マジックとトリック
つばきとよたろう
第1話 旅立ち
男の子は、先ほど二人の男がやったふうに真似してみた。まだ五歳に満たない可愛らしい指が、宙で奇妙な文字を描いた。――小さな流星が美しく輝き、一瞬にして恐ろしい蛇の姿に変身すると、襲いかかってきた。それと同時に、山高帽の紳士が胸のポケットから、お菓子のスティックを取り出し、軽やかに振りかざした。恐ろしい蛇は、たちまち狐色のドーナツへと変身した。山高帽の紳士はそれを一つつまんでかじり、口をもぐもぐさせている。間違いない。本物のドーナツだ。まぶしい閃光が車両の天井で灯って、きらめきながら流れ落ちた。まるで魔法のようだった。
翌朝、その力は奪われていた。が、男の子にはそれが理解できないから、昨夜の不思議な体験は、全て夢の中の出来事だと思うしかない。現実には、そんな不思議なことは起こりえないのだ。
それは、ひどい雨降りの夜だった。こんな夜には、誰もが家の奥へ入って、外でどんな物音が聞こえても、雨風のイタズラくらいに思って、知らん振りを決め込むつもりでいた。また一頻りに雨風が屋根の上で巻き起こり、あらゆる建物をたたいて駆け抜けた。しかも時計の針は、十時半を回っていた。空が明るければ、素晴らしい旅立ちと言えようが、明かり一つ存在しない真っ暗な夜空は、そこに現れる光があるとすれば、激しい稲妻の一筋だろう。
そんな暗闇の間に、一つの灯火が灯った。そればかりか、遥か上空にかかわらず、傘を掲げた人影が、嵐の真っ直中を確実に飛行してくるのが見えた。しかし、この悪天候では列車の乗客の中に、その灯火や人影に気づいた者はいなかっただろう。びしょ濡れの男にも、上空の怪しい灯火は見つけられなかった。それでも男には本能的に、この寂れた町に異質な気配を感じ取っていたに違いない。
そんな不穏な日に、列車へ乗るのは真面な奴らではない。黒服に黒マント、黒でなくとも、暗闇に紛れるのにふさわしい鼠色の服を着ていた。その癖、たくさんの荷物を両脇に抱え、大きな鞄を提げ、できるだけ目立たない振りをして、列車の席に着くと、ただの旅行客を装っている。そういう乗客ばかりだった。紺のビロードを張った座席に深く体を沈め、窓の外から発見されないくらい、窮屈に体を縮めていた。それも列車が動きだすまでの少しの間だけ、我慢すればいいことだ。
その小さな町の古びた駅で、これもまた同様に大きな革鞄を脇に抱え、幼い男の子を連れた、枯れ葉色のコートを着た母親に、男が用心深く話しかけた。その風貌からして、とても男の子の父親とは思えない。黒くずぶ濡れのレインコートで全身を覆った男の姿は、まるで人を寄せ付けず、得体の知れない冷淡さを漂わせていた。
「今夜の切符だ。二枚ある。まずはペングリムへ向かい、そこから急行列車に乗り換えなさい」
まだ男の子の母親が受け取らないうちに、ずぶ濡れの男は押し付けるふうに、切符を母親の手の中に握らせた。
「また家を移らないといけないのですか?」
ずぶ濡れの男は黙ってうなずき、済まないと付け加えた。
「誰?」
男の子が、母親を見上げた。
「私が誰かって? ふふ、ただの濡れ鼠だよ」
母親が、ずぶ濡れの男の言葉に眉をひそめた。が、何も言わずに見守った。
「坊やには、これをやろう」
ずぶ濡れの男は、男の子にお菓子の入った紙袋を差し出した。
「もう行くんですか? 相変わらず忙しい人ですね」
「まだ片付けないといけない問題がある。それじゃあ、ここでお別れだ。いい旅を」
そう言って、ずぶ濡れの男は親子を残して去っていった。それから間もなくして、親子の乗った列車は出発した。それは、雨のイタズラほどの些細な出来事だった。
男の子は、男にもらったお菓子の紙袋を早速、開いてみた。紙袋は、こんな雨の日でも少しも濡れていなかった。不思議だった。お菓子の紙袋に片手を入れ、中身をかき混ぜてみた。色々なお菓子が、無造作に入れられている。その中に、目当てのお菓子を見つけ、男の子は顔を明るくした。
親子は走り出した車両の一角に、どうにか空いた席を見つけ、ようやく落ち着いた。親子は重い荷物をそこまで運んできたから、くたくただった。
「開けてもいい?」
男の子が、お菓子の袋を母親に見せた。
「もう遅いから、一つだけにしてね」
男の子は小さくうなずいて、お菓子の紙袋から、迷わず一つを取り出した。たくさんあるお菓子の中から、どれにするか最初から決めていたのだ。そのお菓子の包装紙には、とんがり帽子に丸眼鏡をかけた老婆が杖を掲げて、ウィンクしている。魔女のクッキーだ。このお菓子には、お負けが付いている。男の子が封を切ると、四角い大きなクッキーの下に、シールが見えた。どんなシールが出てくるか、わくわくしながら、男の子はシールだけ抜き出した。抜き出した途端に、がっかりしてため息をついた。クッキーと同じ形のシールには、奇妙な絵柄の付いた花瓶が描かれている。その絵の下に、こう記されていた。
「誰かのイタズラ、あなたが身代わり。身代わりの花瓶」
その終わりには、銅の刻印がしてある。これはハズレだ。こんな厄介なシールはいらない。早く使ってしまおう。男の子はお負けのシールだけ上着のポケットにしまって、お菓子を食べずに紙袋へ戻した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます