雨上がりに残らない
逆傘皎香
1
その日は、雨が降っていた。雨の音は、頭の中の暗いうねりをかき消し、その足音によってかえって静寂をもたらした。
窓の外の千の軌跡を一つ辿れば、今私の足がついている地面から雨雲の向こうへと上ることができるのではないかと思い、一つ一つの粒として観察すれば、抽象的な期待は裏切られる。
とりとめのない思考の遊泳と、こうであると認めている現実への回帰を何度繰り返しただろうか。天蓋の裏側だけが見える。
今、輪郭のない雲から地へと、再び下りる。庭には紫苑が咲いている。中心あたりの花を付けていない群から、窓の向こうにいる自分を見て、絶望する。
お前は欠けている。だからいくら何かで満たそうとしても満ちることはないのだと。いつになっても完成することはない、肉体が朽ちて土に還ったとしても――
焦点が、窓に反射した自分の像に移る。そしてまた、思考を漂わせる。灰色と電気が窓を挟み、窓には部屋が広がっている。一枚の絵画が壁に立てかけられている。テーブルの上には広げられたノートがあり、それだけだった。
外の木や地面を雨が打つ音などは、意識に登らなくなっていた私の耳に、旋律が聞こえてきた。少女か、あるいは変声期を迎える前の少年のような、澄んだ歌声。
その旋律に心当たりはなかったが、決して初めて聞くものではないという確信もあった。旋律の上行、あるいは下行を予期することができ、その予期が正しかったことを次の瞬間に確認し、既知のものであるという思いは強化された。
歌声は外から聞こえているようだった。視線を再び外へ移すと、先ほど空想をしていた、幾本かの紫苑の傍に、白い服を着た少年か、少女の姿があった。
窓に張り付いた水滴で顔を判別することはできなかったが、水滴を貫き、歌声は私の耳に届いていた。
その日、雨は雲の向こうに太陽が沈むまで降り続き、歌はいつまでも響いていた。
夜の帳が下りると、雨の奏でる音は消えていた。静寂は、意識を内側に向かせた。
私には、決定的な何かが足りていなかった。しかし、それが何であるかの見当はつかない。
正体の分からない、その欠けている部分は気味悪さも感じられたが、不明であることがある種の安寧であるかのようにも思えた。
その輪郭の掴めないまま、欠けた部分を補うため、私は行動しているのだろう。
壁に掛けられた絵画は、白と黒のみで構成されているため華やかな色彩もなく、静的な形があるのみで見る者に衝動を与える温度もなかった。
二人が向かい合い、顔を合わせているところを横から見たようなシルエットだ。
顔の稜線は真っ直ぐに上から下へと伸び、面の中心を軸とした線対称で、まったく安定した、固定された形で、何かが起こるエネルギーを感じない。
ノートを見るために手に持つと、静かに一枚の写真が床へと落ちた。舞落ちた羽を拾い上げると、そこには河原を背景に、一人の女性が映っていた。
そして、その顔は、インクで塗りつぶされていた。
写真を見ていると、ひどく具合が悪くなり、横になった。
翌日、河原を目指し歩いていた。道中、交差点に花が咲いていた。
河原に着く。座って川の流れを見る。
こちらに向かって、呼びかける声があった。
男は、私の知り合いだと言った。人違いではないかと問うたところ、「君の姿を見間違うはずがない」と言うので、話を聞くことにした。
男の話は、大層興味の惹かれない内容であった。
結局、すべてが変わってしまった、変わらないのは僕と君だけだと思っていたが君も変わってしまったようだ、など。
私は自分に変化が起きたことなど到底思えないので、やはり人違いに間違いはなかった。
最後には、私が自棄になって山に登り、ちょうどその日、落雷があった、それから連絡がつかなくなり、この世から消えたと思っていたと言っていた。
これ以上付き合っても不毛だと判断し、この男から離れるため、私があなたの言う人間だという証拠を出してくれと言った。
そのまま引き下がると思っていたが、なんと男は、これが証拠だと写真を取り出した。
その行為だけで私はひどく不快になっていたが、その写真には、顔を塗りつぶされた男と、同じように塗りつぶされた女、そして窓に映っていた私の像にそっくりな顔が並んでいたのだから、これ以上やりとりをすることが許せなくなり、写真を振り払い、その場から立ち去った。
帰り道、地面が濡れだした。家までの距離は残り短くはなかったが、雨に打たれたい気分だったので、そのままの速度で歩いた。
そして、雨が周囲を打つ音に慣れ、地面を濡らした匂いに慣れ、濡れた服の温度に慣れ、それらを感じなくなっていた時に、ハミングを聞いていた。
信号の向こうには、白い服の人物が歌っていた。
この時、旋律以外のすべてが背景となっていた。
前景には歌があり、私自身の姿でさえ、音を中心として信号の対岸に知覚された。
この後、大きな、濁った音によって旋律はかき消されてしまった。
横から自動車のクラクションが鳴り、旋律と白い服の人物は消えてしまった。
私は信号の示す記号を見ずに渡っていたようだった。
旋律が消えたことで、世界から取り残されたような喪失感だけが残った。
雨音が聞こえだし、どこからか濡れた土の匂いが鼻を刺した。
濡れた服が冷たく肩を包んでいた。家に戻るまで、その冷たさが消えることはなかった。
家に戻ると、テーブルの上のノートを開いた。ページの上の文字は、ほとんどが黒く塗りつぶされていた。
ページを読み進めても、白い場所よりも黒い場所のほうがページの上を占めていた。
いつのまにか、歩いているうちに感じていた冷たさは感じなくなっており、代わりにノートを開いていると、熱が放射されずに体内から熱くなっていた。
指先まで熱が広がっていたが、私はノートを次へ次へと進んでいった。どこまでも続くと思われたが、ふいにそれまでのランダムな黒みではなく、律動を持った統制された黒みのあるページがあった。
そこにはスコアが記載されていた。そしてその旋律は、私の耳に聞こえていた。
窓を隔てていたが、聞こえていた。耳を塞いでも聞こえていた。なぜなら、それは本物だったからだ。
目を閉じていても、白い服の人物が見えていた。なぜなら、それは本物だったからだ。
家の扉が開き、私が出てきた。体内から感じる熱で雨の温度は感じなかった。旋律だけが私を導いた。
旋律を中心として、花の咲いた場所の中心の欠けていた部分に立つ白い服の影と、そこへ向かう私を意識は絶えず、行き来している、もしくは、同時に2つの視点を認識していたようでもあった。
そうすることが、私の欠けている何もかもを補うために取った行動だった。
旋律を歌い続ける白い服の頭にかかっていた布を取り、その中を見た。
私は、塗りつぶしていた。大切なものを一つ一つ思い出しては、インクを持って、塗りつぶした。
覚えているものがすべて消えるまで、思い出し、塗りつぶし、それを淡々と繰り返していた。
突然の決別に耐えきれず、それならば何も信じない方がましだと、すべてを忘却したかったのだ。
その切欠は、もはや一番濃く塗りつぶされていた。
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