『私のN』-3 宙の彼方

 あれからほぼ毎晩、私は甘い地獄でおぼれていた。

「リリー」

ノアさんは私の耳元で甘くささやく。彼の唇が優しく肌に触れるたび私の頭はしびれて何も考えられなくなる。

傍目はためには特別いやらしい光景ではない。子供のようにキスをして、ベッドの上で名前を呼び続けている。たったそれだけなのに私の体は異様なほど彼に反応してあちこち敏感になる。

「あ……」

「リリー」

声が、手が私の肌の上をっていく。

「俺は君をどうしたいんだろう?」

「あ、あ……」

「そろそろ教えて欲しいな。この感情が何なのか、君は知っているんでしょう?」

「んん……」

「ねえリリー」

魔性ましょうの声というものが存在するなら彼のような声だろう。抵抗し難いひどく甘い声。耳元で囁かれるだけで思考が働かなくなる。

「……やりすぎたかな」

ノアさんは急に甘えたな態度を引っ込めてベッドに寝転がった。

「明日こそ教えてね、リリー」


 それから何日経ったのかわからなくなってしまった。甘い地獄はずっと続いて、深い考え事は何もできなくなっていた。

「ふ……」

「リリー」

とろけた目で彼を見上げると、顔がよく見えなかった。いや、なかった。

彼の顔がある場所には虚空こくうが広がっていて、星空が見えている。

「リリー」

声はどこから響いているんだろう?

夢なのか現実なのかわからない。その中で必死にもがいて、私は彼に手を伸ばす。

「ノア、さん……」

「リリー、ごめんね」

「謝らないで……私は大丈夫……」

(ダメだ。私がしっかりしなきゃ……)

「ノア、さん」

その先を口に出せたかどうかはわからない。でも彼が恋をしているって教えなくちゃ。そしてこのずっと遠くから響いてくる奇妙なフルートの音は何?

「ノアさん……ノアさんが誘惑ゆうわくしなくても私は、ノアさんが好きです……。両思いってわかりますか……? 愛し合っているんです……」

途端にひらめいた。そうか、ノアさんのお母さんもこの甘い地獄の中にいるんだ。

「ノアさんのお母さんもきっと……アーロンさんにたくさん愛されていて……私も一緒だから……あれはたくさん愛された証だから……」

ノアさんが息を飲む気配がした。

「お母さんはきっと幸せなんです。幸せな夢を見ている……でももう自分じゃそこから出られなくて……だから……」

「……そうか」

ノアさんの声色はずっとずっと悲しそうだった。

「そうか。俺は君が好きなのか」




 滞在してもう何日目なのか。やっと霧が晴れたので私たち学生はやっと屋敷から解放される。

「ええー? じゃあ何? イケメンとずっといい感じだったのー?」

からかってくるミアを屈ませてしい、と唇の前に指を立てる。

「ルークには黙ってて」

「え? リリー、気付いてたの?」

「ノアさんに嫉妬しっとされて気付いたの……」

「へーえ、アンタも大人になったねえ」

 私たちは使用人に直してもらったレンタカーに乗り込み立派な邸宅を後にした。私は何度も振り向いて、ノアさんにたくさん手を振った。

その時はまだ甘い地獄の中で奇妙な夢を見た程度に思っていたけど、問題はその後、それが夢で終わらなかったことを知った時。




 ミアたちとの残り少ない学生生活が帰ってきて、私はアメリカでの思い出を噛み締めながら毎日学校へ向かった。

ミアは相変わらず明るいし、ヨランダはUFO語りが止まらないし、ルークは何度か私をデートに誘ってそのたびに断って、イーライは私と一緒にみんなに振り回されて困ってた。


 最初に違和感を感じたのはミア。チアリーダー部の彼女は最近チア部に顔を出していないらしく、あんなに熱心に大会目指して練習していたのに変だなと思い、放課後声をかけてみた。

