錠前師

あべせい

錠前師



「オイッ、待て! イタ、イタイッ!」

 男が悲鳴をあげて、大げさに路上に転がった。

 男の脇を走行していたベンツが停止して、ドライバーが降りてくる。黒いサングラスを掛け、紺のスーツでカッコよく決めた女性だ。

 晴れた日の夕暮れ。

 女性は、うずくまっている男のそばに立ったが、声をかけようともせず、じっと見ているだけだ。

 2分が過ぎた。男は、うずくまったまま、地面すれすれにある視線を、目の前にある女のヒールから、そっと上にあげていく。タイトスカートから伸びる見事な脚線美……。

「アッ! おまえ……」

 男は咄嗟に顔を伏せ、四つん這いのまま逃げようとする。

「あなた! いつまでこんなこと、やってンの!」

 サングラスの女が一喝した。

 男の足が止まった。もう、諦めるしかない。男は女のほうに向き直り、すべてを投げ出す覚悟をした。女は慶子、男は佳樹。

 慶子は後ろを振り返り、停止している車がライトをパッシングさせているのに気がつくと、

「早く乗りなさいよ! ここじゃ、通行の邪魔でしょうがッ!」

 そこは、道幅4メートルに満たない一方通行だ。

 佳樹は申し訳なさそうに、おずおずと助手席に乗った。慶子が素早く運転席に乗りベンツが発進する。

「どこに行くンだ?」

「決まっているでしょ。本庁よ」

「エッ、桜田門、ってか!」

 佳樹は、すました顔の慶子を見る。

 慶子は前を見たまま、ニコリともしない。

「あなた、わたしを何だと思ってンの。本庁捜査3課の課長よ」

「しかも、警視さまだ」

「前の亭主だからって、見逃せると思っているの!」

「いッ、いや、そんなことは……」

「いままで、何件やったの」

「2つだけだ」

「いくら、とったの」

「エー……」

 佳樹は思い出しながら、

「最初が980円……、次が1380円……」

「なに、それ。スーパーの値札じゃないのよ」

「おれは必要以上には要求していない。980円は、駅前のラーメン屋の夕食セットだ」

「夕食セット?」

「麻婆豆腐定食に、生ビールがついて980円」

「あなた、ホントに麻婆豆腐が好きなのね」

「おまえの味が忘れられないンだ」

「バカ言ってンじゃないわ。1380円は?」

「『清川』の夕食セット」

「清川って、うなぎ屋じゃない」

「そうだ。おまえと2人で初めて行った名店。うなぎ丼に生ビールで1380円だ」

「あの清川が、そんな安いわけないでしょ」

「うなぎは国産じゃない。中国産だ」

「あの清川が中国産うなぎを使っている、っての!」

「代が替わったンだ。3代目は、とにかく儲けたいらしい」

「3代目が家をつぶす、ってわけね。980円と1380円、本当にそれだけ?」

「そうだ」

 慶子はつぶやくように、

「被害金額が合わない」

「パチンコでスッて、メシ代がなくなったからだ」

「確認します。最初の被害者は大きなつばの帽子を被った中年女性」

「紫色のな。趣味の悪い女だ。国産のプレジデントに乗っていた」

「2人目は、ピンクのオープンカーに乗った若い女」

「服もド派手なピンクのワンピース。胸の谷間が大きくえぐれていた……」

「あなた、胸の大きな女に弱いから……」

「おまえも大きい……」

 佳樹、慶子の胸に視線を注ぐ。

「なに言ってンの。いまは取り調べ中よ!」

「ごめん」

「被害額が合わない。一人目の紫の女は3万980円、2人目のピンクの女は3万1380円と申告している……」

「オイ、冗談じゃないゾ。ひとり3万円もサバを読んでいる、ってのか」

 慶子は、つまらなそうにポツリと、

「わたし、6万円も余計に弁償してやった……、前の亭主のために」

「おい、なにか言ったか」

 慶子は気持ちを切り換えて、

「あなた、仕事は?」

「いまは便利屋だ」

「カギ屋はどうしたの?」

「あれは……もう、やめた」

「わたしとの出会いのきっかけになった仕事なのに……」

 慶子はちょっぴり哀しげな表情になったが、

「錠前師の腕が泣くわよ」


 慶子は思い出す。

 2年前、中国人窃盗団のアジトを突きとめ、本庁と所轄の合同捜査斑12名が夜明けと同時に急襲することになった。

 そのときアジトのドアロックを解除する必要からカギ屋が呼ばれた。

 カギ屋の会社にはほかにも人はいたが、なぜかこの佳樹が来た。

 本庁捜査3課が出張る重大事件なのだから、カギ屋の社長クラスが来てもおかしくないが、カギ屋の社長は警視庁のお偉方を相手に接待ゴルフで多忙、カギ屋の部長は取引のある金庫屋の女社長と熱海で密会中。で、腕は立つが最も暇なこの男が夜明け前の眠い仕事を押し付けられた。

