8 秘密を知る者



「な、なななななんっ……で……っ」



 『夫』って確かに聞こえた。狼狽えて声が上擦る。



 腰が抜けそうになるのを何とか踏み止(とど)まり、ありったけ目を見開いて龍君を映す。

 彼は昏い瞳のまま口だけで薄く笑った。




 今、目の前にいるのは一体誰なんだろう。




 私の知っている龍君じゃない気がした。

 大切な何かを諦めてしまった人のような生気のない瞳。一瞬、彼が私よりも何十歳も年上に思えた。




 彼には私がタイムスリップして、もう一度人生を歩み直している事を言っていない!


 というか、誰にも言ってないのに! 何故、夫の存在を知っている?







「今、『夫』って言った……?」


「うん」


 何かの聞き間違いかもと思って確認するけど龍君はあっさり肯定してくる。

 眉を下げた彼に、少し困ったように微笑まれた。



 よく知っていた筈の幼馴染みの顔を、この時初めてちゃんと見た気がした。



 彼を前に、私は本当にただの小学生になってしまったかのように立ち竦む。

 言いたい事や聞きたい事が脳裏に押し寄せてまとまらず、それでも何かを口にしようとした。

 彼の左手がその口を塞いだ。



「静かにして……」


 私の耳元に顔を寄せた彼が声をひそめる。私が黙ったまま頷くと、幼子をあやすようなとても優しい声がした。


「いい子」





 階段を上がって来る足音が次第に大きくなり先生の声がした。


「誰かいるのかぁ?」



 こっちに来ませんように!


 心臓がバクバク言ってる。

 壁際で龍君に口を押さえられた格好のまま、緊迫感に動けず息をこらえた。





「……やっぱ気のせいか」


 先生が呟いた声が聞こえ、足音が遠ざかって行く。

 しばらくして龍君の手が離れた。


「ぷはーっ、はーっ」


 私が呼吸を整えているのを見ていた龍君がフフッと笑った。


「鼻で息すればよかったのに」


「だってそれじゃ……」


 息遣いで気付かれそうな気がして。そう言おうとした私は龍君の背後、数メートル先にいた人物を目にして再び体が硬直する。



 その人物も私たちを見て動きを止めている。

 彼女も先生に見つからなかったって事は、先生が去った後すぐに屋上を走って来たのだ。こことは反対側にあるもう一つの階段から。


 足音の響きにくい場所であったし、屋外の風の音もあり気付かなかった。





「雪絵ちゃん……じゃなかった、岩木さん……」



 龍君の肩越しに目が合えば、彼女は大きくしていた目を逸らして教室のある校舎へと早足で向かう。


 肩までのストレートの髪にヘアバンド。目がくりっと大きくてお人形のようにかわいい。青いワンピースを着ている。


 彼女は私たちの横を通る時すごく不機嫌そうな目で睨み付けてきた。




「目の毒!」




 そう言い残して走り去る雪絵ちゃん。


 あ、分かった。

 彼女は遅刻回避の為、裏門から入って屋上を突っ切って近道しようとしたんだろう。あと一歩で間に合わなかったみたいだけど。





「目の毒って何の事かな?」



 彼女が置いて行った不可解な言葉に首を傾げる。龍君が「何となく分かる」と言うので、彼に手招きされるまま近付く。耳打ちでボソボソと教えてもらい、思わず声を上げた。



「えっ、そんな! 私たちイチャついてないよ! 誤解だよ!」





 一度目の人生ではその後、三十七歳になっても親友だった岩木雪絵。

 二度目の人生での交流は最悪な印象で幕を開けた。

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