桜の樹の下に屍体を埋める。

裕理

桜の樹の下に屍体を埋める。

 彼女はもう手遅れだった。専門家である男からすれば、火を見るより明らかだった。半年前、彼女が病に冒されているのがわかった。あらゆる手を尽くした。しかし彼女の体はもう負担に耐えられないようだった。日に日に衰弱する彼女の体は痩せ細り、かつての溌剌とした肉体は失われていた。

 これ以上苦しむ彼女の姿を見たくなかった。

「病などに奪われるくらいならば、私の手で奪わせてくれ」

 そう呟き、男は手を下した。彼女の体に注射を打った。薬品が彼女の肉体に送り込まれた。薬品が彼女の肉体を巡り、生命機能を少しずつ奪っていった。次第に彼女の鼓動は弱まり、事切れた。こうするしかなかったのだ、と彼は唸り静かに涙を流した。桜の蕾が膨らみ始めた三月のことだった。


 男は呆然としていた。目の前で最愛の彼女が死んだ。その現実を受け入れられなかった。もう彼女と過ごすことはできないのだと思うと何も考えられなかった。男は彼女と過ごした日々を思い返していた。思い出の中の彼女は甘えた顔をして男を見つめていた。いつまでもそうして俺のことを見つめてくれ、男はそう願った。

 しばらくして男はいくらか正気を取り戻した。ゆっくりと立ち上がった男は屍体の頭を撫でた。動かぬ屍体の頭を何度も何度も、その手触りを忘れぬ様に男は撫でた。

「どうしてこうなったんだ。俺はどうすればよかったんだ」

 男は静かに呟いた。


 彼女は寂しがり屋だった。いつも傍にいてやらねばならなかった。仕事だと言ってもお構いなしに甘えてきた。時には仕事に行くなと言わんばかりにじゃれついてくることもあった。甘噛みすることすらあった。彼女は頭を撫でられるのが好きだった。無視すると頭を擦り付けて強請ってきた。妻を失った男にとって、彼女は癒しだった。心の拠り所だった。そんな彼女を愛していた。彼女と過ごした十年間はあまりに愛おしい時間だった。写真立てに写る彼女の姿を見た。

「すまない」

 男は何度も呟いた。写真の中の彼女は美しかった。横たわる屍体はまるで剥製の様だった。冷たく凍りついていた。もう二度と動くことはない。他の誰でもない。男の手によってこうなったのだ。

 

 男は彼女のお気に入りのぬいぐるみを手にした。もうボロボロになったそのぬいぐるみを大事そうに抱きしめた。そして彼女と初めて会った時のことを思い出した。十年前の春のことだった。悲しみに暮れる男の元に彼女は現れた。初めて会った彼女は小刻みに震えていた。小さな体は頼りなく、まるでガラス細工の様だった。触れれば壊れそうな脆さを感じた。しかしその目は快活そうな光に溢れていた。彼女の傍に行き、頭を撫でてやった。彼女はその明るい瞳で彼を捉えた。その瞬間、彼は彼女を気に入った。その日から男は何度も彼女と遊び回った。彼女は人懐こく活発だった。男は彼女と外を走り回った。彼女は小さな体を目一杯使って走っていた。塞ぎ込んでいた男は彼女のおかげで気力を取り戻していった。男は彼女のことを大切に思っていた。幼馴染のように慕っていた。彼女との思い出が走馬灯の様に過ぎて行った。思い出の中の彼女は男を置き去りにして走り去って行った。


 彼女は「ハル」という名前だった。春に生まれたからそう名付けられたのだ。そのせいか近所の公園の桜並木を好んでいた。春になり、桜が咲くと喜んで駆けて行った。鼻をひくひくさせて、春の匂いを感じ取ろうとしていた。男はその後ろ姿を思い出していた。舞い散る桜の花びらの中を走り回る彼女は、美しかった。


 男の脳裏にある考え浮かんだ。屍体をあの桜並木の下に埋めるのだ。

「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐるんだよ」

 どこかの小説家がそう書いていた。小説家曰く、あんなにも見事に咲くのは屍体が埋まっているからだそうだ。馬や犬猫や人間の屍体が埋まっている。それを吸い取り桜は爛漫と咲き乱れるのだ。

