第17話 悪意のその先へ

 その日、太陽が昇る朝ぼらけに。


 この町はおぞましい恐怖と混乱でつつまれた。

 猿の身体に巨大なコウモリの翼を生やした魔獣――


 一目で悪魔だとわかる異形の怪物が町の中央の時計塔の上に現れたからだ。

 悪魔がひとりで? 町のド真ん中に?


 人目のある陽の明るい内からどうして?

 突拍子もない悪魔の登場に、僕の頭では理解が追い付かない。


 怯える観衆に紛れて状況を見守る僕はメモリアと顔を見合わせる。

 メモリアも僕と同じ気持ちのようで彼女の瞳にはとまどいの色が浮かんでいた。


 分からない。なにもかもがいきなりだ。

 以前に戦った悪魔の仲間が僕とメモリアを追いかけてきたのだとしても。


 たったひとりでこんな人目のある場所に現れる理由が分からない。

 分からないと言えばその悪魔は無傷ではなく大きな外傷を負っていた。


 身体中に裂傷を刻んでジュクジュクとした傷口から青い血をのぞかせている。

 誰かと戦った後だから……というわけではなさそうだった。


 困惑しながらも勇者として戦士の表情をしたメモリアが言う。


「アレは戦いによる傷じゃないわ。勢いのある手傷ではなくて、もっと……こう、延々と続けて痛めつけられた時に生まれる傷ね。あの傷はそんな根の暗い傷跡よ」


「たとえばどんな?」


「たとえば絶え間ない拷問だとか」


 拷問。聞くだけでも物騒極まりない言葉がメモリアの口から飛び出した。


 悪魔を拷問にかける? 誰が? どうやって? 何の目的で?

