第1話 聖地エスティム(1)

 使徒レオニダスの反逆による失楽園の神話から、数千年が過ぎた時代。

 そして英雄アレクシオス大帝の即位から一二〇四年後の、西の大陸ではアレクシオス帝暦一二〇四年と数えられる年。

 この年の春、リオルディア王国の王家では一つの大きな決断が下された。それは決して世に知られることのない――いや、知られてはならない神をも畏れぬ密謀と呼ぶべき選択であった。


「レオナルドを……都へ上らせよ」


 国王が突如として下したその命令に、腹心の貴族たちは驚きを隠せなかった。それまで存在自体がずっと極秘とされてきた隠し子を、都の王宮に召喚すると王は言うのである。


「秘密を明らかになさる、ということにございますか」


 今は辺境の伯爵家に預けている、間もなく八歳になる国王の私生児。その秘密をとうとう王妃らに打ち明ける時が来たというのか。そう不安げに訊ねてくる家臣らに、王は首を横に振りながら否、と答える。


「そうではない。秘密を更なる深みに秘すということじゃ。これについては王妃にも既に話してある。我が王家の……そしてこの世界の存続のため、むなきことじゃ」


 重苦しい声でそう言うと、王は右手をゆっくりと目の前にかざし、五本の指をゆっくりと折り畳んで何かを握り潰そうとするかのように拳に力を込めた。




――面白い人に、仕えることになった。


 この国の貴族の一人である父から世話役を任された、自分と同じく今年で八歳になる内気で物静かな男の子。初めて顔を合わせてからもう二年になるその彼について、メリッサ・ディ・リーヴィオという少女は今更ながらにそう思う。


「おはようございます。レオ様」


 家臣が運転する馬車に乗り、父親が城主を務める州都モントレーアの城を出てメリッサが向かった先は領内の岬の上にある広い牧場。そこで飼われている小さな子羊たちに餌の干し草をやっていた、青い長袖のチュニックを着た栗色の髪の少年に、馬車を下りたメリッサはいつも通りの明るく元気な声で挨拶した。


「おはよう。メリー」


 腕白盛りな年頃の男児にしては珍しい、落ち着いた気品と温かみのある声で、レオと呼ばれた少年はにこりと微笑み、メリーという愛称で慣れ親しんでいる彼女に応える。


――訳ありの人物。


 何があっても絶対に他言してはならぬと、父親に厳しく口止めされた上でメリッサが聞かされた、彼女がレオ様と呼んでいるこの少年の隠された素性。岬の上に牧場を構える豪農オルフィーノ家の屋敷で育てられている、紫色の美しい瞳を持つこのレオナルド・オルフィーノという男の子は、実はこのリオルディア王国を治める国王ジャンマリオ三世の落胤なのだという。


 名君の誉れ高いジャンマリオ王にも、人ならばやはり粗相の一つや二つはある。王はある時、王妃以外の女性に手をつけて子を孕ませてしまった。正妻である王妃のことを憚り、王はそれを秘密にした上で、生まれた赤子を信頼を置く忠臣のディ・リーヴィオ伯爵家に預けて密かに育てさせることにしたのだ。メリッサの父であるマッシモ・ディ・リーヴィオ伯爵は王から預かったその子を城下の村の富農の屋敷に住まわせ、その子が六歳になると、利発で聡明な同い年の自分の娘を友達及び近習として宛がって身の周りの世話をさせることにした。

 そのような経緯で、メリッサがこの牧場に毎日のように通い、レオナルドに仕えながら一緒の時間を過ごすようになってそろそろ二年になる。


「レオ様も、来月でもう八歳ですね」


 赤いリボンで結んだ、レオナルドと同じ栗色の長い髪を潮風になびかせながら、岬の向こうに広がる海を見つめてメリッサは言った。


「八つになられたら晴れて王家に迎えるゆえ都へ登るようにと、国王陛下は仰せとのことです」


「そうだね……。父上や兄上たちには、もちろん早く会いたいけど」


 チュニックの袖をまくって、レオナルドは自分の右の手首を陽光にかざした。光に当てると美しく浮かび上がる、金色の獅子の紋章。生まれてすぐに宮廷魔術師の魔法によって刻まれたこの不思議な焼印が、レオナルドが王家の血を引いていることの証であるという。


「でもやっぱり、それでメリーとお別れになっちゃうのは寂しいな……」


 服の袖を戻して焼印を隠したレオナルドはうつむきながらそう言うと、下ろした腕を波打つように小さく振った。感情が昂ぶった時などに右の手が無意識の内に動いてしまうのは、彼の生まれつきの癖である。それを見たメリッサは、敬愛するまだ小さな主君の心中を慮って悲しくなった。


 私生児であるレオナルドの存在を当初は隠し、王宮から遠ざけて辺境の伯爵家に預けることにしたジャンマリオだったが、どうやら王室の内部でも無事に話がついたらしく、成長して八歳になった時をもってレオナルドを王子として正式に認知し、王家の一員に加えると約束するようになった。一月後にはレオナルドは八歳の誕生日を迎え、念願の家族との対面ができる条件を満たすようになる。そうなれば当然このモントレーアの地を去ることになり、メリッサとは別れなければならない。


「あっ……」


 レオナルドと同じような癖はメリッサにもある。地面の土を踏み締めていた自分の右足が勝手に動き、何かを蹴るような動作をしてしまったのに気づいて、メリッサは慌てて足を引っ込めて恥ずかしそうに姿勢を正した。行儀が悪いから直すようにと父親から厳しく躾られている仕草なのだが、生まれ持った癖というのは努力してもなかなか抑え込めるものではなく、未だに事あるごとにそうしてしまうのは変わっていない。


「あの、それでなんですけど、お別れしてからもレオ様がずっとお元気でいられるようにって、私、レオ様のためにお守りを作ってみたんです」


 気を取り直したように顔を上げ、一際明るい声でメリッサは言った。


「お守り?」


 メリッサはうなずくと、着ていた山吹色のチュニックの懐から、金色の小さな宝石がついた縄紐の首飾りを取り出してレオナルドに見せる。


「何だろう。これ、琥珀?」


 太陽の光を反射して放たれる不思議な輝きに目を奪われたように、レオナルドはその小さな宝石をじっと見つめた。確かに、光沢を帯びたその丸い金色の石は琥珀によく似ていたが、そうではなくもっと特別なものだとメリッサは説明した。


「いえ、これは琥珀じゃなくて、東のラハブジェリア大陸の、聖地エスティムの近くで採れる珍しい宝石です。魔けとか、自分の隠れた才能を引き出してくれる不思議なご利益りやくがあるって、聖地の人たちの間では昔から信じられているそうなんですよ」


 領主である父親に頼み込んで特別に下賜された、貴重な外国産の宝石。メリッサはそれを器用に縄で結び上げ、レオナルドのために手製の首飾りを作ったのである。


「ありがとう。メリー」


 心の籠もった贈り物の首飾りを優しく自分の首に掛けてもらうと、レオナルドは嬉しそうに目を細めてはにかみ、メリッサに感謝した。


「あの……ところでさ、メリー」


「はい。何ですか? レオ様」


 彫りの深い温厚そうな顔を赤らめながら、急に目を逸らしてレオナルドはおずおずと話を切り出した。


「その、今すぐってわけじゃないんだけど、将来、僕が大きくなったら、父上にお願いしてメリーを都に迎えるようにしたいんだ。メリーには、ずっと僕と一緒にいてほしいから」


 辺境貴族のマッシモにとっては、私生児とはいえ国王の息子であるレオナルドに自分の娘を近づけたのは、愛する我が子の将来の栄達を考えての人脈作りという親心もあったのだろう。メリッサとしては当然、そうした己の出世を考えて媚びるような下心などは一切なく純粋にレオナルドのために尽くしてきたつもりだが、レオナルドが王家に名を連ねるようになってからも都で自分を傍近くに置いてくれると言うならば、これほどありがたく栄誉なことはなかった。


