第22話 壁ドンはイケメンしか許されない


「…………」


 ただ無言で樹くんの顔を見上げながら、私の心は全く別のことを考えていた。


 なんて言うんだっけ、これ。壁ドン、いや違う、壁じゃないからー……床ドン。少女漫画でよく見るやつ。3次元お断りな私は無論こんな体験初めてなんだけど、へえ下から見るとこういう感じなんだ。


 オーウェンは確か壁ドンはあったんだよなあ。壁ドンの方がよかったなあ。そしたら脳内で樹くんをオーウェンの顔に差し替えて楽しめるのに。


「…………」


「…………」


「…………」


「あの、杏奈ちゃん? 無視?」


 少し困ったように樹くんが言った。それを聞いてようやく私の精神が3次元に帰ってくる。しまった、完全に別世界に行ってた。


 体制はそのままに、私は全く色気のない声で言う。


「ごめん、床ドンってこんな感じなんだーって感心してた」


「…………」


「えーとなんだっけ、私に一目惚れ? そんなわかりやすい嘘通用しないよ。巧に当てつけたいのかな?」


 彼が本気で私に告白してきたなんて思うはずがない。そんな態度は微塵も感じたことはないし、恐らく仲のよくない巧にちょっとした嫌がらせという感じだろう。


 樹くんは面食らったように目を見開き、ため息をついた。少し沈黙が流れてから声を漏らす。


「待って、女の子押し倒してそんな反応されたの初めてでちょっと落ち込んでる」


「あ、やっぱりよく使う手法なのね? 手慣れてるもん。残念だけど私、男に興味ないから」


「え? だって巧」


「あーーーー『巧以外の』男に興味ないからってこと!!」


 慌ててそう言葉を付け足すと、その途端樹くんが勢いよく吹き出して笑い始めた。大声で目を線にしてゲラゲラ笑う。どうでもいいけど、どいてくれないかな、それとも私がすり抜ければいいのこれ?


 ひとしきり笑った後、樹くんは目尻に涙を浮かべながら私に言った。


「おっもしろいね杏奈ちゃん」


「あの、そろそろどい」


「なるほどね、巧がルームシェアを持ちかける理由がわかった気がした」


「だからルームシェアじゃなくてちゃんと結」


「一目惚れは確かにちょっとからかうつもりだったんだけど。

 今ほんとに、杏奈ちゃんに興味シンシンになった」


 彼はどこか目を輝かせてそう言った。それはまるで、子供が素敵なおもちゃを手に入れた時のような表情。


 私はそんな樹くんをただ何とも思わず見上げていたけれど、次の瞬間彼の顔が落ちてきたのに気がつく。さすがにこの心臓がドキリと飛び跳ねた。


 慌てて腕を動かそうとするも、両腕はしっかり樹くんに掴まれていることに今更ながら気づく。あれ、ちょっと待ってこれどういう状況!?


「え、ちょ、ま、た、オ」


 さすがの私も今どういう状況になっているのか理解して慌てる。ぱくぱくと金魚のように口を開けている私にお構いなしに、毛穴ひとつない白い肌が降りてくる。頭の中でこれまでの人生が蘇った。普通走馬灯って死ぬ瞬間見るはずなのに、なぜキスされそうな今見てるんだ私は。


 一瞬覚悟して体を強張らせた瞬間、今にも触れそうだった樹くんの顔が突然持ち上がる。広がった視界に、見慣れたもう一つの顔があった。


「あっれ、いいとこなのになあ。帰宅早いねえ」


 襟を巧に鷲掴みにされて引っ張られている樹くんは、首元を苦しそうにしながらもあっけらかんと言った。その横に、無言ですごい圧を出している巧が立っていた。


 巧は目を座らせて樹くんに言う。


「何してる」


「んー杏奈ちゃん口説いてた」


「杏奈に触るな」


 低い声でそう言いすてると、巧は樹くんを力強く床に放り投げた。倒れ込んだ樹くんもそのままに、巧は素早く私を起こしてくれる。腕を掴まれてやや強引に引っ張られながら、私はほうっと息をつく。いけない、危ないところだった……!


 私は巧を見上げ安心感に包まれる。ふとその額に、汗が浮いているのに気がついた。もしかして、連絡を受けて急いで帰ってきたんだろうか?


「いって、頭打った」


「馬鹿か。どこの世界に兄の嫁に手を出すやつがいるんだよ。流石に殺すぞ」


 樹くんは頭をさすりながら起き上がる。口を尖らせて言う。


「いや、だって二人全然夫婦ぽくないから、偽装結婚でもしてるのかなーって。だとしたら俺が杏奈ちゃん口説いても問題なくね?」


「偽装じゃないから問題なんだ。俺たちはちゃんと夫婦だから」


「えーほんとに? なんっか怪しいんだよなあ。普通このシーンで旦那様が助けに来てくれたら抱きついて喜ぶところじゃない?」


 言われて確かに、と納得する自分がいた。しまったここは泣きながら巧に縋りつくべきだった。今更遅すぎる。巧は凄い目で樹くんを睨みつけていた。樹くんは怯むことなく、むしろ余裕のある顔で巧を見上げている。


 果たしてどうやってこのシーンを終わらせようか。無理矢理追い返しても樹くん絶対疑念を持ったままだし。私たちが夫婦だと思わせるそれっぽいこと……


「あ」


 私が声を上げると、二人が注目した。そんな四つの目に見られややたじろぎながら、私は無言で自分の部屋に走り込んだ。


 しっかり鍵はかけながら自室で箪笥を漁る。目的のものをすぐに見つけ出し、再び殺伐としたリビングへ走り出した。気まずそうな二人の前に立ち、両手に持っていた布を広げた。


「これ!」


「……へ?」


 樹くんが目を丸くしてそれを見た。私のおにぎりのTシャツだった。巧ですら、何を持ち出してるんだこいつって目で私を見ている。


「奇抜なTシャツだね」


「可愛いでしょ。これ、ペア」


 もう一枚をかざした。そこには、私のよりサイズの大きいおにぎりTシャツがあった。樹くんどころか、巧ですら目を丸くする。


 この前、おばあちゃんのお見舞いに付き合ってくれた巧にお礼としてこのTシャツを手に入れたのをすっかり忘れていた。何も考えずに私と同じデザインのものを買ったのだが、これは一般的に言えばペアルックだ。


「ねえ、巧がこんなおにぎりのTシャツ着るの見たことある?」


「まじでない」


「あの藤ヶ谷巧が。おにぎりのTシャツ着て寝てるの。私が欲しいって言ったから。これただのルームシェアならありえないでしょ?」


 にっこり笑って二枚のTシャツを掲げる。樹くんはただぽかーんとしてそれを見上げ、巧は無の表情でこちらを見ていた。



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