極楽往生

岡智 みみか

第1話

 殴られた左頬がまだ痛む。


縛り付けられた縄が食い込み、全身のしびれと寒さに目を覚ました。


「あ~、くそっ!」


 血生臭い唾を吐き捨てる。


空には嫌になるほど大きな月がかかっていた。


何よりも気に入らないのは、毛羽だった杉の木に縛り付けられているせいで、肌に刺さる棘までもがチクチクと痛み落ち着きが悪い。


気付けにとぶっかけられた井戸の水で、着物はすっかり濡れてしまっている。


 旦那さまに呼ばれ、部屋に入った。


奥さまと番頭気取りの八代、又吉にお富の奴まで含め、奉公人皆が勢揃いしていた。


ただならぬ雰囲気に、あたしはようやく己の身に降りかかった災悪の大きさに気づく。


「決して、決してそのようなことはございませぬ!」


「では本当に、一切の非はないと己に認めるか」


 そう問われて、言葉に詰まる。


己に対する非? 


そんなもの、持たぬ人がこの世にあるだろうか。


 恐る恐る顔を上げた。


旦那さまは怒りに満ちた目であたしを見下ろし、八代はいつものように顔色一つ変えやしない。


又吉はやたらとニヤついていた。


奥さまはすぐに騒ぎ始める。


「ほらご覧なさい! なにも言わぬのが、何よりの証拠ではありませんか!」


「そうでごぜぇますとも、全くその通りにごぜぇます!」


 お富は当然のようにそれに同調した。


奥さまのわめき散らす怒鳴り声にただただひれ伏し、あたしは「申し訳ございません!」をいつものように繰り返す。


「ほら、このように多津も認めております」


 その一言に、ハッとした。


「ち、違います!」


「何を言う! たった今、謝ったばかりではないか!」


「このお富が保証いたしやす。奥さま、この女は……」


「分かった、もうよい!」


 旦那さまは扇子をパチリと鳴らした。


「多津を一晩、裏山に縛り付けておけ!」


 だからって何も、あんなに酷く殴りつけることなんかありゃしないじゃないか。


大体何が悪いってんだ。


どれもこれも全部、あんたらのせいじゃないか。


あたしの何が悪い? 


人を悪人みたいに扱いやがって。


 寒さに身が震えた。


明るい満月の夜だ。


ここはどこなんだろう。


随分と山の奥まで連れてこられたもんだ。


カサリと小さな音がして、腫れ上がったまぶたを持ち上げる。


見れば小さな栗鼠がこちらを見上げていた。


一時立ち止まっただけで、あっという間に走り去ってしまう。


「おい、栗鼠なら縄ぐらい解いていけ」


 きつく杉の木に縛り付けられているせいで、指の先しか動かせない。


首はかろうじて回るが、それには激しい痛みが伴う。


 あの仕置きの場に若旦那さまとお菊さまのいなかったことが、あたしにとっての全てだったのだ。


どれだけ尽くしても、かばってくれる人などいやしない。


ふいに可笑しくなって、面白くもないのに笑う。


 何が出替わり日を迎えないと暇はだせぬだ。


騒ぎ立てるやかましい奥さまを、さっさと黙らせたかっただけじゃないか。


結局は台所奉公の出替奉公人より、長年季で働く男手の八代と又吉を選んだってことだ。


これから稲刈りの始まる忙しい時期に、皆のご機嫌取りの道具にされたんだ。


いつだって落ち着かない居心地の悪いあの家が、こんなことで静かになんてなるもんか。


 あたしに色目を使っていた又吉が、一番に縄をかけた。


元々信用もなにもなかったが、ここまで酷い男だとは思わなかった。


あんな男に惚れているお富は、どうかしている。


 傷口に掛けられている縄のせいで、ズキズキと腕が痛む。


流れた血で着物は赤く染まっていた。


遠くで梟の鳴く声が聞こえて、深く息を吐き出す。


体が火照り始めていた。


熱が出てきたようだ。


頭まで痛み始める。


 若旦那さまのことを、一度でもそんな目で見たことはなかったかと言われると、否定することは難しい。


だけど所詮身分の違う立場だ。


自分のような小間使いの下っ端奉公など、相手にされても、してもらうのも、いいことなんてありゃしない。


お手つきの奉公人になんて、なるもんじゃないと知っている。


そんなこと、誰に言われなくても分かってる。


だから嫌だったんだ。


こんなことになるなら、あの時にちゃんと逃げ出せばよかった。


 初めて男に抱かれた。


この機会を逃せば、もう一生こんなことはないと思った。


又吉から浴びせられる色目が、とにかく気持ちわるかった。


いずれ又吉なんかにそうされるくらいなら、若旦那と床入りした方がまだマシだと思った。


ただそれだけのことだった。


 あの日の晩に、なぜ自分が泣いていたのか。


あの時になぜあたしはついていったのか。


その全てが今ここに答えとしてある。


あたしはどうしても乗り越えられない何かを、風のように乗り越えてみたかっただけなのかもしれない。

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