第4話
通いから住み込みの奉公人となったあたしは、お菊さまの衣装部屋となっていた部屋に居場所を与えられ、そこに寝泊まりすることになった。
布団を満足に敷き広げることも出来ないような隙間に横になると、迫り来る箪笥に両脇から見下ろされているような気分になる。
蔵の奥から数年ぶりに出されたというかび臭い布団は、それでもあたしの知っているものよりずっと綿は厚かった。
お菊さまの悪阻が落ち着いてくると、奥の部屋に座って待つだけの日々にも終わりがきた。
お菊さまは塞ぎ込むことも多かったけれども、あたしはこの方の身の回りの世話をすることが増えていった。
この方がどんな生まれで、どんな暮らしをしてきたかなんて知らない。
だけど、あたしと全く違うのだということだけは分かった。
透けるような真っ白い肌に、小さくて綺麗なお顔。
奥さまと話す会話は、遠い町や歌舞伎役者の話しばかりで、何を言っているのかさっぱり分からない。
あたしと一つしか歳の違わないお菊さまは、京の砂糖菓子がお好きだった。
「お多津」
「へぇ、なんでごぜぇましょうか」
「そのしゃべり方、恥ずかしいから直して」
そんなことを言われ、お菊さまを見上げる。
「余所で笑われたのよ。もう二度と私に聞かせないで」
「へぇ、ですが……」
淹れたばかりの茶の入った椀が投げつけられた。
「ごちゃごちゃ言うな! 直せ」
「かしこまりました」
濡れた畳みの上にひれ伏す。
襖の開き、また閉じられる音がして、転がった茶碗を片付けた。
それでも慣れてしまうと、なんとも思わなくなるもので、古い着物や羊羹なども時には分けてもらえた。
外出のお供につくときなどは特に、草履も別にとってあるその時用のものを履くように言われた。
あたしも少しは賢くなって、お菊さまや奥さまの前へ盆に乗った砂糖菓子を差し出す前に、人気のない廊下で口に入れることも覚えた。
「えらい、いいご身分になられましたなぁ」
そんなところをお富に見つかって、あたしは足を止める。
田植えの準備が始まっていた。
田起しのための大きな風呂鍬や鋤を持ち出し、庭に並べている。
八代や又吉ら男たちに混じって、これから泥の中に入るのであろう。
野良着姿のお富があたしを見上げている。
「そんなもの盗み食いして、後でえらい叱られたりしませんか?」
「生意気な口を利かずにおったら、一つくらい分けてやってもよかったのになぁ」
一段高い所から見下ろすその光景は、特別なものだった。
「お菊さまや奥さまに気に入られてるからて、あんまり図に乗らん方がえぇですよ」
「どこに目ぇついてんのや。あんたこそ着物の一つくらい、まともに縫い直せるようになったんか」
「いま稽古してるし!」
「いつまで稽古してるんや。力仕事も炊事もまともに出来んのに、妙なところには、よう目鼻が利く」
「あんたの教え方が悪いから!」
「は? なにを言うて……」
「お富、早く他の道具も運べ。さっさとやらねぇと終わんねぇぞ」
そう言った八代の、冷たい横顔を思い出す。
お富は悔しそうな顔をしながらも、渋々自分の仕事に戻った。
もはや同じ屋敷に住んでいても、八代や又吉と顔を合わせることはほとんどない。
彼らは納屋の上に寝床を構えていて、あたしは若奥さまのいる母屋に居がある。
彼らは決してそこに足を踏み入れることはない。
「しっかり気張りや」
奥さまの、そんな口癖を真似してなんかみたりして。
あたしも馬鹿だったな。
ひれ伏したまま開けた障子の向こうには、ちゃんとお菊さまと奥さまが座っていて、さっきまでのそんなやりとりを聞いている。
「泥棒猫が入り込んだと思うていましたら、こんなところにおりましたとは」
奥さまはお菊さまに視線を移して、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「まぁ、躾の悪さは争えませんからねぇ」