 ならば彼女の屍体を埋めてやろう。屍体を埋められた桜は、見事に咲き誇るだろう。あの美しい彼女の屍体が埋まっているのだから。

 桜の樹の下に屍体を埋める。その考えは男を駆り立てた。美しい屍体は美しい桜の樹の下に埋めなければならないのだ。美しく咲き乱れる桜の養分とならねばならないのだ。亡霊の様にふらつきながら男は横たわる屍体に近寄った。優しく屍体を撫でた。徐に屍体を抱き上げると、踵を返し、飛ぶ様に走った。彼を止める声がした。しかし彼の耳には届かなかった。車に乗り込むや否やすぐに走らせた。行き先は彼女とよく訪れたあの公園だ。あの公園の桜並木だ。


 男と屍体は桜の樹の下に着いた。男はシャベルで穴を掘り始めた。一心不乱に掘り始めた。誰も止めるものはいなかった。この瞬間は彼のためのものだった。屍体のためのものだった。

 男は屍体を穴の中に収めた。そして幾度か屍体の頭を撫でた。ふわふわとした毛の感触がした。後ろから彼を呼ぶ声がする。気づけばもう朝になっていた。屍体のライトゴールドの毛が朝日に煌めいた。もう追いつかれたのか、と男は思った。すぐに男は掘り返した土を屍体にかぶせ、穴を埋めた。そうして屍体は桜の樹の下に埋めた。男は満足した。途端に涙がとめどなく溢れた。彼女は男の手元から旅立った。そして彼女は永遠になった。


 気づけば傍らには彼の父がいた。男を追いかけてきたのだろう。そして涙ぐむ彼に優しく声をかけた。

「どうしてこんなことをしたのだ。ハルをちゃんと埋葬してあげよう。ペット用の墓地があるのだから」


 ********


 その日、桜井どうぶつ病院の院長の愛犬が亡くなった。名前はハルちゃんというメスのゴールデンレトリバーだ。ふわふわとしたライトゴールドの毛が特徴的な愛らしい犬だった。十年前、この病院を開業した時に桜井家にやってきた。桜井院長の息子が十歳の頃だ。桜井院長の妻を無くしたばかりの頃だった。母を失った桜井院長の息子はハルちゃんの暖かさに触れて元気を取り戻した。彼はハルちゃんのことを大切にしていた。幼い頃のハルちゃんの体は小さく、同じ種類の子犬と比べても小柄だった。一方でこの犬種特有の快活さを持っていた。桜井院長の息子と共に外を走り回っていた。その甲斐あってか、大きく育ち立派な肉体を持つ大型犬となっていた。

 桜井院長の息子はハルちゃんのことを幼馴染の様に好いていた。ハルちゃんは彼ら二人によく懐いていた。彼ら家族にとってこの十年間は幸せに満ち溢れたものだった。しかし半年前にハルちゃんは病に冒された。あらゆる手は尽くされた。しかしハルちゃんは既に老犬であった。これ以上の治療は肉体に負担がかかるため行うことができないと判断を下された。他でもない桜井院長の手によって。

「病などに奪われるくらいならば、私の手で奪わせてくれ」

 桜井院長はそう言い、ハルちゃんに安楽死の処置をした。愛犬を自らの手で死に至らしめた院長はこうするしかなかったのだ、と唸り静かに涙を流した。目の前でハルちゃんが死ぬのを見た桜井院長の息子は呆然として座り込んでいた。しばらくして徐に立ち上がると何度もハルちゃんの頭を撫でていた。「どうしてこうなったんだ。俺はどうすればよかったんだ」と呟いていた。

 重苦しい沈黙が彼らを覆った。桜井院長は写真立てを眺めていた。そこには幼い頃の息子とハルちゃんが写っていた。何度も「すまない」と呟いていた。桜井院長の息子はハルちゃんお気に入りの、いつも噛みついていたぬいぐるみを手にしていた。ボロボロになったそのぬいぐるみを彼は抱きしめていた。

 「桜の樹の下に彼女を埋める」

 桜井院長の息子はそうつぶやくと、突然ハルちゃんの屍体を抱き上げた。そして車に飛び乗った。その姿を見た桜井院長は止まる様に声をかけたが、息子には届かなかった。桜井院長は彼の行き先が近所の公園であると感じた。すぐに別の車に乗り、息子を追いかけた。公園の桜並木にはやはり彼の息子がいた。彼は己の企みを完遂した様だった。その傍らには土が盛り上がっていた。桜井院長は息子のそばに駆け寄り、声をかけた。

「どうしてこんなことをしたのだ。ハルをちゃんと埋葬してあげよう。ペット用の墓地があるのだから」


 ********


 ハルちゃんはペット用の墓地に埋葬された。墓地の近くには桜が咲いていた。その桜は信じられないほど見事に咲いていた。まるで樹の下に屍体が埋まっているかの様に。

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桜の樹の下に屍体を埋める。 裕理 @favo_ured

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