魔王統譚レオサーガ・ラシード伝 ~聖戦の獅子王~

鳳洋

第一章・獅子の目覚め

プロローグ 反逆の神話

 深く、重い闇の中。

 獅子の姿をした一人の戦士が、そこに立っていた。


 燃え盛る炎を反射して煌めく厚い緋色の外骨格は、まるで騎士の鎧の如く彼の全身を隙間なく覆い固めている。手足に生えた五本の指からは長く鋭い鉤爪が伸び、獰猛な百獣の王を模した威圧的な仮面は、硬い兜のような雄々しいたてがみに囲まれていた。


「これが……」


 これが、禁断の果実を口にした自分の姿なのか。焼け落ちるセフィロトの樹を冷ややかに看取りながら、神の使徒レオニダス・リガスは己の変わり果てた肉体を眺め渡して戦慄を覚えた。


「これが、お前たち神の力か。この宇宙の全てを支配するために生み出した、破壊のための魔力なのか」


 至高の神の座している天に向かって、レオニダスは挑むようにそう叫んだ。これまでずっと絶対の畏敬の念をもって崇拝してきたこの惑星の支配者に、彼は恐れることなく批難の声を浴びせる。

 既に禁忌は侵されたのだ。食べれば神に等しい絶大な力を得ることになるという生命の果実。楽園の中心にそびえるセフィロトの樹にっていた、決して食べてはならないと神から厳命されていたその特別な木の実をレオニダスは取って食べ、超人的な力を持った獅子の魔人――レオゼノクと化したのである。


「いい加減、姿を見せたらどうなんだ。神――いや、魔王ロギエルよ」


 レオゼノクが呼ばわると、雷鳴が轟いて黒雲が裂け、空から一匹の巨大な竜が下りてきた。見上げるほどに大きく、凄まじいまでに強い魔力を帯びた闇色の竜。その頭からは長い二本の角が生え、尻尾の先端には鋭いとげに覆われた重い岩のような骨の塊がついている。父なる神と呼んでこれまでずっと伏し拝んできたその姿が、今のレオゼノクには吐き気をもよおすほど醜悪に見えた。


「悪魔め」


 神と天使だけが口にすることを許された聖なる果実を盗み取り、究極の力を我が物としたからにはもはや恐れるものは何もない。背中に生えた翼を広げ、地上に降り立ったその漆黒の巨竜――ロギエルを睨むようにして見上げつつ、怨念を込めてレオゼノクは言った。


「貴様の野望もこれまでだ。天の楽園とは笑わせてくれるぜ。こんなものは家畜の牧場と同じだ。俺たち人間を奴隷にしてこき使い、自分たちのために利用することしか貴様らは考えていなかったんだろう」


「塵に等しき人間めが」


 ロギエルは鋭い牙を剥き、雷鳴にも似た怒声でレオゼノクを威嚇するように言った。反逆という信じ難い暴挙に対する無限の怒りが、重低音の咆哮となって大気を震動させる。


「禁じられた果実を取って食べ、汝は大いなる罪を犯した。汝一人の身のみに留まらず、汝の子孫たちにも永遠に渡って受け継がれることになる重大な罪だ」


「何とでも言うがいいさ」


 銀河の片隅に浮かぶこの小さな惑星の、その後の人類史に深い爪跡を残すことになる原罪。かつての主である神から厳然とその裁きを宣告されても、レオゼノクは微塵も臆せず、むしろ嘲笑うように言い返した。


「この莫迦ばかでかい力を使って、今度はどこの誰を滅ぼすつもりだったんだ? それこそ許されざる大罪というものだろう。幾多の星を侵略し、無数の命を踏みにじる、残酷な圧政の時代はこれで終わりだ」


 昂ぶる感情が、レオゼノクの右手を震わせて鞭のように柔らかくしならせる。自分の意思とは無関係に騒ぎ出す腕の動きを抑えようとするかのように、レオゼノクは拳を強く握り締め、全身にみなぎる魔力の感触を確かめた。自分で自分が恐ろしくなりそうなほどに、それは巨大で破壊的な力であった。