 慶子だってそうだ。本庁の課長が現場に出向くなんてことは滅多にない。しかし、慶子は新任だった。

 交通課の課長代理から捜査3課の課長に昇進したばかり。捜査3課がどんなことをするのか、頭ではわかっていても現場に立つのと立たないのでは、この先、指揮官としての気構えに影響が出る。慶子はそう考えて現場に赴いた。

 佳樹の腕は確かだった。精巧に出来たシリンダー錠だったが、特殊なカギ針2本を片手で操作して10秒足らずで解錠した。

 わずかに開いたドアの隙間から、別の捜査員がすばやくワイヤカッターを差し込み、ドアチェーンを切断。大きく開いたドアから、10数人の捜査員が一斉に室内になだれ込んだ。

 あとに残された形になったのが、慶子と佳樹。互いの第一印象は、可でも不可でもない。

「あなた、カギ屋さん?」

「いや、錠前師だ。あんたもデカか?」

「いいえ、わたしは刑事を指揮する管理職。警視よ」

「その年でか?」

「これでも34才よ」

「おれの一つ下だ」

「用が済んだら帰っていいわよ」

「まだギャラをもらってない」

「いくら?」

 慶子はスーツの内ポケットから財布を取り出した。

「出張費込みで、5万3千円」

「エッ、10秒足らずで!」

 慶子は初めて目を大きく開いて佳樹を見た。

「10秒だろうと、10時間かかろうと、この手のカギは、1回の解錠に税込み5万円、あとの3千円は出張代だ」

「高くない?」

「それはカギが開いたから、そう思うンだ。開く前はだれもが安いと思っている」

「10秒5万円なら、わたしより高給取りだわ」

「いくらもらっているンだ?」

「年収900……」

「なにィ、900万!」

「驚くことはないでしょう。あなただって、それくらいになるでしょう」

「毎日、こういうオイシイ仕事があれば、な」

「ないの?」

「月に1回、あるかないかだ」

「民間は不景気なのね。5万円のうち、あなたの取り分は?」

「会社に20%もっていかれるから、4万だ」

「あなた、どんなカギでも開けられる?」

「人間社会のものなら、開ける自信はある」

 慶子は何を感じたのか、佳樹をジッと見つめて、

「わたしのでも、開けられる?」

「あんたの?」

 佳樹もいつの間にか、迷宮に入っていた。

「わたしのカギは、片手では無理よ」

「エッ!?」

「これ、わたしの名刺」

 と言って、財布に挟んである名刺を手渡す。

「捜査3課課長 本来慶子(もときけいこ)……」

「あげるンじゃないわよ。裏にあなたの連絡先を書いてッ、早く! ほらッ、これペン」

 ボールペンを差し出した。

 そのとき、部屋の奥から捜査員たちが、手錠で数珠つなぎになった窃盗団6名を引き連れ、どかどかと出てきた。

「課長、全員確保です」

「よくやったわ」

 慶子はぼんやりした頭で、部下たちをねぎらう。

 そして、捜査員の一人に、

「あなた、このカギ屋さんから請求書をもらって経理に回しておいて。あなたたちは先に本庁に戻って、事情聴取を始めてください」

「課長は?」

「わたし? 思い出したことがあるから、あとで地下鉄で帰る」

「お先に」

 捜査員と被疑者たちは警察車両6台に分乗して早々に引き上げた。

 辺りは、元の静けさを取り戻す。どこに隠れていたのか、佳樹が慶子の前に現れた。

「名刺、お返しします」

 課長と知って、警戒している。

 慶子は名刺の裏を確かめる。数字が書き連ねてある。

「オイシイ仕事があれば、また連絡するわ」

「あ、ありがとうございます」

 佳樹は畏まって、一礼した。

「あなた、わたしに頭を下げているンじゃない。警視庁に頭を下げているだけでしょ」

「エェ、まァ……」

「仕方ないか。じゃ、さよなら」

 慶子は踝を返し歩き出す。

 慶子は考える。

 どうしてあんな男に引かれるのだろうか。初めて会ったあんな男に。

