屋上、空の君に恋をした

志夜 美咲

屋上、空の君に恋をした


 みんなが真面目に授業を受けているはずの時間。私はトントン、と軽い音を立てながら階段をのぼっていた。

 ──立入禁止──

 そんな文字がぶら下がっているのを無視して冷たい銀色のドアノブを捻れば、キィ……と古びた音が小さく響いて、目の前に青い空が広がった。

 特別教室のためだけにある旧校舎。立入禁止の屋上に私が行く理由。それは──


「あっ! おーい」


 私の声にさらさらと黒い髪をなびかせていた男子生徒が静かに振り返る。まるで世界がスローモーションになったようなんてありきたりだけど、本当にそんな感じだった。

 そっと向けられた柔らかい眼差しに、私の心臓は大きな音を立てた。


「今日も来ちゃった」

「単位落としちゃうよ?」

「大丈夫、大丈夫。ちゃんと計算してるから」

「そっか」


 ──いつもここにいるこの男の子に恋をしてしまったからである。




 出会ったのは二ヶ月前。

 なんとなくの興味本位だった。私の学校はどの校舎も屋上に上がることを禁止されている。それでもドラマでよく見るような、あんな青春っぽいことをしてみたかった。

 旧校舎ならバレないんじゃないか。もし鍵が閉まってれば諦めよう。そう魔がさして、確実に通行人が少ない授業中にこそこそと階段をのぼった。

 階段の途中、手すりと壁とで吊らされている立入禁止の札を体が触れないように慎重にくぐり抜け、そっとドアノブを回してみれば……開いた。それはもう簡単に開いてしまったのだ。

 そして開けた先に、彼がいた。

 綺麗だった。

 澄んだ空の下で、黒い髪を靡かせながらただ立っているその横顔が、この世のものとは思えないほどに綺麗だった。

 さらには向けられた瞳があまりにも静かで、淀みなくて、やっぱり綺麗だった。

 私は一瞬にして彼に心を奪われた。

 それからは何度もここに足を運び、最初はドアのそばに座って眺めるだけだった。それでも彼はなにも言わず、空を眺めているだけだった。

 三度目にしてやっと、私は彼の隣に立ってみた。彼は最初のときみたいに一度だけ、私を見てくれた。それでもやっぱりなにも言わず、空を眺めていた。

 それからまた三度目。私は彼の隣に立って、いつものように一度だけ視線を向けられたとき、ついに話しかけてみた。


「ねえ、ここでなにしてるの?」


 いつもここでただひとり、空を見ている彼。上履きの色からして私のひとつ上、三年生だろうけど、三年教室を覗いてみても、訊ねてみても、そんな人は知らないと彼の名前すらわからなかった。

 保健室登校。その線も考えて保健室の先生にも訊いてみた。けど、わからなかった。

 ──あなたは誰なの?

 そんな意味も込めた質問だった。

 いつもならすぐに空へと向かう瞳に、今日はずっと私が映されていた。その瞳のなかの私をじっと見つめても、そらされることなくそこに私がいる。それがどうしようもなく嬉しくて、顔に熱がこもった。


「空、見てる」


 彼がぽつりと言った。初めて聞いた彼の声は、まるでウグイスの鳴き声みたいに澄んでいた。

 このときに私は気づいた。

 もう彼から抜け出せない、と。

 それから私の学園生活はここに来るためにあると言っても過言ではなくなった。




 今日も私は彼の隣に立っている。


「明日は雨だって。濡れないようになかに入んなきゃ駄目だよ」

「俺は、大丈夫だよ」


 二ヶ月も経てば普通に話せるようになったし、話してくれるようになった。基本は空ばかりを見ている彼だけど、話しかければその瞳に私を映してくれる。

 そのたびに胸が踊って仕方ない。

 そのたびに、どこかで響く警告音は無視した。


「君こそ、明日は来ないほうがいいよ」

「毎度そう言うよね」

「うん。毎度言うよ」


 雨の日は来ないほうがいい。彼は毎度そう言う。だから私は雨の日はここに来ない。しつこいやつって思われたくない。そんな気持ちに隠している、小さな自衛。

 私たちが触れ合うことはない。隣に並んでても肩が触れることもない。

 彼がここにいる理由はもう聞かない。彼が誰かなんてもう聞かない。

 ただ、隣にいることは許してほしい。

 ほんの少しだけ交わした会話が途切れると、ただぼんやりと彼越しに空を見上げるだけの時間が続く。

 やっぱり、彼は綺麗だ。

 耳の片隅でチャイムが響く。徐々にはっきりと聞こえるようになって、もう一限分の時間が過ぎてしまったとわかった。

 次の授業は前回サボった授業である。さすがに今日は出ないとまずいだろう。私はため息とともに肩を落とした。


「私、もう行かなきゃ。また来るね」

「うん……バイバイ」


 来るときとは打って変わって足が重い。足に蔦が絡まってるんじゃないかと思うほど、なかなか動いてくれない。毎度ここを離れるときは無理やり動かさないと戻れない。きっと、彼と離れがたい気持ちが私をそうさせる。