 混乱が極まった僕は頭を痛めてうめいてしまう。


「ご、拷問? 悪魔が拷問を受けるってそれはどういう状況なのかな?」


「私に聞かないでよ! 私だってわからないんだから!」


 メモリアが少しだけ苛立ったふうに僕へと言い返す。


 いやま、ごもっともだよ。

 物事が分からない時に質問をするのは必要な判断だけどね。


 さすがに時と場合によりけりだろう。今はそれどころじゃないよね。

 納得した僕は申し訳なく引き下がる。


 だけど文句を言いながらもメモリアには何か心当たりがあるようだ。

 メモリアはうつむき加減になってうめく。


「でも悪魔を傷つけられる人間なんてあまりにも限られている。ひょっとしたら……」


「ひょっとしたら?」


「ううん、なんでもない。それよりも今はあの悪魔の対処を考えましょう。このまま放っておいたら大勢の犠牲が出る。それは見過ごせないわ」


 これまたもっともな提案だ。


 時計塔のてっぺんに座している猿の魔獣の横合いには人間の親子がいた。

 彼らは被害者だ。


 猿の魔獣はその大きなコウモリの翼で空高くから大通りに飛来して居合わせたひとりの子どもとその母親をさらっていったのだった。


 散歩か買い物か……親子で楽しい朝のひとときが一転して地獄の有様だ。

 人質の親子が捕らえられている時計塔のてっぺんは町で一番高い場所だった。


 猿の魔獣がその気になれば捕まえた二人を簡単に転落死させることができる。

 悪魔が人間を殺すことなんて造作もないだろう。


 悪魔の目的はさっぱりとわからないけどね。

 とにかく現在は人の命がかかった危機的な状況だった。


 意を決したメモリアが人込みにまぎれて駆けだす。

 その表情は研ぎ澄まされた刀剣のように鋭く厳しい。


「私が助ける。時計塔の階段をのぼって私があの悪魔と戦う」


「待ってメモリア! ひとりじゃ無理だよ!」


「っ、なにが無理? 無理じゃないわ!」


 一度だけ振り返ったメモリアは僕を睨みつけて大声で叫んだ。


 彼女が今にも泣きだしそうに見えたのは僕の被害妄想だろうか……

 かける言葉を失って立ち尽くす僕を一瞥してメモリアが駆け去る。


 我が身を呪うみたいにメモリアは何度も奥歯を噛み締めて言う。


「もう負けない。私は今度こそ絶対に負けない!」


 置き去りにされてしまった僕は観衆に紛れて時計塔のてっぺんを見ていた。


 もちろんのことただ傍観しているわけじゃないよ

 僕は竜だ。


 竜だけども僕の背中には魔獣が持つような“翼”がない。

 だから竜の姿になっても魔獣のいる場所にたどり着く方法がないんだ。


 メモリアのように時計塔の階段を上っていけばいいんだけど。

 竜になったとして、僕と魔獣がその巨体でぶつかり合えば時計塔は間違いなく崩落するだろう。


 人質も無事では済まない。

 崩落の被害で更なる犠牲が出るかもしれない。


 うまくいく展望は見えないのに失敗の可能性はいくらでも想像できた。

 メモリアのように即断即決できない僕には今は立ち止まるしかできない。


 我ながら優柔不断で情けないと思うよ。

 でも本当に名案が浮かばないんだ。


 せめて悪魔が時計塔から降りてきてくれれば……

 人質だけでもあの場から救い出すことができれば……


 僕が真剣に悩んでいると通りの向こうから見知った人物がやってきた。

 シーズンだ。


 朝からの騒動で町中が大混乱だったから会えるとは思っていなかったけどね。

 シーズンは僕らを心配して通りを探してくれていたのだろう。


 案の定というべきかシーズンは「探しましたよ。フィフス」と言って話を切り出した。


「大変なことになりましたね。まさかあんな怪物がこの世に存在していたとは驚きです」


「そうだね……あの悪魔はきっとこの町に生きる大勢の人を傷つける」


 村を襲った悪魔たち。


 リグレットの暴虐を思い返して僕は胸を痛める。

 あんな悲劇を二度と繰り返してはいけないと頭ではわかっている。


 だけど、力押しで戦う以外にどうすればいいのか。

 今の僕には最善の方策が見つからない。


 うつむく僕をにぎやかすみたいにシーズンが笑った。


 彼はまるで他人事みたいに言うんだ。


「なるほど“悪魔”ですか。確かにあの巨大な獣は悪魔のような見た目をしている。しかしフィフス、その悪魔を見てもキミはあまり驚いていないようですね」


「…………」


「ッフフ、だんまりですか?……都合が悪くなったときに目が泳ぐのはキミの昔からの悪い癖ですよ。キミは変わらないな」


「…………」


「おや、フィフス。どちらへ?」


「時計塔に行くんだよ。やっぱり僕にはあの人たちを見捨てることなんてできない」


 どうすることができなくてもメモリアを放っておくわけにはいかない。


 僕がメモリアのサポートに徹するのだとしても、自分なりに方策を考えるのだとしても、今は動く以外に現状を打開する道はないと思えた。


 立ち止まっても状況は好転しない。

 非常時に他人任せを期待するほど僕だってバカじゃないさ。