 恋人はいた。いまはいない。男の見栄えはふつうだ。しかし、あの男の眼に、引き寄せられる。そうか。あの眼は、亡くなった父の眼だ。大好きだった父。

 お父さま……。わたしが10才のとき、お父さまは35才の若さで亡くなった。母とわたしを残して。

「慶子さん!」

 慶子は振り返る。こんなところで名前を呼ぶヤツがいるなンて。

 佳樹だ。赤と黒の単車に跨っている。

「こんなものでよければ、お送りさせてください」

 慶子の眼が輝く。

 単車にはあこがれているが、機会がなくて、まだ免許をとっていない。

 慶子は単車のそばに走り寄る。父も単車に乗っていた。ハーレーだ。まだ1000キロも走っていなかった。前に飛び出して来た車を避けようとして転倒。即死だった。そのハーレーはほこりをかぶったまま、納屋に眠っている。あのハーレーは……。

 佳樹は常時車体に備えつけているもう一つのヘルメットを慶子に差し出した。

 2人はこうして出会い、3ヵ月で結婚した。


 結婚するのは簡単だが、結婚生活は維持するのが容易ではない。2人の場合も同様だった。

 佳樹は自分の姓を嫌い、慶子の姓本来を使うことを決め、本来佳樹(もときよしき)にした。

 最初のズレは、生活リズムだった。

 公務員の慶子は決まった時間に自宅を出て、休日も週2日と決まっている。一方の佳樹は、結婚と同時に会社をやめ、渡りの錠前師になった。

 懇意にしているカギ屋から依頼を受け、仕事に出る。しかし、仕事の依頼は不定期。出かける日も時間も前もってはわからない。予定は立たない。

 真夜中でも依頼は来る。いやなら断わればすむが、断われば次回仕事を回してもらえなくなる恐れが強い。

 慶子と一緒に夕食をとることは、週に3日あればいいほうだ。自然、佳樹が2人で借りたマンションにいて、家事全般をするようになった。

 料理を作って、慶子の帰りを待つ。しかし、元来佳樹は腰の落ち着かない性格だ。錠前会社の社員を嫌い、渡りの錠前師になったのもそのため。

 1ヵ月もたつと、じっとしていることが出来なくなり、パチンコ、競馬、競艇と出歩くようになった。

 仕事がほどよく入ればいい。しかし、時には1ヵ月全くお呼びがかからないことがある。遊びの金が続かない。慶子の財布から無断で失敬する。

 慶子も当初は許していた。好きで一緒になった男だ。少しくらいの小遣いは仕方ない。当然の出費だ。そう心得ていたが、佳樹は徐々に、慶子と顔を合わせるのを避けるようになり、金だけくすねて外出する。

 マンションの住人の目もある。まるでやくざのように昼間からぶらぶら出歩き、真夜中過ぎまで帰って来ない。

 慶子が我慢出来なかったのは、女だ。全くの誤解だったが、佳樹が同じ階の女性の部屋に出入りしたのが、いけなかった。

 25才と慶子より9才も若くて、美形。自称タレントのタマゴで、芸能プロダクションに所属しているが、仕事はエキストラ程度の端役ばかりだ。

 佳樹は、その自称タレントの絵夢子から、宝石箱のカギをなくして困っている、と相談をもちかけられた。佳樹が錠前師だとどうして知ったのか。

 慶子は入居時に自治会用に提出した職業欄に、妻「公務員」、夫「キーロック研究家」と書いた。おしゃべりの管理人が、それを絵夢子に漏らした。

 慶子は一つでも多く、佳樹に錠前の仕事が入ればと思って具体的な職業名を書いたに過ぎない。本来なら、「自営」でいいのに、だ。

 その管理人とは、この11階建て38室の賃貸マンション「境ヒルズ」のオーナーの息子で、会社勤めに耐えられなくなり、入社1ヵ月で退社した境為雄。

 父親は仕方なく、このマンションの管理を任せ、最上階に彼の自宅を設けた。玄関ホールに管理人の小部屋があり、本来なら管理人を雇ってそこで張り番をさせるのだが、父親は少しでも息子が世間に交われるようにと為雄を管理人に据えた。

 ところが、この為雄、住人のプライバシーに関心を持つだけでなく、恋心を抱いたため、後々トラブルが続出することになった。

 佳樹はエレベータ内で出会った絵夢子から、宝石箱を開けて欲しいとせがまれ、彼女の部屋を訪れた。佳樹のカギ開けはすぐに終わった。

 絵夢子は佳樹が片手一つで宝石箱を開けると感激の余り、抱きついた。宝石箱の中には、ダイヤのリングやネックレスのほか、百万円の札束が2つ入っていた。

 絵夢子は資産家の娘で、金に不自由はしていない。芸能界に憧れているが、死に物狂いで目指そうという気迫がない。

 佳樹は、絵夢子の金が気になった。貧すれば鈍するだ。絵夢子はカギ開けのお礼に、3万円を出したうえ、3日後の土曜に、帝国ホテルのディナーをご馳走した。

 佳樹は絵夢子の体には関心はなかったが、その夕食の帰り、部屋に寄っていってほしいと言われるまま中に入った。

 絵夢子の目的は、佳樹を誘惑して、慶子にやきもちをやかせる。関係をもつ気はないが、佳樹の男心をくすぐり、弄んでやれ、と考えた。

 しかし、絵夢子の計画は空振りに終わった。佳樹は、絵夢子がテーブルにウイスキーを出したのを見ると、彼女が酒のつまみをとりにキッチンに立ったすきに、そっと部屋を出た。

 ところが、絵夢子の部屋のドアを開けたとき、佳樹はちょうど帰宅した慶子とぶつかった。

 慶子は管理人の為雄が言っていたことが、ウソではなかったと思った。おしゃべりの為雄は、3日前、佳樹が絵夢子の部屋に長居していたと告げていた。

 佳樹と慶子は結婚して1年がたっていた。

「カギ開けを頼まれたンだ」

「そォ……」

 2人は絵夢子のドアの外で、それだけの会話をして自宅に戻った。

 慶子は以来、その話題に触れなかった。それが却って、佳樹を不安にした。

 絵夢子は佳樹にとって好みのタイプではない。しかし、一瞬にせよ、淫らな考えがよぎったのも事実だ。佳樹には後ろめたさが残った。

 一方、絵夢子は、佳樹から袖にされたことに腹を立てた。いままでそんな男はいなかった。どの男も鼻の下を伸ばし、絵夢子のいいなりだった。

 体を与えることはしないが、従わせることに快感を覚えていた。それが佳樹には通じなかった。許せないと思った。

 2日後、佳樹はカギ屋の依頼を受け、仕事先に向かおうと愛用の単車でマンションを出た。

 と、右側から一台の乗用車が追い越しをかけるようにやってきて、単車と並んだ。走り出して1分とたっていない。

 佳樹は危険を感じて単車を左に寄せ、追い越させようとして車を振り返った。絵夢子だった。絵夢子はニッと笑みを浮かべている。その笑顔の意味がわかったのは、後からだった。

