第5話 とある青年の日常

 王太子夫妻の私室に呼ばれたイグナスは、王太子妃の腕に抱かれた赤子を目にして、険しい状態が常となっている表情を緩めた。


 王太子夫妻は、柔らかな金の髪の持ち主だ。

 王太子妃の瞳はスカイブルー。

 王太子はアメジスト。

 王太子妃に抱かれる赤子は父親の色を受け継ぎ、くりくりした金髪にアメジストの瞳の可愛らしいお姫様。この色合いは、王家の血筋によく現れる。

 イグナスの婚約者だった彼女にも、王家の血が流れていた。彼女の曾祖母が、降嫁した王女だったからだ。


「お、来たな。色男」


 近衛騎士であるイグナスが毎日のように顔を合わせる警護対象、ウィル・ジェラード・グラットン。この国の王太子に手招きされ、向かいの椅子へ腰掛けるよう命じられた。


「……秘密のお話があると聞いていたのですが」


 当然のように同席しようとしている王太子妃を見やり、イグナスは首を傾げる。

 そんなイグナスへ、王太子はからりとした笑顔で頷いて見せた。


「秘密の話だからこそ、アヴァン以外の騎士は部屋の外へ出した。だが、浮気を疑われては困るからな。ナターシャの同席は許せ」


 三つ年上の王太子は、年の近いイグナスとアヴァンを弟のように気に掛け、友人のように接する。

 アヴァンは男爵家の次男。イグナスは、子爵家の三男。貴族としての利用価値は、皆無に等しい二人。

 だが王太子は、二人を実力で評価してくれているようだった。


「用件は二つ。噂を小耳に挟んだ」


 王太子の次の言葉を待ちながらイグナスは、用件の内の一つを察した。アヴァンが同席しているということが、答えだ。


「アリソン伯爵家の姉妹がお前に会いに来たそうだな。今更、何をしに来た?」


 全てを見抜かれそうな、まっすぐ向けられるアメジスト。

 彼女もよく、感情表現の苦手なイグナスを、同じように瞳に映していた。


「…………手紙を」


 はっきりと答えるには、まだ整理のできていない事柄。声が震えないようにするので、精一杯だった。


「何の手紙を持ってきた?」

「……ジェレーナが、俺宛に書いた手紙です」


 深いため息と共に、王太子は己の額を片手で覆う。


「今更そんな物を出してくるとは、本当に性根の腐った女どもだな」

「ウィル。彼女たちにも何か、事情があったのかもしれないわ」


 諌めるように夫の左腿へ手を触れてから、王太子妃がイグナスへ視線を向けた。


「貴方が暗く沈んでいるようだと、まるで……あの時に戻ってしまったかのようだと、殿下は心配してらしたの。誰かに話すことで、楽になることもあるんじゃないかしら」


 おっとりした口調で告げられた王太子妃の言葉に、イグナスは内心で苦く笑う。そんなにわかりやすく表に出ていたとは、自覚していなかったからだ。


「ご心配をお掛けして、申し訳ありません」

「いや、いい。……そんなに、打ちのめされる内容だったのか?」


 問われ、イグナスは首を横に振る。


「長いこと届かなかった彼女の想いを、少しずつ、読んでいるところです」


 届かなかったのは、己の想いも、また同じ。


「少しずつとは、何通あるんだ?」

「……五年分、のようです」

「五年? ――まさか!」

「その、まさかです、殿下。盗まれていた手紙です。彼女が書いた手紙も、俺が送った手紙も、あの姉妹が横取りして、隠していた」


 言葉を失ってしまった王太子夫妻から視線をそらし、イグナスは、己の両手を意味もなく見つめた。


 ジェレーナは、次々と色んなことに興味を持って、忙しく駆け回っているような女の子だった。

 手紙は苦手と言っていたし、意外と面倒くさがりなところもあったから、イグナスが出した手紙は、読むだけで返事はないものだと考えていた。


 彼女が亡くなる一年ほど前、アリソン伯爵の葬儀で会った彼女は、言ったのだ。



――わたくしは変わらず、あなたを待っているわ。イグナス。



 手紙の中の彼女はあんなにも、不安がっていたのに。


「まだ、全ては読めていません。ですが……亡くなる前の数カ月間、はっきりとしたことは書かれていませんでしたが、彼女は、俺に助けを求めていたんです。闇に足を取られそうだと。恐ろしいのだと。手紙が届いていないとは、互いに気付かず。……ジェレーナは、俺に見捨てられたと思ったのでしょう」


