第60話 雨が降る。−2

 部屋の中に倒れていた俺は、悪夢でも見ているように体を動けなかった。俺を「お兄ちゃん」と呼ぶあの女の子がどんどん近づいてくるのに、なぜか顔も見えない暗い影が俺を襲うような気がした。俺の中にいる「何か」を、僅かに覚えている記憶の欠片を再現したものなのか…。


「カッコいい、お兄ちゃん…」

「……」


 眩暈がして吐き出しそうだった…。


「……くん…、柊…くん!」


 くっそ、もういい…!

 消えろ…。消えろ…!


「柊くん…」

「あっ…」


 片手で俺の顔を触っていた影は微かに聞こえる人声に姿を消し、気がついたら玄関で倒れていた俺を呼ぶ茜の姿が見えてきた。そっか…、前にカギを渡してあげたんだよな。それもそうだけど、体が重い…、どれくらい倒れていたんだろう…。ほぼ気絶じゃないのか…、そのままぼーっとしていたら俺のおでこに手を当てる茜が大きい声で話した。


「起きて!」

「うん…。ごめん…、ちょっと」

「びしょ濡れになったまま何してんの…早く、服着替えないと風邪ひくよ!」

「うん…」


 結局、あの子の顔は思い出せなかった。すぐ前にいたのに、見えないってことはやはり俺があの子のことを思い出せなかったからか…、どうすれば思い出せるんだ。写真があっても、あの褪せた写真からあの子を思い出せるのか…。もっと手掛かりが欲しい…、もうちょっとで分かりそうだから何が足りないのか思い出せなきゃ…。


「もう…!早く着替えて!」

「あっ…、うん」


 部屋の中で服を着替える時、扉の向こうから茜の声が聞こえた。


「ねえ、柊くん」

「うん?」

「どうして、あの写真が欲しいの?あの写真はもう褪せて顔すら見えないのに…」

「それでも、俺は思い出したい…。俺が何を忘れていたのかを…」

「柊くんって思い出したい人がいる…?それってもしかして写真の中にいる人なの…?」

「かもしれない…」


 どうやら先のことで体が冷えてしまったかもしれない。

 静かな居間。お茶を淹れるためにお湯を沸かすと、ソファに座ったままじっとしている茜に気づいてしまう。先から何も言わずにじっとしてる、どうしたのかな…?そう言えば、茜は昔の俺を知ってるように話してたから…ちょっと聞いてみようか…。


「茜…?」

「……」

「茜…?」

「……話かけないで…!」

「え?どうした…?怒ってる?」


 なんで怒ってる…?え…?


「どうした…?こっち見て?」

「知らない…、私がいるのに…他の女を思い出したいって…。やはり私のことはもう好きじゃないよね…?」

「えっ?誤解だよ。そんなわけないじゃん…」


 え…、そう考えていたのか。俺はただ思い出したいだけ、俺を苦しんでいるこの記憶を…もう心が苦しくなる日々を過ごしたくなかったから、茜と幸せな時間を過ごしたいから…。そんな簡単なことさえ、俺は上手く伝えなかったのか…。


 心配させちゃってごめんね…。


「ごめん…。こっち見て…、俺は茜のこと好きだから…」

「じゃあ…、証明して…どれくらい私のことが好きなの…?」

「どれくらいって…、こうやって茜に甘えたいほど…?」

「うっ…!」


 茜を抱きしめると、暖かくて気持ちいい…。


「気持ちいい…、たまにはこんなこともいいな…。ふわふわする」

「私、太った…?」

「ううん…。そんな意味じゃないよ。一緒にいると幸せになるってこと…」

「私も柊くんと一緒にいるのが好き、だから毎日くっついてそばから離れたくない…」

「だよね。茜は甘えん坊だから…」

「違う!」


 大雨のせいで居間が薄暗くなっている…。

 茜の体が冷えるかもしれないから一応ココアを出したけど、これはちょっとまずい…。茜は俺が他の女の子を思い出そうとしているのを嫌がってるから…。まぁ、それも分からないとは言わないけど、さすがにこのままじゃあの写真を見せてもらうのはダメだよな…?


「……はい、これ」


 そばにくっついていた茜があの写真を見せてくれた。


「いい?」

「うん…」

「ありがとう…」


 飲んでいた茶飲みを下ろして、その写真に写っているもう一人の女の子を見つめる。やっぱり見えないのか…、写真の真ん中には俺がいてその左側には茜がいる…そして右側の女の子は…誰?この子をどうすれば思い出せるんだ…?俺が知りたいのはこの子の名前と…、先の記憶の続き。そう言えば、この子はどうして俺と手を繋いでる…?3人が並んでるのに、なぜ3人じゃなくて俺とあの子二人だけなんだ…?


「どう?何か思い出したの?」

「いや…、やっぱりダメだった」

「フン…、そんなことはもういい!柊くんには…私がいるからね?」

「……うん」

「そして、写真見せてあげたから…私の願い叶えてくれる?」

「願い?あ、写真のことか…。うん、当然だ!言ってみて!」


 茜は飲んでいた茶飲みを下ろしてこっちを見つめる。

 目を合わせた時の茜は何かを決めたように見えていた。そしてどんどん近づいてくる彼女は俺をソファに倒してから顔を近寄せる。ちょっとでも動いたらすぐ唇が触れそうなやばい距離で茜は何をするつもりだ…?


「……」


 あの時、唇が触れた。

 今、茜にキスをされて…いるのか…?


「あかっ…」


 話すことも許されないのか…。てか、茜のキスがすごくエロい…。

 静まり返る居間、そこには大雨が窓を叩く音しか聞こえなかった。ソファで絡み合う俺たち、止まらない欲はお互いの体を触りながら気持ちいい肌の温もりとその感触を感じている。そして長いキスの後、口を離れた茜が思いもしなかったことを口に出してしまった。


「ねえ…。今日は私のこと食べてくれる…?」

「……」


 そう言いながら…、茜は俺の唇についている唾液を舐めてくれた…。

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