第2話
奥さまと八代の逢い引きを、又吉と二人で見てしまったその日から、どうにも離れられなくなった。
情を交わす二人の様子を、月明かりの下で盗み見た。
早く逃げ出してしまいたかったのに、手を掴んで離さない又吉のせいで動けなかった。
そういえばあの日の晩も、こんな大きすぎる満月の夜だったっけ。
「こんな奴らのことなど、何とも思ってはおりませぬ」
声に出して言ってみて、益々馬鹿らしくなった。
「……こんな奴らって、どいつのことだよ」
いいことなんて、何にもなかった。
貧しい水呑百姓の生まれだ。
気がつけば泥にまみれて暮らしていた。
土を掘り、草を抜き、日に焼かれるだけの日々が過ぎてゆく。
そうしなければ生きてゆけぬから、ただ目の前の、やれと言われたことだけをやってきた。
その理由なんて考えたこともない。
それでも町の枝豆売りや茶屋娘などより、よっぽど良い身分だと信じて疑わなかった。
馬鹿だった。
田畑の間を走り回っていた。
幼い時分には、石を見つけて投げ捨てるだけでほめてもらえた。
百姓として生きることに、なんの疑問を抱いたこともない。
若旦那や八代に顔を覚えられていたのをいいことに、両親が村名主である旦那さまに奉公の話しを持ちかけた。
なかなかに渋られていたのが、一昨年にようやく雇ってもらえた。
うれしかった。
地を這うような野良仕事から解放された。
毎日まともな着物を着て掃除や洗濯に明け暮れた。
これでお給金までもらえるだなんて。
そんな人生を想像したこともなかった。
一生懸命に働いた。
食うにも困らなくなった。
次の年季も勤めないかと言われ、天にも昇るような気分だった。
この前の秋の出替りで、お富が入ってきた。
ずっと働いていたお松さんの代わりだ。
四十を超え、お役御免を申し出たお松さんと違って、十を過ぎたばかりのお富には手を焼いた。
知恵も回らず力もないお富に、あれこれと仕事の要領を教えるのには骨が折れた。
まだ遊びたい盛りだ。
殴りつけたこともある。
怒鳴り散らしたこともある。
投げつけた薪で怪我もさせた。
だけどそれで、こんな恨みを買うこともないじゃないか。
野良仕事で泥の中に埋められるより、よっぽどマシだ。
お富と又吉が恋仲だろうがなんだろうが、あたしは知らない。どうだっていい。
だけど、少しでも世話を受けた相手に向かって、どうしてこんな仕打ちが出来るのだろう。
又吉のことは何とも思っていないと、何度説明しても誰も耳を貸さなかった。
調子にのるあの男の顔を見るたびに、吐き気がした。
便利に思っていたことは間違いない。
又吉に頼めば大概のことはやってもらえた。
誰の邪魔にもならないように、誰の迷惑にもならないようにと、そうやって生きてきた。
自分は不幸なのだと、誰からも認められるような困難もなく、かといって幸せかといわれれば、そうでもない。
どうすれば幸せになれるかだなんて、そんなことを考えたこともなかった。
今ではもう、遠い昔の話しだ。
あぜ道を裸足で走り回っていたら、屋敷へ招かれた。
何事かと思い誘いに乗ってみれば、ほぐした鯛を混ぜた握り飯が差し出された。
「昨晩、若旦那の祝言があってね。その祝い膳の残りだよ」
まだ若かりし頃の奥さまが自ら差し出したそれは、塩のよく効いた握り飯だった。
その座敷の奥に干されていた真っ白な打掛の艶やかさが、今も目に焼き付いている。
染み一つ無い純白の、その汚れ無き白に憧れた。
眼前の月が眩しく輝く。
目の前を大きな蛇が横切った。
冷たい鱗がぬめりと光る。
遠くでカサカサと物音が聞こえた。
「誰か! 誰かお助けを!」
無言のまま足早に駆け出す足音は、イノシシだったか?
ここでこうして縛り付けられたまま一夜を明かしたその後に、何が待っているのだろう。
傷の手当てくらいはしてもらえるかもしれない。
それはお富か又吉なのか。
お富ならイヤミばかりを言いながら、いい加減な仕方で終わるのだろうな。
又吉なら着物を全部脱げとか言ってくるかもしれない。
喉の渇きにゴクリと唾を飲み込む。
動かした口の端から、また血が流れ始めた。
これで本当に変われるのなら、安いもんだ。
若旦那の手が伸びて、あたしの頬に触れた。
そのまま顔は近づいて、唇を重ねる。
灯明皿の火が消え、初めて男の腕に身を預けた。
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