第9話 料理しない女
翌日。その日は朝から土砂降りの雨だった。
朝起きてみると、すでに彼は出社したようだった。帰ってきてないのかとも思ったが、シンクに見覚えのないグラスが置いてあったので一度帰っては来たらしい。
私が寝るまで帰ってこなかったのに、朝はこんなに早いとは。ほとんど寝てないではないか。
さすがは藤ヶ谷副社長だなあなんて感心しながら朝の支度を整え、私も出社する。マンションは職場から非常に通勤しやすい場所にあったので、そこは感謝しながら移動した。
どこから漏れたのか、私の引っ越しの情報が出回っていたらしく、みんなの視線が痛い。さらには、いつも人をこき使ってる社長までもが『新婚なんだし早く帰りなさい』だなんてニコニコしながら言うから調子が狂う。
おかげさまで残業なしで上がることが出来た。前日の引っ越しの疲れがまだ取れていなかったのでありがたくお言葉に甘えることにする。これもあの男と結婚した利点の一つだ、あの社長たちの態度が明らかに変わってる。
まあ、離婚するまでの間だろうがいい。それまで気分良く働かせてもらおうではないか。
私は意気揚々と退社させてもらった。
「たっだいまオーウェン」
自室に入り挨拶を送る。今日もキラキラした笑顔で私の王子たちは迎えてくれる。早くに退社出来たことでテンションが上がっている自覚があった。
とは言っても昨日の引っ越しの疲れもあり体は重い。大人しく家でお酒でも飲んでゆっくりしようか。
私はまず楽な部屋着に着替えた。夕方の早い時間から飲んでやろう。あのリビングの大画面でオーウェンを……見てる時に巧が帰ってきたらやばいからやめとこ。
広いリビングに向かい冷蔵庫や戸棚を漁る。つまみなども十分過ぎるほどあった。中から適当にいくつか選び、グラスと共に持ってテレビ前に移動する。
フカフカのソファに腰掛け、大きなテレビをつけた。一人暮らしで見ていた大きさとはだいぶ違うためまだ慣れない。映画館のような感覚だ。
「さーて一杯やりますかー」
缶を開けてみれば、プシュッといい音がする。レモンの爽やかな香りを嗅ぎながら炭酸を流し込んだ。
喉を通っていく酸味とアルコールの香りに思わず顔を綻ばせる。仕事終わりの酒は格別美味しい。私は適当にテレビの番組を変えながらそれを眺め、ぼんやりとリラックスしていた。
一人飲み始めて約十五分後。さて次のお酒を開けようかと思っていたとこに、まさか玄関の鍵が開く音が響いたので驚く。
藤ヶ谷副社長、こんな早くご帰宅? 仕事で毎日忙しいって言ってたのに。
そう思いながらまあいっかとテレビに視線を戻す。足音が響いたと同時に、リビングの扉がガチャリと開かれた。
「おかえりなさい」
私はその場から声だけ上げた。彼はスーツを着ていた。長身にスーツは非常に似合っている、私が三次元を愛せる女ならうっとり見惚れていたに違いない。
巧は私を見てああ、と小さく声を上げた。
「ただいま」
「早かったんだね」
「新婚だから早く帰宅しろと父親がうるさくてな」
「やだ、同じ理由!」
私がつい笑う。新婚だなんて、他に好きな人がいる者同士の契約なのに。
巧は中に入り、私が広げている酒やつまみたちに目をやった。
「早いな、もう夕飯食べたのか」
「え?」
もしや、夕飯を食べ終えた後の晩酌だと思っているのだろうか。巧はネクタイを片手で緩めながら空になったレモンサワーを眺める。私は正直に答えた。
「いや、これが夕飯」
「は?」
キョトン、と目が丸くなる。私は何か、と首を傾げた。
「だからこれ夕飯。買い置きしてあったやつもらっちゃった」
「これが……夕飯??」
なんだかものすごく驚いているみたいだけれど、私は何か変なことを言っただろうか。
一人暮らしの時から、食事なんてオーウェンたちの二の次で毎回適当だ。昼は社員食堂でそれなりにバランスの整ったものを食べているし、夕飯は適当が多い。作ることもあるが、大抵カレーを大量に作り置きするとかそのレベルなのだ。
巧は信じられないとばかりに首を振る。
「まさか普段からこんなものばかり?」
「うん、美味しいから好きだよ」
正直に答えた瞬間、巧の顔が引いたのがわかる。あれ、女としてやばかったかしら。
でも自分の家なのに取り繕うなんて面倒だし仕方ないのに。
しばらく沈黙が流れたあと、はあと巧がため息をついた。そして無言でキッチンへ移動する。
冷蔵庫を開いて何やら適当に取り出すと、シャツの袖を捲って手を洗い始めたのだ。
私は何も言わずにそれを見ていた。もしや彼、料理なんてし始めるのだろうか? 忙しいはずの藤ヶ谷副社長の坊ちゃんが、料理?
そのもしやだった。新品の包丁やまな板を取り出し野菜を切り始める。しばらくして換気扇の音と、炒める効果音が響き出したかと思えば部屋中に香ばしい香りが充満し出した。
ほんの数十分で、手際良く彼は料理を完成させたらしい。フライパンまで洗って後片付けをすると、彼は大皿に乗った料理を私の前まで運んできたのだ。
コトン、と二皿置かれる。野菜やお肉を炒めた物たちだった。
「え、やだ美味しそう!」
「つまみで夕飯というならそれくらいつまんでおけ」
「私食べていいの?」
「そんな食生活でよくそのスタイル保ってたな。もう少し年取ったらまずいぞ気をつけろ」
呆れたように言った男にややムカついたが、それより目の前の料理の香りにやられていた。私は素直に箸を手に取り頬張ってみる。
「うわお、美味しい。凄い」
「そんなもの誰でも作れるだろう」
すみませんね、『そんなもの』すら作れなくて。そんな返事を心の中だけで行うと、私はただぱくぱくとそれを食べ続ける。
「俺はシャワーを浴びる」
「食べないの?」
「帰ったらすぐに風呂に入りたいタイプなんだ。杏奈はまだか」
「うん、寝る前に」
「わかった」
巧は頷くと、さっさとリビングから出ていって行った。まさか家事をさせられるかもと心配してたのにご飯を作ってもらうことになるとは。まあ、頼んだわけじゃないしいいよね。
そんなことを一人思いながら舌鼓を打つ。意外だなあ、料理するなんて。性格以外完璧じゃん。
いい食感のキャベツを口に入れて噛んだ瞬間、再びリビングの扉が開かれた。あれっと思い出入り口をみる。
巧がどこか気まずそうに視線を泳がせていた。
「どうしたの」
「杏奈。洗濯物」
「あ」
言われて思い出した。今日は朝から大雨で、外に洗濯物が干せなかったので、浴室にある室内乾燥機を使用したのだった。朝干して取り込むのを忘れていた。
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