大好きな人は一番近くにいるんです。

サイトウ純蒼

大好きな人は一番近くにいるんです。

「え! さっこ、マジで振ったのぉ、橋本君!?」


坂下桜子さくらこの親友が信じられない顔をして言った。桜子が答える。



「うん、あんまり興味なくて……」


「マジで……?」


親友が桜子を見つめる。

背中まで伸びた黒く艶のある髪。絹のような白い肌。見た者を優しくさせるような穏やかな瞳。

桜子は決して良家の令嬢ではなかったが、どこかのお嬢様のような可愛らしい雰囲気を持った女の子であった。



「じゃあ、どんな人なら興味あるの?」


親友の質問に桜子が少し考えてから答える。



「う~ん、もうちょっと年上がいいかな」


「年上? 高校生ぐらい?」


女子中学生であるふたりの会話。桜子が答える。



「もっと上でもいい」


「大学生ぐらい?」


「うーん……」



「えっ!? じゃあ社会人とか?」


「うん、全然OKだよ」


「それじゃあオッサンじゃん。まさかさっこってオヤジ好き?」


「分かんないよ~」


桜子は笑って親友に答えた。






「ただいまー」


「おかえり、遅かったねえ」


桜子の声に母親が答える。



「うん、部活が長引いちゃって、それから友達とおしゃべりしてて……」


「早く着替えてらっしゃい、ご飯できてるわよ」


「はーい」


桜子はすぐに自室に行って着替えると、食卓へ降りて来た。



「おかえり、桜子」


「あ、お父さん。ただいま! 今日は早いね!!」


桜子は食卓に座る父親に笑顔で答える。

父親はよれよれの服に薄くなった頭、既に酒を飲んで顔を赤らめている。



「ああ、今日は仕事が定時で終わってね。みんなとご飯食べられて嬉しいよ」


上機嫌な父親にその斜め向かいに座った桜子の姉の冬美が言う。



「ちょっと、そんなに大きな声でしゃべらないでよ! ツバが飛ぶでしょ!!」


「ん、ああ、すまない、すまない」


父親はそう言ってビールを口にする。冬美が続けて言う。



「それと絶対に私の前にお風呂に入らないでよね!! 今度やったら本気で怒るから!!」


冬美は数日前に父親が先に風呂に入り、怒鳴ったことを思い浮かべて言う。



「あなた。年頃の娘がいるんだから、ちょっとは気を付けてくださいね」


「ああ、分かってるよ。分かってる」


父親はそうって再びビールを口にする。



「ごちそうさま」


姉の冬美はそう言って食事を終えると、ひとり風呂場へと歩いて行く。桜子は黙って食事を続けた。




「母さーん、おい、母さーーん!! タオル、タオル持って来てくれ!!」


皆が風呂に入った後、ひとり風呂に入った父親がタオルがないことに気付いて大声で叫んだ。


「冬美!! ちょっとお願いっ!!」


母親は化粧の真っ最中で化粧台から動けない。すぐに姉の冬美を呼ぶが、居間でスマホをいじっている冬美は返事もしない。



「冬美っ!! 聞いてるの、冬美!!」


「私、行くね!!」


一緒にいた桜子が立ち上がってタオルを持ち風呂場へと向かう。



「お父さん?」


ゆっくりと脱衣所のドアを開け中に入る桜子。父親の服が無造作にかごに入れられている。桜子はかごからはみ出た父親の服を丁寧にかごに入れ直す。



「ん? 桜子か? タオル持って来てくれたか?」


桜子に気付いた父親が声を掛ける。



「うん、お父さん、これ!」


桜子はそう言って少し風呂場のドアを開け、中を見ないようにしてタオルを差し出す。



「おお、ありがと、ありがと。ありがと、桜子」


「うん、じゃあね」


桜子はそう言ってドアを閉めて脱衣所から出た。







「坂下、俺と付き合ってくれ!!」


桜子は呼び出された体育館の裏で、学校一の爽やかイケメンと名高いサッカー部のエースから告白されていた。大切な用があると言って呼ばれた桜子だったが、思わぬに戸惑いつつも言葉を返す。



「ごめんなさい。私、好きな人がいるんです」


相手は学年がひとつ上の先輩。なるべく傷つけないよう気を遣って言った。エースが言う。



「好きな人がいるんだ。そうか、それはどんな人?」


桜子はすぐにの顔を思い浮かべる。しかしそれをかき消して答えた。



「秘密です。言えないんです……」


サッカー部のエースはそんな桜子の仕草ひとつひとつが可愛いと心から思った。しかし届かないものは仕方ない。好青年らしく笑顔で言う。



「ありがとう。はっきり言ってくれて嬉しかったよ。でも俺は待ってる。気が変わるまでずっと待ってるから」


そう言うと爽やかな笑顔を残して去って行った。



(ごめんなさい……)


