竜を喰らう

春泥

プロローグに代えて

ヌガキヤ村の惨劇(ダイジェスト)

 豊作続きで栄えていたその村にドラゴンが飛来したのは、なんとも不運なことだった。季節は秋。これから収穫期を迎えようという時だった。

「山向うの町で農業を学んだ子等が帰って来て、害虫や自然災害に強い農作物を育てる技術がもたらされてからというもの、この村の将来は明るいと思ったのだが……」

 村長をはじめ、村の顔役達は揃って頭を抱えた。

 残念ながら、ドラゴンを寄せ付けない技術というのはまだ開発されていない。対処方法としては、ドラゴン退治の専門家を雇うのが一般的だった。

「仕方がない。町へ出て、仲介屋に頼もう」

 手付金の金貨十枚と共に使いに出されたのは、村一番の正直者と評判の男だった。

 正直者の帰還を待ちわびている間も、ドラゴンの襲来は一向に止まなかった。口から吐き出される炎は家や畑を容赦なく焼き、穀物や家屋の被害に加えて死傷者も増えて行った。


 正直者の男が村に戻ったのは、出発から八日後、村にドラゴンが最初に飛来してから十日目のことであった。

 しかし、彼が一緒に連れ帰って来たのは、屈強なドラゴン・スレイヤーではなく、細く非力そうな妙齢の女だった。

 女は体にぴったりした銀色のドレスを着て、全体的にほっそりしているのに出るべきところは十二分に発達しており、何とも言えない色香を振りまいていた。これが平常時であれば独身男性は勿論、妻帯者までもが女に殺到したかもしれないが、何しろ村は今、ドラゴンによって危機的状態に置かれていた。


「お前は、金貨十枚で嫁を買ってきたのか」


 普段は温和な村長が、抑えきれない怒りで頬を痙攣させながら言った。

 正直者の男が酷くやつれきった様子であることに皆が気付いていたが、それはきっと一緒にいるいい女のせいだろうと、かえって村人の怒りを買っていた。彼は村長の言葉にわっと泣き出した。

「違います。この人が、ドラゴンを食わせろって、勝手について来たんです」

「なんだって」

 村人たちは、一斉に女を見つめた。女は、艶っぽいふっくらとした唇を、ぬめぬめとした舌先で舐めまわし、淫らな流し目を周囲に向けた。

「ねえ、あたし、腹ペコなんだけど。ドラゴンをいただく前に、軽く何か食べさせてくれない?」

「あんた、もしかして」村長が震え声で言った。

「ドラゴン・イーターなのか!」

 それを聞いた村人たちは、絶望の声をあげ、頭をかきむしりながらその場に泣き崩れた。


 ドラゴン・イーター(Dragon Eater)とは即ち、大食い・悪食の魔女・魔法使いである。その底知れぬ胃袋を満たす一石二鳥の商売として、ドラゴン・イ―ターに転じるのだが、害獣を退治するドラゴン・スレイヤーが子供の憧れの職業の一つに挙げられるほど人気が高く、人々から崇め奉られるのに対し、ドラゴン・イーターは忌み嫌われる存在だ。理由は明快である。

「ねえ、せっかく来てあげたのに、おもてなしも何もないの? ちょっと小腹がすいたんだけど」

「そうおっしゃいましても、ここのところ連日のようにドラゴンの襲撃を受けておりまして、農作物の収穫時期だというのに、田畑は焼け野原にされてしまい……」

 村長の言葉を遮り、女はにこりともせずに言う。

「だったら尚更、私がドラゴンを退治してあげない限り、あんたたちは飢え死にする運命にあるのよ。いいから、さっさと出しなさい。腹ペコでドラゴン退治なんてできると思う?」


 それから女は、その細くて平べったい腹の一体どこにそんなに入るのかという恐ろしい分量の食べ物を、三日三晩食べ続けた。ドラゴンの襲来により甚大な被害を受けている村にとっては、身を削られるようなものだった。

 村人が空腹を我慢しているのを尻目に、ドラゴン・イーターは食物を要求し続けた。女が睡眠すら忘れて食べ続けている間にドラゴンの襲来がなかったのは、果たして運がよかったのか悪かったのか。

 四日目の朝、テーブルの上に大量の空の皿としゃぶりつくした骨の山を築き上げた後、ドラゴン・イーターは外見上はぺしゃんこのままの腹をさすりながら立ち上がった。

「腹八分目ぐらいにはなったから、そろそろ仕事にとりかかろうかしら」


 ドラゴン・イーターは小高い丘の上に立っていた。

 快晴の抜けるような、しかしこれから冬へと向かう少し色あせた青空を背景に立つ女の姿は、美しかった。黄金の長い髪が風になびき、均整のとれた引き締まった体を包む鈍色にびいろのドレスが、日光を反射して怪しい光を放っている。