コホンと一つ咳払いをしてから、わざとらしく姿勢を改める。
「下女を使うには心すべし。情をもって己を正せと申しますが、お多津を見ていると使う者の器量というものが、よう分かります」
食欲も増え、少しふくよかになったお菊さまの顔は、キッとつり上がった。
「多津! お前か床の間の花を生けたのは!」
「ち、違ぇます! 花なんか生けたこともございやせん!」
「その口の利き方を、直せといっただろう!」
「申し訳ございません!」
額を床にこすりつける。
奥さまは高らかに笑った。
「生けた花ごときでそのように声を荒げてなんですか。ようやく出来た子供に、その性分まで似なければよいのですけど」
「さすがはお義母さまの連れてきた下女です。よく女の徳、『和』と『順』をよく心得ております」
始まった罵詈雑言の嵐を、ただ黙って聞き流す。
花を生けたのは奥さまだ。
あたしがそんなことを出来るはずもなければ、やるわけもないと分かっているのに。
お菊さまがそんなことをいうのは、奥さまへの当てつけだ。
奥さまもそれを分かっているから、余計に腹を立てる。
二人にとっては互いを罵っているだけのことなのだろうが、その全てがあたし自身を非難しているようで、結局この方たちにとって、自分は視界にも入らぬような存在であることを思い知らされる。
お菊さまのいらだちはあたしに向かい、全ての怒りはあたしに向かい、機嫌の悪さもなにもかも、あたしはその全部を飲み込んで息をする。
顔を見ただけで苛つくと言われたかと思えば、そのすぐ後で呼んでも来ないと腹を立てる。
泣き出したかと思えば怒りだし、笑ったと思えば塞ぎ込む。
昨日は喜んだものが、今日にはもう気に入らない。
泣くことすら出来ず、若奥さまに散々棒で打たれた後のことだった。
衣装部屋の寝床に戻ることも許されず、縁側で横になり夜が明けるのを待つしかなかった。
明日の朝には機嫌も直っているだろう。
頃合いを見て、許しを請おう。
そんなことばかりを考える毎日に、疲れ果てていた。
星もない真っ黒な空まであたしを見下している。
「お前には苦労をかけるね」
ふいにかけられた言葉に、顔を上げた。
隣に腰を下ろしたのは、若旦那さまだった。
「お菊のやつ、なにもこんなに打つこともないだろうに」
伸ばされた指の先が、傷口に触れる。
そこだけがチクリと痛んだ。
「お多津、泣いているのかい?」
どんな話しをしたかなんて、もう覚えてもいない。
立てた雨戸の板戸にもたれ、ぼんやりと何もない夜空を見上げていた。
ただ問われたことを問われるがまま、淡々とそれに答えていた。
「ふふ。だけどお多津は、又吉と恋仲なのだろう」
「違います。そんなことはあり得ません」
もう疲れた。
奉公人同士でそんなことになるなんて、ありえない。
ましてや相手が又吉だなんて、死んでもご免だ。
「おや、そうだったのかい? てっきり……」
あたしは首を横に振った。
「もうその話は、やめて下さい」
東の空が白み始めた。
今を思えば、あの時の若旦那さまの本心はどうであったのかまで、疑いたくなる。
「早くお部屋にお戻りください。一緒にいるところを誰かに見られでもしたら、若旦那さまにも迷惑がかかります」
この山に縛り付けられてから、もうどれくらいの時が経ったのだろう。
きつく後ろ手に縛られた手首から、ドロリと生暖かい塊が流れ落ちた。
指の先はとっくにしびれ、感覚はない。
朝になれば迎えが来るのだろうか。
そうしたらあたしはまた、あの屋敷に連れ戻され、間もなく生まれてくるお菊さまと若旦那さまの赤子の世話を、任されるのだろうか……。
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