は、川に向かって大きくジャンプする。涼子の姿が逆光によりシルエットとなる。はためいたスカートの奥から白いものがチラリと――。


「み、見え」


 なんて動揺している暇もなく、どぶん! と水飛沫きを上げて涼子が川に落ちた。「ほら都。ちゃんとサポートしてあげて」という夏南の指示が頭上から聞こえ、「わかってるよ」と返して泳いで向かう。ところが落ちた当の本人は、素知らぬ顔で背泳ぎをしていた。


「無茶しやがって」

「イチには言われたくない」

「それもそうだ」


 今さら自分の格好に気が付いたのか、「もしかして見えた?」としおらしい態度で涼子が上目遣いをする。


「見えてないよ」

「なにが、とは言ってないのにその反応はオカしい。これは見えたな?」


 とか言いながら、満更でもなさそうな涼子。なんでそんな顔するんだよ。

 チラリと目を向けると、水をたっぷりと吸い込んだブラウスの生地から、白い下着が透けて見えた。


「と、とにかく! 向こうの岸まで泳いで競争だ」


 照れ隠しに顔を背けて泳ぎだすと、「あ、誤魔化した!」とフグみたいに頬を膨らませて涼子が追いかけてくる。

 いくらお前の運動神経が良かったとしても、泳ぎじゃ僕は負けないぜ。

 泳げない光莉と夏南が橋の上から見守るなか、僕たち七人は禁欲的に遊び続けた。

 あがる歓声と舞う水飛沫。

 そのとき突然真人が、素っ頓狂な叫びをあげた。


「……あれ!?」


 指折り何かを数えながら、きょろきょろと辺りを見渡した。


「どうしたんだよ?」

「ここで遊んでいるのってさ、全部で七人だったよな?」

「そうだぞ」と僕は答えた。「さっき数えたから間違いない」

「でもさ。ここに八人いないか?」

「八人? いや、そんなわけないじゃん」


 あれ? でも待てよ。さっき数えたとき泳いでいる頭が五つあって、そこに僕、光莉、涼子を加えたら八人にならないか? でも。


「この学区に住んでる中二の奴って、全部で七人しかいないじゃん」


 そう。そうなのだ。


「さっきから、なに寝ぼけたこと言ってんの」と腰に手を当て数え始めた涼子だが、段々血の気が引いた顔になる。


「本当だ……。八人いる……なんで」


 ちゃんと数えろよ、と動揺を隠して涼子の脇に立つと、川べりと、橋の上に居る人物の名前を順番に呼んでいく。


「タケシ。ミホ。真人。僕。涼子。ミノル。カエデ。光莉……あれ? ほんとだ八人」


「どういうことだよ?」「でもさあ、全員知ってる顔だよ? 名前だってちゃんとわかるし」「は? わけわかんねえ」

 寝耳に水、という顔を全員がしている。困惑の声が錯綜さくそうして騒然とし始めた空気を切り裂いたのは、「こら! クソガキども! ここは遊泳禁止区域だから泳いじゃダメだっつってんだろ!」という自治会長田中たなかさんの金切り声だ。

 商店街の方角から一直線に駆けてくるおっさんの姿に、蜘蛛の子を散らすように僕らは逃げ出した。


「やべー、鬼の田中だ。あの人うちのお得意さんだから、見つかったら親父にチクられちまうよ」

「もう手遅れだろうがよ! 真人!」


 水着になっていた連中は着替えを片手に。服を着たままだった涼子と僕は着の身着のまま。

 僕が脱ぎ捨ててあったティーシャツは、光莉が回収してくれていた。


「ナイスアシスト。光莉」


 逃げ足だけは速いもの。僕たち『八人』の姿は、あっという間に川のほとりから消えてなくなった。

 しかし、何度数えても結果は変わらず。

 この日、この瞬間から、七人だったはずの僕たち仲良しグループは、一人増えて八人となったのである。


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