伝九郎は留守にて候
葉城野新八
一
旅笠の端を長い指先でつまみあげ、塩っぽい味がする唇を当惑そうにかむ。
掻きむしるように白い額に浮いた汗粒を手ぬぐいで拭いつつ、ところどころに残雪を乗せた栗駒山のなだらかな嶺を見上げた。出羽方面から駆け上がってくる風に乗り、刻々と姿を変えながら淡く鷹揚にたなびく筋雲が、鮮明な青空のなかにあった。
ふたたび視界をおろせば、仙台城下ではお目にかかったことのない逞しい雑草が、五尺五寸ある武次郎の背丈よりも伸びて視界を青くふさぐ。
「
もしかすると途中で道を尋ねた宿場町の者に、城下から世間知らずの若侍がやって来たと、からかわれてしまったのかも知れない。幕藩体制がはじまって百年以上もすぎたというのに、何百年も他家の領地だった藩領の北部では、いまだ伊達家中の武家を嫌う者が少なくないとも聞く。
根拠もない被害妄想のあと、引き返すべきであろうかと弱気がよぎった。
――いいや、ある。屹度あるぞ、武次郎よ。だからお前ははるばる二十五里も来たのだろう、今しかない、今しかないのだ。歩け、とにかく歩け。
草鞋の紐を直しながら何度も己に言い聞かせ、荒い鼻息とともに迷いを吹き飛ばした。
険しい道のりになると覚悟はしてきたつもりだった。が、城下の街育ちの武次郎にとって初めて味わう難所がつづく。大きな岩が転がる清流の脇で、獣道のように頼りなくつづく急峻な山道を、じつに三里も這うようにして辿ってきたのである。
足下の土は雪解け水をふくみ、歩むたび一寸ほどもズブズブと沈む。下へ引っぱろうとする見えない力が働いて、何度も足を取られては膝を落とし、ときに転がったりしているうち、せっかく母が旅のために新調してくれた野袴と羽織は、すっかり黒い泥まみれになってしまった。
「ええい、それにしても鬱陶しい草たちめ。顔にあたって痒くてたまらぬ。俺をあざ笑うか。そこに直れ、手打ちにしてくれる!」
やけくそ気味に一人わめきたてると、武次郎は腰を割って瞑目し、荒れた呼吸をフッと整えた。
転瞬、周囲で揺れていた草の首が飛び、半径二尺がまるく開ける。
羽織の裾を巻いて身をひるがえし、あざやかな太刀さばきで素早く納刀さす。
「それ見たことか、
そろって居ならぶ茎の断面を見下ろし自慢げに鼻を鳴らした。
もちろん草たちからの返事はない。
――また俺は、草などを相手に何をやっているのか。
はたと冷静になって苦笑いを漏らすと、着物についていた泥を払い落とした。
すると、後ろからかさりと草の鳴る音がした。
「誰だ!?」
懐の棒手裏剣に手を添え、鋭く睨みつける。
――獣か……いいや、違うな。
すぐそばの草間から一人、こちらをうかがっている人影があった。笠を冠り、竹かごを背負っている。
武次郎はしまったと思い、声をかけた。
「これは俺としたことが、近くに人がいたのにも気づかずに、驚かせて悪かった。大丈夫だ。乱暴者ではない。安心して出てきてくれ」
「……はい」
澄んだ声音の返事がして、恐るおそる出てきたのは、年のころが十七か八とおぼゆる娘だった。かごには山菜が積まれ、白い山百合の束が手に握られてある。
娘は武次郎の身なりをあらためるなり、笠をはずして片膝を落とした。山奥で暮らす農夫の娘にしては堂に入った所作にも映ったので、思わず武次郎も胸を張り、武家らしく威厳めいた声音を作った。
「附近の者か?」
「はい」
「少々ものを尋ねたい」
娘は無言のまま、繊細な毛艶をきらきらと揺らしながら頭を小さく下げて応じた。
「このあたりに耕末邑があると聞いてまいった。いっこうに辿りつけぬのだが、まことであろうか?」
「はい、彼処に見える大木の下に地蔵がございます。そこの分かれ道を右へあと半里も行けば、邑の入り口にござります」
娘が指差してくれた方角を見た武次郎の顔が、パッと晴れて輝く。
「そうか、もうすぐであったか! かたじけない、仕事の邪魔をして済まなかった」
そう言うやいなや、すでに脱兎のごとく草を掻き分け疾走していた。また何度か転んでしまったが、もう気にはならない。
――やった、やったぞ。ついに俺はあの伝説の剣士、
全身の血がさわさわと遡る心地がして、それまでの疲れもきれいさっぱりと忘れて地を蹴るのだった。
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