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『気を抜くなッ! まだ終ってはおらぬ』
九尾の狐が叫んだのと同時に、体中に激痛が走る。
見れば体中に銀の針が刺さっている。
『我が人ごときにやられると思ったか?』
悠然と闇から姿を現したのは、人の姿をした絡新婦。しかも傷ひとつ負っていない。
確かに矢で射抜いたはずなのに……。
『お前が射貫いたのは我の分身ぞ。あれくらいで勝ち誇るな。人間の分際でおこがましい』
「そんな……」
『我の分身を消した罪、その身をもって償うがよい』
そう言うと、絡新婦は糸を吐き出した。
あっという間に囚われ、目の前が銀色の糸で覆われていく。
身動きが取れず、意識も朦朧としてくる。
こんなところで……意識を……手離す……わけには…………。
思いに反して意識は闇に閉ざされた。
いつか見た夢の風景が目の前に広がる。
源氏物語ミュージアムで見たような建物。
着物を着た男性が憂いに満ちた表情で佇んでいた。
それを俺は高いところか覗いている、そんな感覚だった。
すると、男性が俺のほうを見上げて声をかけてきた。
『私を喰うのか?』
とんでもないことを口にした男性。でも、悲観するわけでも恐怖に怯えている風でもない。どちらかといえば救いを求めている、そんな表情だった。
『死にたいと思っているヤツを喰うても、何も面白うないわ』
九尾の狐の声だった。
からかいを含んだ声に、男性は落胆を隠さない。
『そうか……、私は妖にも相手にされないのか……』
九尾の狐が驚いているのが分かった。
どうやら俺は九尾の狐と同調しているようだった。
夢かとも思ったが、これは九尾の狐の思い出らしい。
ずいぶん昔の出来事だろうが、昨日の出来事のように鮮明だった。
その男性は鳥羽上皇と呼ばれていた。
鳥羽上皇は幼くして即位したせいで、祖父である白河院に実権を握られ長い間虐げられてきた。そのうえ鳥羽上皇の皇后となった
生きる気力を失っていた鳥羽上皇だったが、九尾の狐との出会いは暗闇の中に一筋の光がさしたように、生きる活力を得たようだった。
九尾の狐は女官に化け鳥羽上皇との逢瀬を楽しんでいた。
生きる気力を失い悲しみに満ちていた鳥羽上皇の表情が、次第にほころんでいく。
時折見せる笑みに、同調している九尾の狐の心も弾んでいくのが分かった。
鳥羽上皇は九尾の狐に求婚した。
『私の妻となって共に生きてはくれぬか?』
『お主を喰らうかもしれぬぞ? それでも良いか?』
と尋ねた九尾の狐に、鳥羽上皇はいたずらっぽく笑った。
『お前は私を喰らわぬ。お前の目はとてもきれいな目をしている。私はその目が好きだ』
『人に仇なすかもしれぬぞ』
と聞けば、
『万が一、お前が人に仇なした時は、揚げに毒を含ませよう』
と鳥羽上皇は笑って答えた。
『ならば、殿が差し出す揚げには気をつけねばな』
そう言って、九尾の狐も笑った。
人間の命は短い。九尾の狐にとっては、人の一生などほんの一刻にすぎない。九尾の狐は暇つぶしがてら人間の妻になってみるのも一興だと考えのだろう。
でも、九尾の狐は自分が思っている以上に鳥羽上皇に心を奪われていた。
だから気付くのに遅れた。
取るに足りない存在の罠に……。
絡新婦は白河院に憑いてこの国を破滅へと導こうとしていた。だが、白河院が実権を手放すと今度は藤原璋子として鳥羽上皇を操ろうとしていた。
はじめはうまくいっていたが、九尾の狐の出現に事がうまく進まなくなってきた。
九尾の狐の存在に気づいた絡新婦は、なんとかして九尾の狐を排除しようと試みたがうまくいかず業を煮やしていた。
九尾の狐も絡新婦の存在に気づき排除しようとしたが、藤原璋子としてすでに地位を確立したいた絡新婦を排除することは、そう簡単にはいかなかった。
そんな時、鳥羽上皇が体調を崩した。それを絡新婦は見逃さなかった。
あろうことか、鳥羽上皇が体調を崩したのは九尾の狐のせいだと、陰陽師に進言した。
絡新婦は陰陽師に取り入り、九尾の狐の正体をあぶり出すことに成功した。
九尾の狐にとって、陰陽師を始末することは容易い。でもそれをしなかったのは、鳥羽上皇がそれを望まなかったからだ。
帝は神の子。
例え妖であろうと、その命を奪うことをよしとしなかった。
九尾の狐にとって、陰陽師など脅威でも何でもない。
とっとと姿をくらまし逃げるのは容易い。
でも逃げなかったのは、少しでも長く鳥羽上皇と共に一緒に居たかったから。
九尾の狐にしてみれば鳥羽上皇と暮らす日々は昼寝ほどに短い。そんな短い期間だからこそ少しでも長く一緒に居たかったに違いない。
万が一、この身が危うくなろうとも、共に時間を費やすことのほうが九尾の狐にとっては大切だった。
それなのに、鳥羽上皇は一緒に居ることを望んではくれなかった。
『お前が討たれることを望むなら、私もこの命を絶とう。お前のいない世界など生きている価値などない。お前がこの世にいると思えれば、私は強く生きていける。だから逃げろ。だが、決して鬼にはなってくれるなよ。人を傷つけてはならぬ。人に仇なす鬼と化せば、私が揚げに毒を含ませその命を奪いに行く。もし人を喰いたくなった時は私を喰え』
そう言って、鳥羽上皇は涙を流した。
九尾の狐の心は乱れた。
そんな九尾の狐に、鳥羽上皇は優しい笑みを浮かべ抱き寄せた。
『生きよ。遠く離れていようとも、命ある限り……いや、魂だけになろうとも私はそなたと共にある。だから、生きよ。私のために生きておくれ』
あの方は、いつも微笑んでいた。
でも、わらわは知っている。
あの方は悲しみを知られまいと、懸命に心の奥にしまい込もうとしていた。
あの方の微笑みは、いつも悲しそうだった。
きれいな花が咲く庭を眺めては儚い吐息を吐き、綺麗に輝く月を見上げては苦しそうなため息を吐く。
いつの頃からだろう、あの方はわらわの話に耳を傾けてくれるようになった。
わらわと居ると楽しいと言ってくれた。
わらわが妖だと知ってもなお、愛おしいと、優しく抱き寄せてくれた。
そして、妻になれと言ってくれた。
あの方が心から笑ってくれる、ただそれだけで満足だった。
あの方の笑顔を見るだけで、わらわの心は満たされた。
毎日がとても幸福に満ちていた。
それなのに……それなのに……。
わらわが、あの方と共に居たいと望んだからか?