 私は彼に背を向けて、振り返らないように屋上をあとにした。ドアを閉めてからやっと振り返る。

 彼は、どんな顔をして私を見送ってくれてるんだろう。思わず、ドアノブに伸びた手を引っ込めて、私は教室に走って戻った。




「今日もまたサボり? 意外と不良だよね。どこに行ってるの?」


 教室に戻ると前の席の女子生徒が話しかけてきた。名前はなんと言っただろうか……さ、がついたような……ついていなかったような……覚えていない。

 私は別に、と笑顔で返しておいた。すると彼女は興味なさそうに「ふうん」と前を向いた。


「変な子」


 小さく、つぶやく声が聞こえた。

 私はキュッと手を握りしめた。彼女の背中から目をそらすようにあの屋上のほうに目を向けると、窓の外が薄暗くなっていた。


「……雨、明日って言ってたのに」


 ぽつり、ぽつり、と落ちていく小さな雫が見える。それはだんだんと数を増やしていって、瞬く間に大きな音とともに世界を覆ってしまった。

 雨が降っている。

 彼はまだ屋上にいるんだろうか。

 ──雨の日は来ないほうがいい。

 彼の声が雷鳴のように響いた。

 雨が降ったときは会わないほうがいい。会ってはいけない。あの屋上に行ってはいけない。

 雷鳴が続く。

 警告音が鳴り響く。

 私は机に突っ伏した。それでも、頭にガンガンと響いてくるそれらは消えることなく私の周りを埋め尽くしてく。クラスメイトの声なんて、もう聞こえない。

 私は椅子を弾いて立ち上がった。前の彼女が肩を跳ねさせてこちらに振り返ってきた。他のクラスメイトの視線も一心に感じる。

 そんなこと、どうでもいい。

 私は教室を飛び出て走った。

 次の授業の先生と廊下ですれ違った。なんか叫ばれた気がしたけど、私は走った。

 一般校舎から、渡り廊下を通って、旧校舎へ向かう。ダッダッダッ、と必死な足音を立てて、例の階段をのぼる。

 ──立入禁止──

 そんなの邪魔。私はそれを引っ張って階段に投げ捨てた。ひと際、警告音が大きく聞こえた。

 それでも私はドアノブを捻った。

 キィ……という音が鳴るよりも先に、壊れそうなくらいの勢いでドアをひらいた。

 雨の音が大きくなる。

 雨が屋上の床を叩きつけている。

 そのなかに、彼はいた。


「……なんで、来ちゃうかな」


 やっぱり、さらさらと黒い髪をなびかせて、彼が静かに振り返った。柔らかい眼差しが濡れそうで、まったく濡れていない。

 彼はまったく濡れていない。

 雨が彼を避けているわけじゃない。彼の存在に気づかず通り過ぎているだけ。

 もとより、彼は存在しない。

 もう、この世に存在していないのだ。

 私は雨に濡れるなんて気にせず彼に駆け寄った。

 冷たい雨が私を打つ。髪に染み込んできてたちまち頭皮が濡れていく。髪の先からぽつり、ぽつり、と雫が落ちていく。制服が重い。上靴が濡れて、足が気持ち悪くなるのもすぐだった。

 そんな私を見て、彼が笑った。どうしようもないと絶望に満ちた瞳で。

 私は彼に手を伸ばした。

 私の濡れた手が、乾いた彼の手に触れることはできなかった。すっ、と宙をかいただけの手をむなしく握りしめることしかできなかった。


「薄々、気づいてたんでしょ?」


 彼の言葉に、私はうなずいた。


「……もう、来ないほうがいい」


 雨が顔を濡らす。頬に伝うのが雨なのか、それとも別物なのか。それすらもわからないまま、私は彼に促されるがままに屋上から逃げるように走り出た。

 教室に行けるわけもなく、上靴のまま家まで走った。




 お母さんに驚かれて、心配されて。学校から連絡があったのか、怒られて。また、心配された。

 なのに、なにを言われたのか、なにも覚えていない。脳内を埋め尽くすのは、雨の音と、そのなかで佇む彼。そして、彼の言葉。

 ベッドに沈み込んでも、雨に打たれてるみたいに大きな雨音が響く。

 とっくにわかっていたことだ。

 もう彼から抜け出せない、と。

 私は体を起こして窓の外を見た。

 雨の音が聞こえなくなった。




 朝が来ても雨はやんでいなかった。昨日から降り続ける雨が世界を暗く覆っている。

 私は登校しても教室に行くことなく旧校舎の階段をのぼっている。

 ──立入禁止──

 その文字は無惨に、階段の途中に落ちたままだった。私はそれをまたいで屋上へと続くドアノブに手をかけた。

 きっと、彼はいるはずだ。

 キィ……と切なそうな音が響いて、目の前に黒い空が広がった。

 今日も変わらない。さらさらと黒い髪をなびかせて、彼が静かに振り返る。いつ見ても、この瞬間は世界がスローモーションになる。

 そっと向けられた柔らかい眼差しに、今日も私の心臓は大きな音を立てた。


「ごめんね、来ちゃった」

「そっか」


 彼はそれだけ言って、空を見上げた。私も彼の隣に並んで、同じように空を見上げた。

 降ってくる雨が目に入ってちょっと染みた。それでも、そんなことはもうどうでもよかった。

 私はこの彼に恋をしてしまった。

 後悔なんてしていない。

 もう会えないなんて、無理だった。

 私は彼を見た。


「私、君が好きだよ」


 彼も私を見た。

 小さな私が揺れる彼の瞳があまりにも静かで、淀みなくて、やっぱり綺麗だった。

 彼はまた空に視線を戻した。

 私は彼にそっと手を伸ばした。




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