其処にある物 1.『小説』
私にとって、小説とは読むものであり、書くものである。
もっとも、源流を辿れば、やっぱり読むものだ。
幼い頃は、母や幼稚園の先生が読んでくれる紙芝居。小学生に上がると図書室にあった児童書。中学生くらいからは、生意気に母の本棚から拝借した文庫本を読んでいた。
それらは、いつでも私を知らない世界へ連れて行ってくれるツールだった。私は、(媒体はなんであれ)知らない世界へ飛び込むのが大好きだった。
子供のころの私にとって、小説(または文章による物語)はだれかが用意してくれた知らない世界への入り口だった。そして、それはこちらから飛び込んでいくものだった。自分で創造するものだとは思ってもいなかった。
だから、小説が書くものになったのは、読むものになった時期よりもずっと遅い。
──と思ったが、そうでもないかもしれない。
記憶をさらに正確に辿ってみると、中学生の時に思い当たる。今振り返ってみれば、とても小説とは呼べない
あれは確か選択国語の授業(週に一度、好きな教科を選択して受けるというカリキュラムがあった)の課題だったと思う。『一年間かけて自分の思うままに物語を書きなさい』という課題。
私は『謎の組織に巨大なダンジョンに閉じ込められて、そこから脱出する話』を書いた。魔物や魔法を駆使して、脱出するというだけであまり中身のない内容だった。今でいうと異世界ファンタジーに当たるのだと思う。
謎の組織がどんな組織なのか、なぜ閉じ込められたのか、どうすれば脱出できるのか、など何も考えずに書き始めたのを覚えている。当然のようにノープロットだ。当時、プロットなどというものは知らなかったし、担当の教師はプロットを含めて、物語の書き方を何も教えてはくれなかった。(今にして思えばあの授業、教師にとっては休憩時間みたいなものだったのかな)
ところで、中学生の私は、あまり真面目な生徒ではなかった。
学校自体がそこそこ荒れていた。サッカー少年だった私は、当然のようにサッカー部に所属していたのだが、サッカー部はガラの悪い連中の巣窟だった。私自身がとんでもない不良というわけではなかったが、周りには少なからず、いわゆるヤンキーと呼ばれる友人がいた。私は決して品行方正な優等生ではなかった。にもかかわらず、他の授業はまともに受けないくせに、この物語だけは一所懸命に書いた覚えがある。楽しかったのだ。
けれど、結局、一年かけても最後まで書き切ることは出来なかった。
誰にでも起こりうることなのだろうが、思春期を迎えた頃から、形のない何か、鬱屈した何かが、自分の中に積もり積もっていく。そんな心の内にあるものをなんとかして吐き出したかった。そういう衝動に駆られた。
自分の内にあるものを何らかの形で表現したかった。
そういった内なる感情の発露手段として、私は音楽を選んだ。
私は何かを書くことよりも、音楽で自分を表現することを選んだのだ。
それから時は流れて、社会人になった。
子供のころから、大人になるまで、そして大人になってからも一貫して小説を読むことは大好きだった。けれど、中学生のときのあの授業以来、書くことはしていなかった。強いて言えば、音楽に乗せる歌詞くらいのものだ。
それがどうして社会人になってから、やや遅ればせ気味に何かを書くことにしたのだろう。それは、書くことが一人でもできる表現方法だったからだ。
小説を書いてみようと思った時のことは、今でもハッキリと覚えている。
「社会人になった今、バンドはもう組めないかもしれない。音楽に限らず、趣味で誰かと何かを一緒に作って表現していくのは、大人には難しい。でも、自己満足でもいいから、やっぱり何かを表現していたい。小説はどうかな? 俺、昔から物語が好きだったから。絵が描けないから漫画は無理だけど、小説なら字が書ければ表現できる」
ザックリこんなことを友人に打ち明けた。
それまでの私は、だれかと同じものを使って、協力して一つのものを表現することが楽しくて仕方がなかった。その媒体である音楽が大好きだったし、今でも大好きだ。発信者としても受信者としても、音楽という媒体はなくてはならないものだ。(いずれは『私にとって』の音楽も書きたいと思う)
けれど、ある日突然悟ってしまった。音楽という表現方法は、若い時にしかできないものかもしれない。
決して断定はしないが、私の環境ではなかなかに難しく感じられた。
だれかの発信を受信するリスナーとしては、死ぬまで音楽に触れ続けるだろう。けれど、バンドを組んで、楽曲を作って、ライブをして……という活動はもうできないと思った。
それでも、私には内なる感情を発信したいという欲があり続けた。
友人には
最初から言葉のとおり小説にしなかったのは、怖かったからだ。文章を書くことに自信が持てなかったからだ。文章で思うように自己を表現できるか分からなかったからだ。
そんなとき、先の友人からこんなことを言われた。
「小説書いた? 読めるの待ってるんだけど」
友人は私の
それから一か月くらいかけて、小説と呼べるか怪しいものを一応は最後まで書き上げて友人に読んでもらった。
友人は開口一番「いいじゃん」と言ってくれた。「本物の小説家みたいだよ」とも言ってくれた。決して上手な文章ではなかったし、物語自体まとまりがあるとは思えなかったから、きっとお世辞が大いに含まれていたのだろう。
友人は続けた。
「お前って、こうであってほしいとか、こうあるべきだっていうのをしっかりと持ってるよな。それがこれを読んでるとすげぇ~分かる。こういうの《物語を書くの》向いてるんじゃない? 面白いかどうかは読む人によるんだろうけど、俺は面白かったよ。お前の深層心理みたいなのが見える気がしたし。次、何か書いたらまた読ませてくれよ」
先のお世辞とは違う、友人の生の声だと思った。褒めるだけではなく、小説の内容へのダメ出しもあった。「ここは矛盾してる」とか「この場面でこの人物がこう考える、こう行動するのは違和感がある」とか……。それは真剣に読んでくれたからこそ出るダメ出しだった。
真剣に読んでもらえたことが、嬉しかった。自分の内面をさらけ出す恥ずかしさよりも嬉しさが勝った。
そして、「次、何か書いたらまた読ませてくれよ」という言葉が、私の心に刺さった。書いていいんだと思うことができたのだ。
このとき、私は一人で自己を表現する楽しさと達成感を知った。このとき初めて小説が自己表現の方法となった。
結局、『私にとって』の小説は、知らない世界への入り口であり、そして最適な自己表現の方法だったのだ。
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──と、私にとっての『小説』はこのとおりです。共感いただけた、あるいは、いやいやこうだろ、自分にとってはこうだ等々ありましたら、ご意見をコメント等でいただけると、とっても嬉しいです。
しばらくは、小説周り(ジャンルとかテーマとか作品とか)の『私にとって』にフォーカスしていきたいと思っています。よろしければ引き続きお付き合いください。
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