 だけどそのまえにひとつだけ。

 僕は大切な友達に尋ねなければならない。


「……シーズン。おまえは、僕がおまえの友達でいられなくなってもいいかい?」


「考えたこともない質問だ。どうしていきなりそんな話を?」


 決まっているさ。ソレは僕が竜だからだ。


 シーズンが普通の人間だからだ。

 シーズンは僕をマジダチだなんて言ってくれるけど。


 僕は竜で、僕は彼に大きすぎる隠し事をしている。

 何もかもを公にできる関係が友達ではないのかもしれない。


 だとしても後ろ暗く思う僕は、はぐらかすみたいにシーズンから視線を逸らす。


「ひょっとしたら僕はあの親子を見殺しにしてしまうかもしれない。でもそんなのは嫌だから……無謀だとわかって前に出ようとする僕をおまえは軽蔑するだろう?」


「フィフス。キミは随分とおかしなことを言うのですね」


 シーズンは僕の臆病を笑うことをしなかった。


 いつもなら「ッフフ」と含み笑っているところだろうに。

 僕は笑わないシーズンへと視線を戻す。


 シーズンは最初からずっと僕をまっすぐに見ていた。

 どこまでもまっすぐに揺らぐことなくシーズンは堂々と自分の主張を言い切る。


「私にとってキミがさといか愚かであるかの違いは何も問題ではありませんよ。私はキミのマジダチだ。キミの言葉に合わせて言えば親友というやつです」


「シーズン……」


「私は親友と共に立って笑ってその感情を共有できればそれでいい。苦難も喜びも、栄光もみじめさも、それらはすべて私自身が望んだ結果なのです」


「…………」


「フィフス。ひとつだけ確認をしたいのですが、キミは自分を犠牲にしたいのですか? 自己犠牲と高潔な精神を称えられる英雄のように?」


「それは……」


「ええ、それは愚かなことだと思いますよ」


 僕は返す言葉をなくして口ごもった。


 決して僕は自分自身を諦めているわけじゃない。

 だけど心のどこかにはひとりで生き残ってしまった罪悪感があるのもまた事実だ。


 僕は知らず知らずのうちに悪魔との戦いを急いでいた。

 僕の焦りはシーズンに見抜かれている。

 知った上で、シーズンは僕に言う。


「しかしキミがそう思うならばやってみればいい。たった今にも言ったはずです。たとえそれがみじめたらしい失敗に終わるのだとしても――」


 シーズンがやさしい微笑みで息をついた。


 彼はいつものように「ッフフ」と笑って僕を見る。


「私はキミを信じる。私はキミのマジダチなのだから」


「シーズン……」


 僕は信頼を噛み締めて拳を強く握りしめた。


 ふところにおさめた竜石が熱を持って脈動する。

 僕は竜だ。たったひとりの竜だった。


 だとしても今の僕はひとりではないと確信できる。

 気づければこんなに幸せなことはない。


 僕の心に巣くっていた卑屈な迷いの霧は綺麗に晴れてなくなっていた。

 僕は友達の言葉を信じてシーズンに答える。


「犠牲になんかなったりしないよ。僕はまだおまえと何も話していないんだ。先生のこと、子どもたちのこと、そして何よりも僕自身のことを」


「ええ、そうですね。私もそうだ」


「だから行ってくるよ。すべてが終わった時にはおまえはひょっとしたら僕の友達でいてくれないのかもしれないけれど……」


「……おやおや、それを二度も言うか。まったくよくも言ってくれますね」


 心配性の僕を笑ってシーズンが大げさなやり方で肩をすくめた。


 シーズンは僕に背中を向ける。


「いいでしょう。それが私への侮辱だとわかって言うのなら私も腹をくくります」


 人込みに紛れて去っていくシーズン。


 今は彼の表情が見えないけど。

 僕にはそれが真剣な態度だとわかる。


「すべてが終わったときには私も私自身の真実を話す。それでおあいこです。フィフス」


 シーズンの姿は見えなくなった。


 どこへ行ったのかな? 

 でもきっと彼は僕のことを見守ってくれているよ。


 そんな気がする。心強いさ。

 僕もつまらない感傷で迷うのは終わりにしよう。


「行くぞ、ハンドレッド」


「――ああ、了解だ。待ちかねたぞ」


 人前でしゃべるのを控えていたハンドレッドが力強く明滅した。

 僕の勇気を試すみたいにハンドレッドは言う。


「フィフス、友を信じろ。時を超えてキミたちが繋ぐ友情は悪意などに負けはしない」


 言われるまでもないさ。


 友情が脆く崩れ去る砂上の楼閣だとしても。

 僕は変わらずにシーズンを信じる。


「僕が何を守るべきか。それだけは」


「ええ、そうですね、フィフス。今の私が何をするべきか……」


 遠くに声が聞こえたような気がした。


 何をするべきか。何を守るべきか。

 それを知っているのは記憶じゃない。


 わかっているさ。それだけは――


「さあ、本物の悪魔の流儀を今こそご覧にいれましょう」


 忘れはしない。


 今を生きる友の心と並び立つ。

 ここにいる僕が知っている。


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