「ミア最近部活出てないって聞いたけど本当?」

「え?」

彼女は首を傾げたまま二秒くらい固まった。

「ミ、ミア?」

「ああ、うん! 部活はいいの!」

「どうして? もうすぐ夏の大会あるよね?」

大会があるのはアメフト部。チア部は基本アメフト部とセットで動くのでアメフトの試合があれば彼女らも出ると言う形だ。

「大丈夫! 補欠の子に頼んだから!」

「だ、大丈夫って……」

ミアはしょっちゅうほかに得意なことがないから、自分にはチア部しかないと言っていた。青春を全部そこに注ぐ勢いで熱心だったのに、理由もなく部活を休むのはおかしい。

「部活で何か嫌なことでもあった? 話聞くよ?」

「ううん、大丈夫。それよりさぁBaskin Robbinsサーティーワンの新フレーバー出たって。このあと食べに行こうよ」

「そ、それはいいけど……」

「決まりー! じゃあヨランダにも声かけよう!」

「う、うん」

混乱したせいで、アイスの味はしなかった。


 次に変だなと思ったのはルーク。

ルークはこれまで色んな美女に声をかけつつも私に思いを寄せていたらしい。あれから私がノアさんと連絡先を交換して、ルークに対し素っ気なくなっても彼との距離感は変わらなかった。普通、男のニオイがしたら距離感って変わりそうなものじゃない?

 ある日の放課後、私はノアさんと電話をしていた。

「変わりはない?」

ノアさんは私と話す時必ず日本語を使ってくれる。その気遣きづかいが嬉しい。

「はい。友達も元気です」

「……俺は君のことを聞いてるんだけどね」

「あ、ごめんなさい」

「そうやってすぐ謝る」

「あ、あはは……」

「リリー!」

「あっ、ルーク……ちょ、ちょっと待って。いま電話中」

「おお、いいよ」

いつの間にか現れたルークは私の真横で電話の声が聞こえているだろうに、笑顔で待っていた。

(ルークもちょっとは日本語わかるのに……)

「リリー」

「はい?」

「今となりにいる友人も変わりない?」

「え?」

ノアさんは友達の話より私自身の話を聞きたがる。その彼がどうしてか、初対面で思いっきりにらんでいたはずのルークのことを聞いてくる。

(前は……ルークの話するだけで怒ってなかった?)

「え、ええ。ルークもいつも通り……元気ですよ?」

「そう。……ああ、今行く。ごめん、電話はまた今度」

「え、ああ。お仕事ですか?」

「うん。またかけるよ」

「はい!」

「リリー、愛してる」

ノアさんは甘さを抑えてささやいた。私の頭がしびれないように。

彼なりの真摯しんしな愛の告白だった。

「……私も、あなたが好きです」

「うん。じゃあまたね」

今のはルークにも伝わってしまっただろう。

 振り向いて、あなたの気持ちに答えられなくてごめんなさいと言おうとして、ルークが変わらない笑顔だったことに違和感を覚えた。

「……ルーク」

「ん?」

「その……」

あなたは私を好きだったでしょう? どうしてそう平然としているの?

「電話のこと……ごめんね?」

「え?」

ルークも首をかしげて二秒くらい固まった。ミアと同じ。

人間なのか疑わしい表情。背筋に冷たいものが流れる。

「る、ルーク」

「ああ!」

ルークはパッと明るくなった。

「ノアさんとリリーのことは聞いてる」

「えっ」

「でもほら、

「そ、それはちょっと困るかな……」

「どうして?」

どうして? こっちのセリフよ。どうして笑顔なの?

「だって、私ノアさん以外の男の人考えられないもの。あ、愛し合ってるの! だからルークの気持ちには応えられない……」

「知ってるよ。でもいいでしょう? 好きなだけなら」

「なにそれ……」

何かが変だ。何かはわからないけど、変だ。

「リリー!」

「お、ミア。おーいここ、ここ!」

「なーんだルークもいたの。ドーナツ食べに行かない?」

「お、いいねぇ。行こうぜリリー」

「え? うん……」

ドーナツを味わってる余裕はなかった。

(違う、何か違う……)




