第72話 途切れた記憶の欠片。−2
カナン…、カナン…。
泣いている茜に何も言えず、頭の中にはその名前だけが響いていた。そしてその名前とともにとんでもない恐怖を襲ってくる…。俺の感覚が覚えていることだった。あの名前にはずっと恐怖しか感じていない…、そうだよな…。
茜は俺を離さず、ずっと抱きしめたまま啜り泣いていた。
「茜…」
「お兄ちゃん…、好きだよ。幼い頃からずっと好きだったよ…。カナンちゃんに取られたくない…。だって…お兄ちゃんと初めて会ったのは私だから…どこにも行かないで…」
「うん…。行かないから…、ここにいるよ」
「本当…?」
「うん…」
茜の体を抱きしめて、我慢していた涙を流す。
とてもつらかった時を思い出してしまった俺は、今の感情をどうすればいいのかよく分からなかった。カナンって言ったよな…。その名前を聞いてから、すぐあの人の顔を思い出した。多分間違いなく…、その顔はあの子…カナンだったんだ…。今更、こんなことを考えても無駄だと分かってるけど、やはり思い出せなかった方がよかったかもしれない。ずっと俺を縛り付けたあの子を思い出して、止まらない涙が茜の背中に落ちていた。
「柊くん…」
「ごめんね…」
俺は…、そう…。茜と付き合ってはいけない人だった。
———私のこと、思い出したよね…?嬉しい、お兄ちゃん…。
あの記憶を消すために、美香さんとあんなことまでしてきたんだ…。
今すぐ死にそうだった俺を…、美香さんが止めてくれたんだ…。その名前に俺は極一部の記憶を思い出してしまった。それでも今の俺にはその記憶を受け入れる勇気はない、この後はあの人に聞けば教えてくれるんだろう…。茜の顔を見るのがつらくて、彼女を抱きしめたまま…じっとして俺にできるのは何もなかった。
「ごめん…、俺…今日は家に帰るから…」
「な、何で…?ここで寝てもいいよ…。柊くん…」
「いや…。今日は茜と一緒に寝たら、俺の精神が持たないから…ごめんね」
「一緒に寝よう…。何もしないから…、行くって言わないで…」
写真の中にいる君はやはりカナンだったんだ…。
じゃあ…、君はあそこにいるんだろう…。
「柊くん…」
急いで家に帰ってきた俺は今すぐにでも壊れそうな状態だった。
息ができないほど、床に涙を落として…俺は声も出せず押し寄せられるあの時の記憶に苦しめられていた。知っている…、もういい。知ってるんだから…、俺は茜と会ってはいけない人、汚い人…。あの日、茜を見捨てたのは俺の判断だったんだ…。
俺はどうして…、こんな大事なことを忘れていたんだ…?
「……」
加藤…、お前はどうして俺に美香さんを…自分のお姉さんを紹介してくれたんだ。
僅かに覚えている記憶の中には、俺と加藤そして美香さんのことも混ぜている。寝てるかもしれないけど、まずは加藤に電話をかけた。どうして俺はこうなったんだろう…。
「はい。どうした柊?」
「寝てないのか…?1時だぞ」
「まぁ…、ちょっと色々あって。なんだ?こんな時間に」
「お前さ、どうして俺に美香さんを紹介してくれたんだ…?」
「……」
「二人は家族だろ…。そして美香さんには婚約者もいたんだ…。どうして…」
「思い出したのか…?」
「……少しなら」
「俺はあの時、二人を失いたくなかったから…。それは仕方がなかった」
「何の話だ…?」
「初めてお前を見た時、この世に何の未練もない人に見えたから…俺のお姉さんと同じ顔をしていた」
入学してからか…、あるいはその前から俺のことを知っていたのか…。
加藤は自分がやったことを正しいとは言わなかった。ただ、そのままほっておいたら自分もその道に足を踏み入れるもしれないと怯えていた。つらい時、憂鬱な時、どんな時にも幸せになれるよって…言ってくれた美香さんの言葉を思い出す。
「ねえ…、シュシュ…知ってる?」
「何をですか?」
「つらい時とか、憂鬱になる時は…こうやってセックスをするんだよ…?嫌なことを忘れるほど、たくさんしたらいつかその記憶が消えるからね…。だから今日から私を抱いてくれる…?」
俺は知っていた。美香さんにはすでに婚約者がいたことを、それでも…彼女とのセックスをやめられなかった。好きと言う感情より、美香さんが俺を救ってくれたことに安心していたかもしれない。
あの冬、茜と出会う前まで俺たちはずっとそんなことをやっていた。
「そうか…。俺さ…、どうしたらいいんだ」
「どうだろう…。柊のことは俺も分からない。俺もお前がそれを思い出せない方がいいと思ってた。たまに見えるその顔が不安になったけど、やっぱりこうなるのか…」
「俺たちはどうしてこんな人生を生きてるんだ…?」
「分かんないな〜。でもさ、俺はお前のことそんなに悪いやつだとは思わないから…。むしろありがとう…。おかげで…お姉さんが戻ってきたから…」
「いや…。こっちこそ、ありがとう。やはり逃げるだけじゃ何も変わらないってことを…、美香さんが教えてくれたかもしれない」
「そうか…」
「俺…ちょっと行ってくるよ」
「どこ?」
「会わなきゃいけない人がいる…」
「そっか…吉田には俺がちゃんと言っておくから…」
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