あなたは推しじゃないですが 〜秘密の恋、はじまります……? 〜

渚乃雫

前編

「だ、大丈夫ですか……?」


 中学卒業と同時にはじめたベースの弦の張り替えをお願いしに楽器屋さんへ行った帰り道。


 決して最寄り駅とはいえないこの駅の、改札下階段の横にある公衆電話前で、ひとりの男の子が膝を抱えて座り込んでいる。

 あれは……この近くの高校の制服じゃないだろうか。

 きょろ、と周りを見渡すと、同じ服装の人たちもいるけれど、特にみんな気にかけることなく通りすぎていく。


 ―― 寝てるだけなのかも。待ちあわせとか。


 そうは思った直後、ちらりと見えた横顔が真っ白になっているように思って、思わず声をかけた。



 知らない人にはついていかないように。

 散々、家族にも言われてはいるけれど、これはついて行ってはいない。そこにいるんだし。


 そんな、誰にいうでもない言い訳を心の中で繰り返しながら声をかければ、男の子がピクリ、と反応をしめす。


「…………」

「具合、悪そうですけど……あ、えと……駅員さん呼びましょうか? あ、それか救急車……?」


 ぎこちなく声をわたしを、男の子がちらり、と顔を少しだけ膝から離して、私を見上げる。


「……だい、じょうぶ、です」



 ―― わー、良い声ぇー……睫毛ながぁー……

 

 そんな場違いなことが頭をよぎるけれど、違う、いまはそうじゃない。


「顔、真っ白ですよ……? 動けますか? 誰か迎えに来てくれるひといますか?!」


 ばっ、と傍に座り込んだ私に、男の子の身体がびくっ、と動く。


「あ、ごめんなさい」

「…………いえ……」


 乗り物酔い……?

 真っ白になっている顔に、えっとこういう時ってどうすればいいんだっけ、と記憶をフル回転させる。

 いつも車酔いするお兄ちゃんには確か……


「あ!!」


 バッ、と勢いよく立ち上がり「ちょっと待っててください!」とだけ告げて、少し離れた階段の向こう側へダッシュでかけていく。


「あった!!」


 無駄遣いしないようにと、お姉ちゃんがチャージしてくれたICカードで、目当てのものを自販機で買って、ダッシュで彼のところへ駆け戻る。


「あの! これ!」


 また顔を膝に埋めていた彼に、ズイッ、と買ってきたスポーツドリンクを差し出せば、顔をあげた彼が困惑の表情を浮かべる。

 その顔を、どこかで見たような気がして、ほんの少し動きが止まる。


「いや……」

「……あ、えっと……たぶん、おにーさん、水分とったほうがいいですよ。これ、いま自販機で買ったやつですんで!」

「……それは、知ってる」


 見てました、と呟く彼に、「じゃあ大丈夫ですね」とスポーツドリンクを彼に、押し付ければ、しばらく悩んだあと、彼はおずおずとスポーツドリンクを受取ってくれる。


「……すみません、ちゃんとお金返しますんで……」

「そんなの気にせず。ほら、飲んで、おにーさん」


 すみません。

 何度かそう呟いたあと、やっと彼がスポーツドリンクを口にふくむ。


 つい、ちらちらと見てしまう私にも気が付かずに、こくこくこくっ、とある程度の量をおにーさんが飲みきる。


 やっぱりこの人、知っているかもしれない。あの子なら、絶対に分かるな。いや。でも、今はそれは置いておこう。

 それよりも、このひとの体調だ。

 煩くなりそうな考えを無理矢理に沈めて、いまはただ、具合の悪そうなおにーさんの様子に集中する。


「えっと……誰かに連絡はできそうですか?」

「あー……たぶん、もうじき……来てくれるかと……」

「それは良かった」


 どうしようもなかったらお兄ちゃんかお父さんに連絡しようと思っていたけど、そこは大丈夫だったらしい。


 何度か息を深くはきだしたあと、目の前の彼が、もう一度、スポーツドリンクに口をつける。


 その様子に、ひとまずは大丈夫そうだな、と立ち上がりかけるものの、よく見れば、地面に置かれたカバンと、その上に置かれていたであろうマスク、が地面に落ちてしまっている。


