2 再び向き合う日


 私はしばらく鏡に映った自分の顔を繁々と眺め回していた。


 顔ちっちゃ。ほっぺフニフニ! このキメの細かさは驚異だわ!



 そうしているうちに、家の外の方から誰かが走って来る音がして……。

 「ガチャッ」と玄関の戸が開けられ、小さい男の子が顔を出した。



「ゆりかちゃん、こんにちは!」



 突然の来客。鏡台の椅子から下りて目をパチパチさせている私に、その男の子は元気よく挨拶してくれた。



 あ……れっ……。この子は……!



 記憶を手繰り、名前を口にする。



「龍(りゅう)君!」



 男の子は花が咲くようにニコッと笑った。



 目頭が熱い。夢の中とはいえ、再会できるとは思ってなかったから。

 彼とは小学二年生頃までたまに一緒に遊んだりしていた。仲良しの……所謂(いわゆる)幼馴染みというやつだ。家が近くて同じ幼稚園で親同士仲が良かった。

 けれどある時、些細なケンカをしてしまってちゃんと謝れなかった。相手が「また遊びに来てね」と言ってくれたにも拘わらず何となく遊ばなくなってしまって、それから一度も会っていない。



 玄関を下りて彼に飛び付いた。


「ごめんね……! 遊びに行かなくてごめんね……!」


 泣きながら詫びる。彼はあの時許してくれていたのに私が友情を壊してしまった。取り返しがつかないって分かってるけど、言っておきたかった。あの日言えなかった言葉を。


 彼の後ろの戸口に母が顔を覗かせた。


「由利花やだ、また寝ぼけてるのね? ほら、龍君びっくりして困ってるから放してあげなさい」


 私が手を離すと、龍君は私の母の後ろへサッと隠れてしまった。けれど母のジーパンの端を掴みながら顔を出した。


「ゆりかちゃん、どうしたの? なんでないてるの?」


 涙目で尋ねてくる。私が泣いていたから彼も釣られてしまったのだろう。


「ごめんね、龍君。由利花、寝ぼけて変な夢見たみたい。由利花、龍君はお母さんとお買い物の帰りにわざわざあんたの顔見に寄ってくれたのよ。さっき階段の下を掃いてたら会ってね。……龍君のお母さん下で待ってるから、もう行こうか」


「うん」


 母に促され、龍君は回れ右をする。私はその背に声をかける。




「友達でいてくれて、ありがとう!」




 思いの丈を籠めた。




 もう会う事もない。だってこれは夢だから。




 彼が振り返った。訝しげな表情だ。




「ぼくもありがとうっておもってるから、おれいはいらないよ」




 何て素直でいい子なんだろう。

 彼が天使に思えた。











 そして二日くらい時は流れ、いよいよこの長い夢にうんざりしてきた。

 いつ覚めるのだろうか? この夢はあと何日分あるのだろうか。




 若かりし姿の父と母。父の髪はまだそんなに薄くなってないし、母には白髪がない。


 夢の中の昨日では、行きたくもない幼稚園に無理やり連れて行かれ園児として過ごした。



 初恋の『沢野君』まで登場したのには驚いた。私の前を一人の園児が通り過ぎるのを横目に見て「彼って当時、こんなに幼かったのね……」と密かに唸ったものだ。薄茶色のサラサラした髪をさっぱりと整えたその子は幼いながらにイケメンで目の保養にはなるけど、トキメキとかは全然感じなかった。



 だって私、三十七ですぜ?



 今となっては本当に好きだったのか怪しい。美しいものにうっとりしてただけだったのかも。


 ……それに彼には過去、がっかりさせられた事がある。






 用意を済ませた母が、思い巡らせていた私の手を引いて家を出る。

 今日は少し遠出。母の姉……凪緒おばちゃんの所へ泊りに行くらしい。



 列車に揺られた後おばちゃんの家の近く、畑の側の道を歩いていて悪寒がした。何だろう。とても……とてつもなく嫌な予感がする。何かこのシチュエーション覚えがあるような。デジャヴ?


「お母さん、行きたくない」


 母の手を両手で引っ張って抵抗してみたけど無駄だった。母は私を宥(なだ)め賺(すか)して結局おばちゃんの家まで来てしまった。



 出迎えたおばちゃんも若くなってる。でも、ほとんどそのままのおばちゃんで何かホッとする。従兄弟たちもまだ小学生だ。







 ――事件は次の朝に起きた。







「あ……これは……」


 ようやく気が付いた時にはもう遅かった。私は震え上がった。



 そうだ。忘れる筈もない。この後すぐに駆けつけたおばちゃんに――……。



 記憶に色濃く残るあの恐怖が再び訪れようとしていた。










 寝ている間、小では飽き足らず大まで終えている。朝起きてから気付くパターン。布団をおじゃんにした私に、激怒して鬼と化したおばちゃんの魔の手が襲いかかる。


 従兄弟たちの見ている前で尻をひっぱたかれた私は、羞恥と恐怖で二度目だろうとわんわん泣いてしまう。


 そして深く深く思い知らされた。


 ここは私が生きてきた人生の始まりの方で、現実なのだと。




 二度もこの思いを味わうなんて!




 しかしこの事件があってから私のおねしょはピタリと止み、三十年以上経っても母の話の種になっていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る