「光栄です。私、それまで一生懸命頑張って、都でレオ様にお仕えするのに相応しい立派な騎士になりますね。そしてレオ様のお呼びがかかるのをお待ちしています」


 将来、成人した王子のレオナルドに配下の騎士として仕えてほしいという意味に受け取ったメリッサは、サファイアのような碧色の瞳を輝かせて嬉しそうにそう答えたが、レオナルドはやや困った顔をして、そうじゃなくて、と釈明するように言い直した。


「いや、家臣として仕えてとか、そういう意味じゃなくて、その……メリーには、将来、僕と結婚してほしいんだ」


「えっ……!?」


 思いもかけない突然の告白に、メリッサは驚いてしばしその場で硬直した。レオナルドは緊張と恥ずかしさで汗ばむ顔を紅潮させながら、不安げに彼女の顔を覗き込む。


「だめ、かな……?」


「い、いいえ! とても……とっても嬉しいです!」


 今にも泣き出しそうなくらいに感激して、メリッサはレオナルドの手を強く握った。淡く純真な恋心として、王家の血を引くこの内気で心優しい少年と結ばれるという未来を彼女も夢見たことがなかったわけではない。だが所詮、自分は辺境の一貴族の娘。王族との身分違いの恋など実るわけがないし、家臣としてはそうしたことを考えながら仕えているのは良くないと、すぐに蓋をして胸の奥に封印してしまった想いだったのだ。


「ありがとう。メリー。僕たち大きくなったら、必ず結婚しようね」


「はい。私、レオ様が皆に自慢できるくらい、素敵なお姫様になってみせますね!」


 心の底から幸せそうに、二人は笑い合った。初夏の太陽は二人の将来を祝福するかのように、暖かな光を岬の上に降り注がせている。


 そんな太陽が雲に隠れ、急に寒気を誘われるような冷たい風が海の方から吹いてきたのは、レオナルドが更に何かを言おうと口を開きかけたその時のことであった。


「……何だろう?」


 不吉で恐ろしげな何者かの気配を感じて、レオナルドとメリッサは不安げにきょろきょろと周囲を見回した。こちらをじっと見ている誰かの視線を感じる。それは氷のように冷たく、刃のように鋭い殺気を帯びた目であった。獰猛な虎に狙いを定められた小鹿のように、本能的な恐怖を感じた二人は蒼ざめながら身を寄せ合う。


「レオ様、私から離れないで下さいね。私がレオ様をお守りします」


「うん……」


 牧場で飼われている羊たちが一斉に逃げ出し、屋敷の庭で鎖に繋がれていた牧羊犬も異変を感じて激しく吠える。小さな体を懸命に張って、メリッサは主君であるレオナルドを守ろうとした。だが幼い彼女が振り絞った精一杯の勇気は、茂みの後ろから現れたその視線の主の異様な姿を目にした瞬間、まるで硝子ガラス細工のように粉々に砕け散ってしまうことになる。


「きゃぁっ!」


「か、怪物……!」


 メリッサは思わず悲鳴を上げ、レオナルドも驚きと恐れから言葉を失った。狼のような二つの頭を持つ、オルトロスを擬人化したような灰色の二足歩行の怪物。思わず目を疑うようなその奇怪な魔物が、赤い四つの両眼で二人を睨みつけたのである。


「見つけたぞ。破滅をもたらす魔王の仔よ」


 オルトロスのような怪人は鋭い牙の生えた二つの口を大きく開け、喉の奥から真っ赤な火炎を勢いよく噴き出した。凄まじい高熱の奔流は抱き合うように身を寄せていたレオナルドとメリッサを包み込み、周囲一帯を焼き尽くす。


「うわぁっ!」


「きゃぁっ!」


 それは凄まじいまでの熱波の嵐であった。炎上した地面が溶解して砕け、牧場のあった小さな岬はたちまち跡形もなく吹き飛んで崩落した。灼熱の炎に身を焼かれながら、手を繋いで抱き合っていた二人は共に重力に引かれて奈落の底へと落ちてゆく。


「メリーっ!」


「レオ……様……!」


 握り締めていたレオナルドの手が、滑り落ちるようにしてメリッサの手から離れてしまう。次の瞬間、燃えたぎる大量の土砂と共に海に叩きつけられるようにして落下したメリッサは衝撃で意識を失った。

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