 絵夢子の車がいきなり、ハンドルを左に切った。単車の前に、車のボンネットが出る。佳樹は慌てて左にかわそうとしたが、バランスを崩して転倒した。

 幸い怪我はない。すぐに絵夢子は車を止め、佳樹のそばに駆け寄った。そして、驚いたことに、

「すいません。お怪我はありませんか。わたし、先を急いでいまして……これでお許しください」

 と言い、手に持っている財布から3万円を抜いて、佳樹のジャンパーのポケットに押し込んだ。

 歩道から数人の通行人がそのようすを見ていた。

 その夕刻、佳樹がカギ開けから戻ると、2人の男が玄関ドアの前に立っていた。赤塚署の刑事だった。

「あなたに恐喝された、って訴えがありました。署に来ていただけますか」

 佳樹はすぐに昼間の絵夢子のことだと考えたが、素直に従った。取り調べ室で、佳樹は事情を説明した。ポケットには、ねじこまれた3万円が、まだそのまま入っている。

 恐喝なんてとんでもない。単車には転倒した際のキズがある。その修理代と思えば、3万円は妥当かも知れない。しかし、こちらから要求したのではない。

 刑事は納得しなかったが、帰宅は許された。

 ところが、佳樹が帰ると、珍しく慶子がいて、夕食の準備をしていた。佳樹はついうれしくなって抱きしめた。

 慶子はニコリともせずにエプロンを外し、テーブルにつくように佳樹に命じた。

 食卓には、ステーキとサラダ、スープ、ライスが並んでいる。

 佳樹が「いただきます」と言い、ナイフとフォークでステーキを食べにかかると、慶子がコーヒーカップを口に運びながら、

「別れましょう」

 とだけ、言った。

 唐突だった。

 佳樹が警察から帰宅を許されたのは、慶子の口添えがあったことは明らかだった。しかし、佳樹はそのことを確認する気にはなれない。

 絵夢子とのことがなかったら、こんな結果にはならなかっただろう。全くの誤解だが、慶子のような女と一緒に暮らすことは土台無理な話なのだ。

 警視庁警視と渡りの錠前師。佳樹は1年も続いたことをヨシとすべきなのだと思った。

 佳樹は翌日、荷物をバッグ一つにまとめてマンションを出た。そして、2日後、ふた駅離れたところに、小さなアパートを見つけた。


 あれから半年になる。

 慶子のベンツは幹線道路に出た。桜田門に向かう道だ。

 しかし……。佳樹は思う。おれのような、ちっぽけな当たり屋を本庁が扱う、ってのか。しかも、本庁の課長が直々に。

「慶子、いや、慶子さん……」

 慶子の返事はない。

「本来さん」

 慶子がチラッと振り向く。

「なァに?」

 慶子の機嫌のよいときの声だ。私生活でしか、出さない声……。

「おれは犯罪者だ。見逃してもらおうなンて思ってやしない」

「それはいい料簡だわ。佳樹……」

「しかし、おれのような者がキミに捕まってこのまま裁判になったら、キミの名前も公になる。おれはいいが、慶子に申し訳ない」

「それは、困るわね」

「だから、いま思いついたのだが、こんなことはどうだろうか?」

「なに?……」

 慶子の視線が止まる。

「おれはこれから、駅で置き引きでもやって捕まる。それでムショに入る。それで、これまでの罪の償いの代わりにしたい。裁判では結婚歴は決して明かさない……」

「それもいいけれど……」

 突然、仮面ライダーのテーマ曲が響く。慶子の携帯の着信音だ。

 ライダーだった慶子の父が好きだった曲。

「もしもし……」

 慶子は車を歩道に寄せて停止させた。

「……そォ、入れないの」

 慶子は助手席の佳樹を見る。

「ちょうどいいわ。いまから本庁専属の錠前師を連れて行く……」

 慶子はスマホを閉じると、

「この車はいまから緊急車両になるわ。しっかり捕まっているのよ。あなたは、もう捕まっているのか」

 慶子はダッシュボードから赤ランプをとりだすと、車の屋根に乗せ回転させる。そして急発進してUターンした。

「慶子、どうしたンだ。事件か」

 慶子はグングンスピードをあげる。

「あなたの好きな絵夢子が、管理人のお坊ちゃんを刺した、って110番があったの。現場はお坊ちゃんの自宅。そこへ行くの。と言っても、絵夢子やわたしたちがいたマンションね。お坊ちゃんの自宅は、あのマンション最上階、11階のワンフロアよ」

「なにがあったンだ」

「あのお坊ちゃんは会社勤めもできないおバカさんよ。それでも、女性には目がない。絵夢子にもちょっかいを出していて、絵夢子からは所轄にストーカーの被害届けが出ていた。同じマンションだから、わたしもその話は聞いていた。お坊ちゃんは、絵夢子が佳樹、あなたを誘惑していることがおもしろくなかったみたい」

「あれは誘惑じゃない。おれを弄ぼうとしただけだ」

「そのようね。とにかく、お坊ちゃんには接近禁止命令が出て、彼は玄関ホールの管理人ブースに入ることが出来ず、最上階の自宅にこもっていた。しかし、それが我慢できなくなったのか、絵夢子から仕掛けたのかわからないけれど、10分ほど前、お坊ちゃんの自宅から、男の声で、「刺された。女も動けない」って通報があった。で、パトカーと救急が駆けつけたけれど、ドアはロックされていて中に入れない、ってわけ。所轄のだれかが、わたしがそこの住人だと知っていて、ここに連絡を寄越したのね」

「おれが行ってどうするンだ」

「あなた、いままで何を聞いていたの」

「エッ」

「そんなことだから、組織で働けないのよ。いいッ。あなたは本庁が依頼する専属の錠前師なの。これからは、民間の錠前屋じゃなくて、本庁専属の錠前師を使おうということになって、私はあなたを推薦した……」

 前方に見覚えのあるマンションが現れた。

「慶子、おれの当たり屋はどうなる」

「私が自前で片をつけたことを穿り返さないの! あァ、わたしはどうしてこんなバカを好きになったンだろう。いやになっちゃう……」

 ベンツがマンション前に到着した。

「でも、ヨリは戻さないからッ。いいわね。わかったら、早く、降りて、仕事よ!」

「はッ」

 佳樹は、慶子を追って6ヵ月ぶりに、なじみ深いマンションに入っていった。うれしくて、こみあげてくる笑いを抑えることができずに……。

                 (了)


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錠前師 あべせい @abesei

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