 違和感に目をつむって数日過ごし、ヨランダがまた学校に出てこず引きこもったために家へ遊びに行こう、とみんなを誘った。

全員揃えば違和感はきっと消えてくれるだろうって。

いつもみたいに笑い合えるだろうって。

集まらなきゃよかった。一人で行けばよかった。

 ヨランダは自分の部屋にいた。部屋にいて、何も映ってないゲーミングテレビをずーっと見てた。

「ヨ、ル……」

やめておけばいいのに私は振り返った。

ミアとルークとイーライは笑顔のまま固まってた。息もしないで。

「……ッヨル!」

泣きそうになりながらヨランダの肩を掴んでこっちを向かせた。

彼女も笑った顔で固まってた。人形みたいに。

「あ……」

膝から崩れ落ちて、どうしたらいいか分からなくて、ノアさんに電話をかけた。

「……ノアさん」

「ああ、人形が壊れた?」

彼はまるでこちらを見ていたように喋った。




 ノアさんとの電話の後すぐ、黒スーツの男の人や女の人が突然ヨランダの家にやってきて、笑顔で固まったままのヨルたちをしてバンに積み込んだ。ヨランダの家は彼女自身と耳が遠いおばあちゃんしかいない。

おばあちゃんに言い訳をする必要すらなくヨルの家を出て、私も一緒に車に乗せられ霧の向こうのソルピーていへ連れて行かれた。

 ソルピーていの玄関先に着いた私の顔が真っ白でも、スーツ姿のノアさんは無表情だった。


 真っ赤なカーペット、真っ黒なテーブルクロス。状況に不釣り合いな豪華なフルコース。

山積みにされた肉料理を囲みゴシックスーツを嫌々着たノアさん、アダムさんエイダさん、三人によく似た灰色の髪をしていて笑顔が張り付いている男性と白いロリータを着せられた私がつどった。

「あの夜は会わなかったよね。私はノエル。この家の長子だよ。よろしくね」

笑顔の男性はそう名乗った。

「……私の友人に何をしたんですか」

こんな時まで綺麗なロリータのそでにくい。

「あなたたちは人間ですか?」

「その質問が飛び出すってことは薄々かんづいているのかな?」

ノエル、アダム、エイダは確かめるようにノアを見た。

「俺のを見た」

「ああ」

ノエルはずっと笑っている。他の表情を知らないみたいに。

「私たちは人間じゃないよ」

「全員?」

唯一ゆいいつ、母は人間だ。会っただろう」

「……人間じゃない人たちがお金持ちの振りして何が楽しいんですか?」

「それを聞くなら父に聞いてもらわないと」

「もしくはノアね」

どうしてノアだけ? ふっと隣を見てもノアは遠くをながめていて私を見てくれない。

「……人間と精霊の間に子供を作ると大体はいびつなものになる」

「精霊?」

「ソルピー家当主アーロンは我々の父であり、宇宙空間を跋扈ばっこする高位の精霊であり、俺と同格の存在だ」

「うちではノアだけがしたの」

この人たちは何を言っているの?

土の精霊ちち人間ははの間に本当の意味でできた子供はノアだけなんだ」

「私たちは生まれたあとに死んで、お父様にしてもらったの。ねえ?」

「そう」

「……何を言ってるんですか?」

「冷静だね。普通の人間ならまず狂うか自分の正気を疑うんだけど」

「私はあなたたちの正気を疑ってます」

「ああ、そっちかぁ」

「よくある行動だよね。責任を外に転嫁てんかする感じかな」

ノエルもアダムもエイダものんびりしたまま。

この空気の重さをわかっているのは唯一ゆいいつノアだけのようだ。

(四人いる兄弟の中で彼だけ別格なのは本当みたい)

「……そもそも帰す気はなかった」

 耳を疑った。他でもないノアがそう口にしたから。

「霧を通してこの屋敷に迷い込んだ人間は我々にもてあそばれるだから、無意識に君を気に入ってもその友人がどうなろうが知ったことではなかった」

「……人を人と思ってないんですね」

「君たち人類が豚を飼って食うのと変わりない」

「人間は家畜ですか」

「地球に限らずからすれば家畜やアリに等しい」

「私を好きになったくせに!」

思わず立ち上がるとノアは溜め息をついた。

「まさか自分が父と同じ行動を取るとは思わなかったよ。あれも母には一目惚れでね」

「あなたは……!」

怒りが込み上げる。

こんな身勝手なを好きになってしまったのか、とか。

私も同じようになぶり殺されていればよかった、とか。

頭の中がぐちゃぐちゃで。

そして、抵抗手段もなかった。無力だ。

くやしい)

私は友だちを奪われて終わりなのか。何もできないのか。

(何もできない……)

痛いほどこぶしを握りしめて耐えていると、ノアはふっと私の手を取って爪が食い込んだ手を開かせた。

「こんなに握り込んで、痛いだろうに」

どっちが本当のあなたなの? 残酷なの? 優しいの?


