第3話 私があなたのためにできること
「っ……」
安西くんの口の傷を消毒したら、彼はびくりと身を引いた。消毒液が染みたようだ。しかめた顔をする安西くんは、普段と全然違っていて、私は小さく微笑んだ。
「傷、すぐには治らないとおもうけど、大人しくしていれば大丈夫でしょう」
「痛いな……しゃべってるだけで辛いやつだ、でもありがとう……」
そう言って彼は小さく頭を下げた。私は頭を横に振る。
「いつもお世話になってるから……気にしないで」
彼は一瞬何か言いたげに私を見たが、逡巡すると、こくりと頷いた。私が治療箱を戸棚に戻してくると、彼は窓の方をを見ていた。雨が降っていた。窓を叩く雨音が、静かな部屋に届いている。
彼は悲しそうに、外に視線を送っていた。
彼は何故、顔を傷つけてしまったのだろう。一人で所在なく、ベンチに座っていたのだろう。私も相手も、いい大人だ。触れないことこそが優しさ、なのも分かっている。ラインを引くことで、守られることがあるのも、分かっている。けれど……。
「どうする? 雨が止むまで、家にいていいわよ」
安西くんは私の言葉にすっと息を飲んだ。目が泳ぐ。彼だって、分かっているのだ……ここに長居する理由はない。タクシーでも呼んで、すぐ帰ってもいい。けれど、私に声をかけられたことで、揺らいでいる。
「李紅(りく)さんに甘えてしまっては……業務外とはいえ、お客さんですし」
私は息を吐いた。そうね、と呟く。
「今は、そのことを忘れてくれる? ……あなたの顔を見て、放っておけないのよ」
「李紅さん……」
私は安西くんの肩をぽんぽんと叩いた。まったく、自分は何も悲しいことになってないのに、泣きそうになる。きっと、どんな事情であれ、自分が抱きしめた相手が、辛そうなのが、胸に詰まる。
「……私ね、守れなかったの」
「守れなかった?」
「旦那さんが、私のことを心配したまま、死んでしまったのよ。私を最後まで守っていて……ほんと、死にそうなのに、自分が一番辛いはずなのに」
頬に一筋、涙が流れる。
言うことでもないし、言うつもりがなかった。
だけど、安西くんに言ってしまった。もしかしたら、言いたかったのかもしれない。
「なんだろ……安西くんが、辛そうというか、一人で耐えてるように見えて……それがあの人みたいでね」
私は心がうっとくるのをこらえ、口角をあげた。
「おせっかい、しちゃった。結構安西くんが、私、大事だったみたい」
私の安らぎを、仕事とはいえサポートし続けた彼に、私はとても敬意と、誠実さを持っていた。
そんな私に対し、安西くんは私の告白に、動揺していた。まるで、私の思いが自分には分不相応といわんばかりだった。彼は自分の口元をおさえ、目を泳がせる。彼の根底にあるものが少し、透けて見えた。彼は思ったよりも、寄る辺のない心持ちで、生きてきたのかもしれない。形式ではない優しさに、慣れてない。
李紅さん、と安西くんは、念入りに確認するように言った。
「本当に、いいんですか、僕なんかにおせっかいとか」
私は頷きながら、彼の腕を引いた。
「あなただから、おせっかいしてるのよ」
安西くんの顔がくしゃりと歪み、泣きそうになった。
……その日、私は、初めて誰かの悲しみを受け止めるために、ベッドで横になった。
安西くんの同僚のメンタルが追い詰められて、遠くで療養することになったそうだ。けれど同僚は限界になっても仕事をやめようとしなかった。
「この仕事だと、あるあるなんだ、誰かに必要とされてるって感じやすいからさ」
添い寝の仕事は、人に必要とされつつも、人の闇や不安にダイレクトで直面する。心のバランスを崩すものも多くいる。彼もバランスを崩し、仕事に依存していた。
「同期で、仲良かったから……ちゃんと治療してほしかった、そうしたらまた仕事できるって」
だけど、そうはうまく行かず……ふとしたことで、パニックを起こして暴れた同僚に殴られたのだ。もうそうなってしまっては、同僚は完全に職場にいられない。安西くんと同僚は引き離されたのだ。
彼はぎゅっと私を抱きしめた。思いの外力が強く、息が一瞬詰まる。彼も、彼の同僚も、仕事の度に、この痛みを、悲しみを、受け止めてきたのだろう。そう思うと、切なくなった。
私は彼の背中を優しく撫でた。
……これが、果たして本当に、助けになっているのかわからない。そもそも正しいことなのかすらも分からない。だけど、無力感に悩むより、少しは気分が定まっていた。
あなた、少しは私も、しっかり出来たかな。
誰かを助けられたかな。
そう私が心のなかで呟くと。
頭を優しく、撫でられたような感触がした。
休日の雨の日、無力に溺れる私は、添い寝屋を呼ぶ つづり @hujiiroame
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