 それだけではない。彼女はイグナスの実家宛に、イグナスの父にも、助けを求める手紙を書いていたのだ。

 それすら盗まれていたとは……遅れて知った残酷な現実に、腸が煮えくり返る。


 葬儀には間に合わなかったイグナスだが、報せを受けて駆けつけた時に、気が付いた。

 アリソン伯爵の屋敷で働く使用人が全て、イグナスの知らない人間になっていた。

 古くから働いていたはずの人間は、アリソン伯爵が亡くなってから一年足らずで、一人残らず辞めさせられていたのだ。


 あの頃あの屋敷には、彼女の味方は、いなかった。


「十五歳の女の子が、毒をあおって命を断つほどの絶望。そばに居れば、気付けたはずなんです。格好なんて付けずに、攫っていれば良かった……」


 大人たちが醸し出す雰囲気を敏感に感じ取ったのか、赤子がむずがる。

 王太子妃が立ち上がり、揺りかごへ駆け寄ると「大丈夫よ」と言いながら娘をあやした。


「……殿下」


 弱音を吐いてしまった気恥ずかしさを、鼻から大きく吸った息を吐いて追い出してから、イグナスは王太子へ視線を向ける。


「用件は、二つあると仰っていましたね。二つ目は何でしょう?」


 促され、王太子は気まずげな様子で己の前髪を掻き上げた。


「今のお前に言うのは憚られるが……いや。今のお前にだからこそ、必要な話かもしれんな」


 言い終えてから、懐から出した四ツ折りの紙をイグナスへと差し出す。


「毎日欠かさず同じ時間に、お前に会いに来る女性がいるという噂を聞いて、見に行ってみた」


 紙は受け取ったが開くことなく、イグナスは王太子の表情を観察した。


 王太子は、暗い空気を払拭するかのように明るく笑う。


「つばの広い帽子を被っていて顔はよく見えなかったがな、立ち姿の美しい女性だった。帽子からこぼれた髪は金。毎日応対している門番たちの話だと、瞳はアメジスト。大層な美人だそうだ」

「はぁ……」

「リディアというらしい。帽子屋で、住み込みで働いている。憶えはないか?」


 記憶を探り、思い出す。


「門番のパーシヴァルから、何度か聞いた名ですね。彼にも言いましたが、知らない女性です」

「それは、彼女からお前宛の手紙だそうだ。数年間欠かさず来ているんだから、余程お前に会いたいと見える。一度、会ってやってはどうだ?」

「……考えておきます」


 四つ折りで、表面には何も書かれていないその紙は開かれることなく、近衛騎士の制服の内ポケットへと突っ込まれた。


「否と言っているようなものではないか」


 顔をしかめた王太子を一瞥してから、イグナスは立ち上がる。


「ジェレーナ以外の女性を、愛することはできません」


 退出の礼を取ってから去っていくイグナスを見送り、王太子は言葉をこぼす。


「死人では、いつまで経ってもお前を癒せんのだぞ」


 両手で頭を抱えた王太子の隣に寄り添うようにして、赤子を抱いた王太子妃が腰を下ろし、そっと身を預けた。


「女としては羨ましくもあるわ。あんなに深く、愛されるだなんて」

「あいつの辛気臭い顔は見飽きた。ナターシャは知らぬからそんなことが言えるのだ。アリソン伯爵令嬢が存命だった頃の、緩みっぱなしだったあいつの顔を」

「あの眉間の皺が緩んでいたことなど、あったのですか?」

「あったんだよ。なぁ、アヴァン?」


 唐突に二対の視線が向けられて、空気となっていた体格のいい騎士が首肯する。


「それはもう、盛大に緩んでいたうえに幸せがにじみ出ていましたね。ジェレーナ嬢にお会いしたことはないですが、まるで古くから知る相手のように思えてしまうぐらいには、あいつから彼女の話が出ない日はなかったです」

「まぁ。それは、とても楽しそうね」

「楽しかったよ。あの頃は」

「そうですね。なんとか力になってやりたいとは、俺も思います」

「そうだよなぁ……。リディアという娘は、良き風になりそうな予感がするんだがなぁ……」

「無理矢理にでも、会わせてみますか」

「どうやって?」

「それは、わかりませんが」


 当人の預かり知らぬところで、イグナスへ新しい女性をあてがう計画が開始された瞬間だった。

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