 驚くほど何もされないままノアの部屋へ連れて行かれ、ベッドにただ腰掛けた。ノアは普段の黒いTシャツに着替えて私の黒髪を指でもてあそんでいる。私は抵抗しない。どうしたらいいのだろうかと思考をめぐらせているけど答えは出ない。

「何を考えてるの?」

「この先どうしよう、って……」

「どうしたい?」

「わからない」

両親に相談する? 他の友達に? クラスメイトに? きっと正気を疑われる。

「私一人じゃ何もできない。あなたたちに抵抗することすら」

彼の唇が髪に触れる。甘い香りがする。ノアのタバコの匂い。

私の頭はもうひどくしびれたりしない。

慣れてしまったのか、彼を想わなくなったからなのか。

「どうしたらいいの」

いっそこの部屋に閉じ込められてしまえば楽だろうか?

外の世界を忘れて、ノアのお母さんのように何も考えられなくなる方が楽だろうか?

ああ、きっと彼女のようになるのが一番幸せだ。でも彼女と同じにはなれない。夢と現実の区別がつかなくなった母を見る、ノアの悲しい眼差しを知っているから。

(私はまだ彼が好きなんだ)

 隣を見上げれば薄氷はくひょうのような透き通った瞳と目が合う。

音にしなくても愛していると伝えてくる眼差し。

人形のように整った薄い唇。

どちらからともなく近付いて触れた唇は柔らかい。

口付けを許した私を見てノアは不思議そうにしている。

「まだ俺に気持ちがある?」

「そうみたい。自分でも驚く」

「……君を母のようにはしない」

「そうね。私もあの状態になったらあなたはまた悲しむのだろうし」

「……俺は悲しんでいた?」

さみしそうだった」

「ああ、君がそう言うならそうなんだろう」

いびつな人。人ではなくて人だから、彼は自分の人間の部分がわからないんだ。

(ああ、そう言うこと)

彼の胸に手を当てれば熱い鼓動が伝わってくる。

「あなたは人でありながら人じゃないから、ゆがんでいるのね」

「そう思う?」

「ええ。そしてあなたのゆがみがわかるのは私くらいなのでしょう」

「きっとそうだろうね」

「……決めた」

 どうしたらいいか分からないことに変わりはないけど気持ちは固まった。立ち上がった私をノアは切なそうに見上げる。

「私、あなたと恋人のままでいる」

「俺は君の友人を見殺しにしたのに?」

「そうね。決して許さない。でも恋人でいる。あなたの中に人間の心があると知っているのは私だけだから」

そっと触れた彼の頬は血が通っていた。人形じゃない。

「人のあなたを愛してる」




 友人にんぎょうたちは日常生活をさせるだけなら支障はない。受け答えはできるし、以前の彼らと趣味嗜好しゅみしこうもほとんど同じ。

ただ人間らしい心とか、熱意とか、魂というものがごっそり抜けてしまっただけ。

私はソルピー家へミアたちと遊びに行くと言う名目でメンテナンスへ向かう約束をし、日本を離れた。


 空港での出迎えに来てくれたミアたちの家族には申し訳ない思いでいっぱいだった。ふと視線を感じそちらを見ると、濃灰色のスーツを着たノアがいた。

小さく手を振れば彼も返してくる。挨拶あいさつはそれだけ。

アメリカを離れても私たちの距離は変わらない。

物理的な距離なんて土の精霊には関係ないから。


「リリー、愛してる」

 飛行機の中で響く彼の甘い声。

その声に“私も”と返せば、あちらで彼は微笑ほほえんだだろう。




──『私のN』・完

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【短編集】Tholpey家の肖像〜星に舞い降りし者達〜 ふろたん/月海 香 @Furotan

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