92 彼が見つめるひと⑤

「――ウソ」


 歌うように楽しげな声が耳をかすめる。ジェーンはしばし意味を飲み込めずに固まった。

 やがて明るさが戻ってきて、ディノの気配が遠のく。すかさず立ち上がると、ディノはなにごともなかったようにマグカップに口をつけていた。


「ディノ!」


 もっと言ってやりたいことはあるのに、あまりの恥ずかしさと悔しさで言葉がつづかない。ディノがにやにや笑うから、余計に舌がから回った。


「あんたほんと、からかいがいがあるな。本気で慌ててただろ」

「わ、私は……っ、ううっ。もう寝ます!」


 図星をつかれて言葉もなく、せめてもの仕返しにさっさと立ち去る。だがドアノブに手をかけた時、


「待って、ジェーン」


やわらかな声に引き止められた。

 ジェーンは数瞬浮かんだ迷いを、ため息で散らす。謝ってくれるなら水に流そう。そう思いながら振り返った先で、ディノはスリッパをひらひらと振っていた。


「忘れもの」


 瞬間、頬に集まった羞恥はひと息に怒りへ駆け昇った。もうスリッパなんてどうでもよかったが、ディノに背を向けるのも癪でずんずん戻る。

 その勢いのままスリッパを引ったくるつもりでいたが、思わぬ抵抗にあった。ディノはスリッパから手を離さず、上目遣いでジェーンを見つめる。


「おやすみ」


 そっとささやかれた声は、意地悪な笑みに反しておだやかだった。


「……おやすみ、なさい」


 唐突に行き場を失った怒りが煙を噴き上げて、ジェーンはぶすりと渋面を下げる。ディノの細めた目に、からかいではない微笑みが浮かんだ。

 彼の褐色の手は案外すんなりと離れて、またテレビに向かう。

 はき直したスリッパはせつな、ほんのりとぬくもりを帯びていた。

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