気の優しい桜子は心の中で何度も謝った。






「うっそおおお!! マジで? 信じられない!!!」


桜子は姉の冬美の絶叫を聞いてふたりの方を見た。



「何で先にお風呂入っちゃうの!? あれだけ言ったでしょ!!!」


休日、遅く帰って来た高校生の冬美は、父親に先に風呂に入られたと知り再び激怒する。父親が言う。



「だって誰も入らないじゃんか。一番風呂気持ちいいし」


冬美が顔を赤くして言う。


「信じられない!! あー、あんな風呂気持ち悪くて入れないわ!! ハゲがうつるし、今日はシャワーだけ、ああ、そうしよ!!!」


怒りが収まらない冬美が悪態をつきながら風呂場へと消えて行く。それを見た妻が言う。



「あなた、あれだけ言ったでしょ!! 年頃の娘がいるんだからちょっとは振舞いに気を付けてって」


「いいだろ、一番風呂は気持ちいいし。昔は一緒に風呂に入っていたんだぞ」


妻はよれよれの服、そして髪の薄くなったを見てため息をつく。



「ん、この頭か? 男はな、ハゲてなんぼだぞ。女には分からんと思うがな!!」


妻は何も言わずに首を横に振って台所へと立ち去った。






「坂下、来月からT社の担当を外れて貰う」


「え?」


桜子の父親は上司に呼ばれて言われた言葉に唖然とする。



「そ、それは本当ですか……」


T社とは数十年にわたって担当してきた企業。その担当を外されるのは社内で仕事を失うに等しいことであった。上司が言う。



「会議で決まったことだ。あまり気にするな」


大企業に入って数十年、同期がどんどん出世していく中、何とか自分の居場所を保っていた桜子の父親は目の前が真っ白になり最後は上司の話も何も聞こえなくなっていた。




(耐えろ、耐えるんだ。家族がいる……)


父親はトイレの個室に籠る。

様々な社会の刃が飛び交う社内。そんな戦場のような場所でここは唯一、誰にも邪魔されずにひとりになれる場所であった。


「はあ……」


便座に座ってため息をつく父親の耳に誰かがトイレに入ってくる音が聞こえた。



「でね、俺に回って来たの。T社の担当」


「へえ、凄いじゃん。でも、坂下さんは?」


桜子の父親はじっと動かずに耳を澄ます。

声の主は若手社員のふたり。ひとりは坂下自身が指導したこともある元部下だった。男が続ける。



「噂なんだけど、T社の社長の娘がさあ、大の嫌いで、やって来る坂下さんを見て『気持ち悪い』っていつも言ってたんだってさ」


「マジで? そりゃないわ」


「だろ? まあそのお陰で俺はT社担当になれたんだけどな」


ふたりの男はそのまま笑いながらトイレを出て行った。




「う、ううっ……」


桜子の父親はひとり吐きそうになる衝動を必死に堪えた。






「ただいま……」


「あ、おかえり。お父さん!!」


桜子は帰ってきた父親に元気に答えた。しかしすぐに少し様子が違うことに気付く。



「おかえりなさい。ご飯できてますよ」


すぐに桜子の母親が声を掛けた。




「ん、どうした冬美? 随分化粧が濃いな……」


食事中、いつもよりしっかりと化粧をした冬美を見て父親が言った。



「……」


無言で食事をする冬美。先のお風呂の件以来、全く父親と口をきいていない。




「どうした? 彼氏でもできたか?」


そんな父親の言葉にかっと目を開いて冬美が言った。


「訳の分からないこと言わないで!! うつるの、そのよれよれの服も、体臭も、ハゲも!! 話し掛けないで!!!」



「何、言ってんだ、男ってのはな、ハゲてなんぼで……」



「うるさいっ!!!!」


冬美はテーブルを大きく叩くとそのまま自分の部屋へと走って行った。妻が言う。



「あなた、何度言えば分かるの? 娘は繊細な時期なのでつまらないことは……」


「そりゃ、大切な娘だ。変な男でもついたらかなわんしな。で、桜子はどうなんだ?」


「桜子はまだ中学生ですよ」


妻が溜息をついて言う。桜子が答える。



「好きな人は、いるよ」


「ほ、本当か!?」


父親が驚いた顔で言う。母親も尋ねる。



「誰なの? 同じクラスの子?」


桜子は首を振って言う。



「ううん、違うよ。誰かはね……、秘密!」


そう言って顔を赤くして笑顔で答える。父親が言う。



「変な奴じゃないだろうな? そんな奴は絶対に父さんが……」


「大丈夫、変な奴……、じゃないよ」


「そ、そうか……」


そう言った父親の顔は少し寂しく映った。





「おーい、母さん!! タオルを、タオル持って来てくれー-!!」


再び風呂場から響く父親の声。

しかし母親も姉の冬美も黙って返事をしない。


「はーい」


桜子は返事をして立ち上がる。



「お父さん、入るね」


そう言って脱衣所に入る桜子。

そして洗面台の隅に置かれた紙袋から半分出ていたボトルに目が行く。



(育毛剤……?)


これまで家で見たこともない育毛剤。

まだ新しく、買ったばかりなのかレシート共に無造作に置かれている。




――ハゲがうつるの!!


桜子の頭に姉の声が響く。



「ん、桜子か? タオル持って来てくれたか?」


「う、うん、お父さん!」




――男はハゲてなんぼだぞ!


今度は父親の声が桜子の頭に響く。



「はい、お父さん!!」


そう言って少し開けたドアからタオルを渡す。中にいた父親がタオルを受け取ってから桜子に尋ねた。




「なあ、桜子」



「なに?」



「その、好きな奴ってのは、その、なんだ……、本当に好きなのか?」


桜子には父親が自分を過度に詮索しないよう気を遣っているのが分かる。桜子は心の中で言う。



(お父さん……)



桜子が言う。


「大好きだよ!!」



「ん、ああ、そうか……」


父親は少しずつ遠くなっていく娘に寂しさを感じつつも、この間まで一緒にお風呂に入っていた小さかった娘の成長に目頭を熱くした。

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