わらわが、あの方に愛されたいと望んだからか?
わらわが妖だからか?
あの方の傍に、いや、あの方の姿を見られるだけで、良かった。
ただそれだけなのに……。
九尾の狐はその言葉を胸に鳥羽上皇の元を離れた。
けれど、いつも心の中には鳥羽上皇が居た。
愛する人のことだけを想い、俗世から離れた。
だから、その後のことはよく知らないが、絡新婦の正体も暴かれ鳥羽上皇がさし向けた討伐隊に石にされたと風のうわさで聞いた。
絡新婦の恨み言はすさまじく、石になった後も人々を苦しめたようだ。
その後、坊主がその石を砕いたらしい、まだ生きていたようだ。
九尾の狐は気の遠くなる年月を、ただ一人の人のことを想って生きていた。
もう一度……もう一度だけでいい、あの方に会いたい。
ひと目だけでいいから。
あの方に会えるのなら、わらわは何でもする。
例えこの魂が鬼になろうとも……。
鳥羽上皇が眠る案楽寿院に身をよせジッとその時を待っていた。
けれど、絡新婦の気配を察した途端、怒りのままに我を忘れた九尾の狐を、甘楽が檻に封じ込められてしまった。
束の間の夢を見ていたようだった。
『……きろ、起きろッ!』
九尾の狐の声が直接、頭の中に響いてきた。
「いったいどうなってんだ……」
目を開けると、俺は白い繭のようなものの中にいた。
体中がしびれて力が入らない。
『戯け者めがッ! 敵を目の前にして意識を手放す奴がどこにおるッ』
九尾の狐の声がガンガンと頭の中に響く。
「た、頼むからそんなに叫ぶな。頭がズキズキする」
『それは良かった。まだ生きておる証拠じゃ』
なんだかひどいことを言われているようだけど、言い返す言葉はない。
「今ってどういう状況?」
『悠長に説明している暇などないわ。絡新婦は力づくで檻を壊す気だ。さすればこの檻を作ったやつも無事ではすまぬぞ』
声はのんびりとしているが、言葉の内容はずいぶんと物騒だった。
檻を解くことは九尾の狐も容易くできることだろう。でも、それをしないのは、俺が頼んだから……というより、これを作った甘楽を傷つけないためだ。
『人を傷つけてはならぬ』
鳥羽上皇の言葉に従っているんだ。
俺だって甘楽を傷つけたくない。
でもどうしたらいいのかわからない。
体は自由に動かないし、そもそもここからどうやって抜け出せるのかもわからない。
「どうすれば……」
『念じよ。この檻を解けと念じるだけで通じよう』
そんなことで檻が解けるのかと疑問に思った。
『どうなろうとわらわの知ったことではない』
俺の考えが分かるのか、九尾の狐の声は冷たい。
そんな……。
本当だろうか。九尾の狐がウソをついているってことは?
それはない。
九尾の狐は人を傷つけない為に、自力で壊せるのにそれをしない。
なら、方法は一つ。
グズグズと考えている俺に、苛立たし気に言い放つ。
『わらわはちゃんと教えたぞ』
九尾の狐の緊迫感が伝わってくる。
ゆっくり考えている場合じゃなさそうだ。
「甘楽……甘楽! 檻を、檻を解け、早く!」
頼む、通じてくれ!
そう念じた時だった。
パリンと何かが砕ける音とともに、真っ白だった視界が開けた。
真っ先の飛び込んできたのは、悠然たる姿で佇む九尾の狐の姿だった。
捕らえていた檻はなく、九尾の狐から凄まじい妖力を感じる。
絡新婦の比ではない。
九尾の狐の力に圧倒されているのは俺だけじゃなかった。
これまで余裕の表情を見せていた絡新婦の顔が、緊張に強張るのが分かった。
『いつまでそこで呆けておるつもりじゃ? お主がどうなろうと構わぬが、あいつの餌になるのだけは胸糞悪い』
一瞬何を言われているのか分からなかったが、気づけば体中にちりじりになった糸がまとわりついている。
切られた糸は、まだ貪欲に俺から養分を吸い込もうと芋虫のように体を這い、体の中に入り込もうとしている。
「うわっ!」
その糸は俺の肌に食い込んでいて、払ったところで簡単には取れない。
『ったく、間抜けにもほどがある』
呆れた声を漏らすと、九尾の狐は持っていた扇でヒラリと俺に風を送った。
すると、引っ張っても取れなかった糸はキレイに飛び散った。
『相変わらず鬱陶しい奴だ』
悔し気に顔を歪める絡新婦に、九尾の狐は妖艶な笑みを返した。
『遊びは終わりじゃ』
そう言うと、九尾の狐は優雅に伸びをした。
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