 周辺には田畑が広がっている。これから起こることを予測した村人たちが、不眠不休で収穫を済ませたので、作物は殆ど残っていないが、運悪くこの一帯の畑を所有している男は、涙に暮れていた。

「ああ……来年からどうやって暮らしていけばいいんだ……」

 そんな男の嘆きなど一切気にせず、女は丘の上に立ち、微動だにしない。

 村人たちは少し離れた雑木林の中からそっと様子を窺っている。「村人たち」といっても、女子供と老人は、山を越えた隣村に避難させてあった。普段それほど仲がいいとはいえない両村だったが、ドラゴン・イーターがやってきたと聞いた隣村の人々は、顔色を変えて「それはとんだ災難だな。こちらにできることがあったら言ってくれ」と申し出たのだ。


 丘の上に銅像の如く立ち尽くしていた女がピクリと身を震わせた。

「来たぞ!」

 雑木林の中で固唾をのんで見守っていた村人の中からどよめきが上がった。

 最初は米粒程の大きさの黒い点が青空の彼方に現れ、それが見る間に大きくなり、禍々しいドラゴンの形を露わにした。

 鈍色に輝くその巨体が迫って来るにつれ、広げれば体より更に大きい翼によって繰り出される風も強くなる。その風に運ばれてくる生臭いような不快な臭い……村人たちは袖で顔を覆い、粉塵が飛び込んでこないよう細めた目で固唾をのみ見守っている。


「おい、あの女、涎をたらしているぞ」


 ドラゴンに向けていた視線を丘の上の女の方に向けると、離れた場所にいる彼等にもはっきり見て取れるほどの大量の透明な液体が、女の口から流れ出ているのが見て取れた。女の顔には恍惚といってよい淫靡な表情が浮かび、その青い瞳はただ一点を凝視していた。

 鱗で陽光を反射して禍々しい輝きを放つドラゴンが、丘の上に立つ女の姿に気付き、怒りの咆哮をあげた。

 林に潜んでいる村人が思わず両手で耳を覆うほどの甲高く不快な音にも、女は一向に怯まない。


「あれは、女の着ているドレス、あれはドラゴンの鱗でできているんだ。それにドラゴンが気付いて、腹を立てているんだ」


 ドラゴンは丘の上の女めがけて上空高くから斜めに直線を描きながら下降を始めた。ドラゴンのボディ自体小山程の大きさがあることが見て取れる。そのボディよりはるかに大きい翼を広げた姿たるや。

 村人たちはドラゴンが羽ばたくたびに繰り出される突風にとばれまいと木の幹にしがみついている。彼らの頭上では狂ったように葉枝が折れる寸前までしなり、悲鳴を上げていた。

 怒りに燃えるドラゴンが口から炎を吐いた。女は魔力(シールド)でそれを防いだが、業火の勢いに押されたところを更に体当たりすれすれの低空飛行のドラゴンにバランスを崩され、地面に伏した。そこへ、長い首を後方へ捻ったドラゴンの口から再び炎が噴射され、女の全身を包んだ。

 ドラゴンの鱗から作られたというドレスで覆われていない部分が赤黒く焼け焦げた。普通の人間であれば、骨の欠片さえ残さず一瞬で焼失していただろう。よろよろと立ち上がった女は、唇が焼けてなくなり剥き出しになった白い歯で……


 笑った


 雑木林に潜む村人たちの中で、この時点で失神した者は幸いだったと言える。

 そこから先は、掛値なしの悪夢だ。


  * * *


 小高い丘とその周辺の土地は、飛散したドラゴンの血でどす黒く染まり、今後いかなる植物も芽吹くことはなさそうだった。

 女は上機嫌だった。

「それじゃあ、行くけど」

 あの日以来死んだ魚のような目をして二十歳も老け込んだように見える村長が、少し嬉しそうな顔でへいこらと頭を下げたが、女とは決して目を合わせようとはしなかった。

「報酬が欲しいんだけど」

 村長の背後に控え、やはり生気のない目で女が立ち去ることだけを願っていた村人たちは、悲鳴にも似た声をあげた。

「まだ俺たちから奪うのか!」


 巨大なドラゴンから流れ出た血に汚染された土地は、村の田畑の三分の一に達していた。

「私を迎えに来たあの男をちょうだい。大丈夫、荷物持ちが欲しいだけだから食べないわよ」

 隣村までドラゴン・スレイヤーを捜しに行った正直者の男が、悲痛な叫び声をあげて腰を抜かした。

「やめてくれ、勘弁してくれ。それだけはあああああああああああ!」

 しかし正直者の男を見つめる村人たちの目は冷たかった。元はと言えば、この男がスレイヤーではなくこの禍々しい女を連れてきたのだ。

 地べたを這いずりながら逃げようとする正直者を、方々から伸びる村の男衆の手が捕まえた。


「許せ。これ以上の犠牲は、払えない」

 村長は泣き叫ぶ男の目を見ないようにして、そう呟いた。

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