「あっ」


 マスクが。

 そう口をついて言葉が出ると同時に、かばんをゴソと探る。

 ―― あった。


「あ、これ未開封のやつなんで、どうぞ」

「え」

「あ、それから、これも」


 はい、とマスクともう一つ、取り出したものを、彼に渡す。

 たぶんきっと、見られないほうがいいだろう、と渡すマスクは、予備を持っておけ、とお姉ちゃんに渡されていたもの。

 お姉ちゃん、本当にありがとう。

 心の中で盛大に感謝をしながら、彼へと視線を戻す。


「これは……?」

「うちのお兄ちゃんがよく乗り物酔いするんで、持ち歩いてるんです」


 へへ、と彼に押し付けたものを持ち歩いている理由をつげれば、「……ああ」と服の袖で口元を覆いながら、彼が頷く。


「賞味期限も袋に書いてあるんで、心配だったら見てくださいね」

「え、あ」


 うん、と頷いた彼に、なんとなく、大丈夫そうかな、と判断して立ち上がれば、「かいと!」とロータリーに停まった車から誰かの名前をよぶ声がする。


 その声に、ぴくり、と反応をしめした彼に、「おにーさんの知り合い?」と問いかければ、彼がああ、と頷く。


「じゃあ、もう大丈夫ですね!」


 よいしょっ、とズリ落ちかけていたベースを立ち上がって背負い直す。


「あ」

「あ、やばっ。電車くるんで行きますね! おにーさん、お大事に!」


 ぱっ、と目に入った時刻を見れば、あと少しで電車がくる。

 それに気がついて、彼の返答を待たずに言うことだけ言って走り出せば、「かいと、大丈夫?!」と彼の知り合いの心配する声が聞こえてくる。


 まだ顔色悪かったけど……迎えが来たなら大丈夫だな!

 ほんの少しの心配だけをその場に残しつつ、逃したくない電車のために、階段を小走りで駆け上がった。




「なぁんてことがこの前あってね!」

「へーえ」


 同じ高校にすすんだ親友 彩良さらに、そう語るものの、彩良の反応は冷たい。

 というか、彼女はこれが通常運転なのだけれども。


「良かったね、干し梅が役に立って」

「ねー!」


 くるくる、と一本のポテトを回しながら言う彩良に、ふふふふー、と笑えば、彩良がくすり、静かに笑う。


「ほんとに良い声だったんだよー。たぶん、本調子だったら、もっと良い声だよ、きっと!」

「へぇ……? じゃあやっぱり本人?」

「どうだろう……でも、似てるだけの可能性もあるじゃん?」

「あら。推しより良い声だったの?」

「いや推しに勝るものはないけども!! あ、でも良い声は良い声だった!」


 ふうん? と言いながら、彩良が広げていた雑誌のページをめくり、とん、と指をさす。

 桜色のネイルが綺麗だ。


「たかひろ様とどっちが良い声?」

「そりゃぁたかひろ様に決まってますよ! 彩良様!」

「じゃあ、推し系? つぐつぐ系? 」

「確実に推し系じゃない。全然低くなかったもん。あー、えっとねぇ…………えのじゅん系? あ、いや、でも待てよ……かじくん系か……?」

「どっちよ」


 うんうんと悩み始めた私を見ながら、彩良がふふ、と笑い出す。


「楽器始める、なんて言い出した時にはどうなるかと思ったけど」


 中身は変わんないね、とまた笑った彩良は、なんだか安心しているようにも見える。


「彩良?」

「あー。でも良いなぁ。推しじゃないにしても、会えたかもしれないなんてさぁ。かもしれない案件だけど、きゅんきゅんしちゃうね」


 そんな風に言った親友に、「違う可能性が大だけどね!」と言いきってナゲットを口へと放り込む。


「どうだろうねぇ。まぁ、でも、どっちでもいいかぁ。本人でも違うひとでも、そのひとが無事で良かったの一言だよね」


「もー、彩良のそーゆーとこ好き!」

「急になに」


 声優雑誌を開き、音楽雑誌も広げるテーブルで、ポテトとナゲットを食べながら、笑えば、彩良が苦笑いを浮かべる。


「わたしも優愛のそういうところ好きよ」


 好意がまっすぐなところ。


 そう言った彩良に、「えへへ、そうかなぁ」と返せば、「雑誌に触る前に手をふけ」とページに落としかけた手を払われる。


「はぁい」


 ペーパーナフキンでふいた指先の油が綺麗にとれた直後。


「あ!!」

「え?」

「は?!」


 私たちの少し先。


 つい今さっき、話題にあがったばかりの人が、そこにいた。



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