165 悪夢②

 その言葉にジェーンは目を見張った。コピーを言いつけられたのが昼休み直前だ。今はもう休み時間に入っている。昨夜からごはんを食べる余裕のなかったジェーンは、空腹の限界だった。


「待ってください! コピーは昼休みのあとに――」

「うるさい! 休み時間が減るのが嫌ならさっさとすればいいだろ!」


 アナベラは吐き捨て、書類を蹴散らしながらトイレから出ていった。

 しばし呆然とその背中を見送っていたジェーンだが、女性の話し声が近づいてきて我に返る。急いで書類を掻き集めているところにふたりの清掃部員が入ってきて、驚いた目でジェーンを見た。

 顔見知りでなかったことは不幸中の幸いだろうか。


「すみませんっ、すみませんっ」


 ジェーンはとにかく恥ずかしくて、早くこの場から去りたかった。書類を拾おうとしてくれた女性の手も断って、目を合わせないようにうつむき走り去る。

 駆け込んだ整備士事務所は、みんな昼食で出払っていた。コピーしてきた書類をすべてゴミ箱に捨て、ダメになってしまった原本を自分の机にあった予備で作成する。

 それを手に再び扉へ向かった時、急激に頭がズキズキと痛みはじめた。


「うっ。寝不足かな……」


 扉を開けて閉める。そんなささいな動きに、体が大きく揺れる感覚がして吐き気まで覚える。もう空腹どころではなかった。立っていることも辛く、壁に手をつく。

 耳の奥から自分の心音がゴオゴオと鳴り響いていた。


「どうして……急に、なんで……」


 本に夢中になってつい夜更かししたことはあった。次の日には倦怠感と軽い頭痛に見舞われたが、仕事に支障をきたすほどではなかった。だから昨夜だって平気だと確信があった。

 激しい頭痛と吐き気、めまいにジェーンは壁伝いに座り込む。不安と焦りに苛まれるほどに、耳鳴りはどんどん大きくなっていった。けれど耳を塞いでも、内側から響く騒音は消えてくれない。


「たす、けて……ダグ、ラス……」


 頭をくし刺し掻き回す、あまりの痛みと重い不快感にジェーンは自ら意識を手放した。




 誰かが髪をすいていた。そのやさしい感触にジェーンは思わずすり寄る。すると弾むような笑い声が落ちてきて、耳をくすぐる。

 耳鳴りはやんでいた。頭も痛くない。そっと目を開けても世界は回らず、薄日に照らされる小さな部屋をジェーンに見せてくれる。


「やっと起きた? 俺の女王様」

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