「そして、貴様もこれで終わりだ。魔王ロギエル」


「黙れ。無知蒙昧なる下等生物め。大人しく我らの奉仕種族として臣従しておれば、いつまでも美味い餌を存分に与えて可愛がってやったものを」


 これまでの主従関係を倒錯させ、自分に死刑判決を下すかのように傲然と言い放ってきたレオゼノクを、ロギエルは巨大な紫色の眼球を動かして哀れむように見下ろしつつ語る。


「これは終焉などではないぞ。愚か者め。汝が忌み嫌う、果てしなき流血の時代を今、汝自身がその手で切り拓いたのだ。これより先、この星の歴史は汝ら人間たちの痛ましい悲鳴で満たされ、彼らは神に背いた汝を罪と苦しみの始祖と呼んで呪うであろう」


「俺自身の汚名などはどうでもいい。全ては覚悟の上だ」


 ロギエルが告げた血塗られた未来をレオゼノクは達観したように受け止め、不敵に嘲笑ってみせた。確かに、これは茨の道へと自分たちを導く危険な選択なのかも知れない。それを敢えて選んだ自分は後世、多くの人々から恨まれることになるだろう。だがそれでも、人類はこの残忍で凶暴な竜の家畜などという地位にいつまでも甘んじているべきではない。人間は己の足で立ち、己の意志で歩いてゆかねばならないのだ。


「下らない論争は終わりだ。行くぞ。魔王ロギエル」


「来い。背教者レオニダスよ」


 レオゼノクとロギエルが同時に身構え、魔力を高めて戦闘態勢を取る。さいは投げられたのだ。これ以上、無意味で冗長な言葉の応酬に時を費やす気は両者ともなかった。


「塵から出でし人間は、塵に還るがよい!」


 レオゼノクが右足をわずかに地面から浮かせ、足元の空気を蹴るような仕草をして駆け出そうとしたその時、ロギエルは息を吸い込んで喉の奥に紫色の熱い光を灯らせた。次の瞬間、大きく開かれたロギエルの口からその炎のような光が渦を巻いて噴き出し、地上に立っているレオゼノクを呑み込む。


「それがどうした」


 全てを焼き尽くすかに思えるほどの超高温の火炎を浴びせられても、赤く輝くレオゼノクの硬い外骨格は焦げ跡一つすらつかない。罪の処断となるはずの神罰の炎に平然と耐えたレオゼノクは両手を前方に突き出すと、掌に魔力を集め、真っ赤に輝く光熱の波動をロギエルに向けて撃ち出した。


「消え失せろ。邪悪な怪物め!」


 怒りを込めて発射された紅蓮の熱波は冷えきった大気を引き裂いて飛んでゆき、闇を孕んだロギエルの黒い体に命中した。竜の火炎を上回る熱と破壊力とを帯びた光の奔流はロギエルの巨体を粉々に打ち砕き、焼き尽くして原子の塵へと還してゆく。


「おのれ……人間……如き……が……!」


 大地を激しく揺らしながら、ロギエルは大爆発して粉々に砕け散った。ロギエルの頭に生えていた、湾曲した太い灰色の角の一本だけが熱波の直撃を免れて残り、主をうしなって地面に落下する。


「神は死んだ」


 自分の足元へと転がってきたロギエルの角を蔑むように眺めながら、レオゼノクは言った。勝利の余韻に浸ろうとしていた彼の脳内に、聴覚を介さずに送られてきた神の今際の科白が響く。


「これで勝ったと思うでないぞ。遥か遠き未来、汝のたねをもって我は再び蘇り、神としての栄光の玉座に必ずや舞い戻るであろう」


「何を言っているんだ」


 予言めいたロギエルの言葉の意味が、レオゼノクには理解できなかった。ただはっきりと分かるのは、とにかく今、自分は間違いなくロギエルを倒したのだという事実である。


「やったんだな……遂に」


 世界の全てが、これで変わる。長く続いた神代の世紀に終止符を打つ、この星の歴史の転換点と言うべき空前の大事変も、終わってみれば実に呆気ないものであった。万知万能と己を誇り、また人々からもそう信じられて崇められてきた強大な邪神も、禁断の果実を口にした一人の勇者の前に敗れ、敢えなく葬り去られたのである。


「新たな時代が、これで始まる」


 長く鋭い鉤爪の生えた足で、レオゼノクは爆散した神の残骸である角を無造作に蹴った。蹴飛ばされたロギエルの角は回転しながら宙を舞い、重力に引かれて崖の下へと吸い込まれるように落ちてゆく。


「二度と上がってくるなよ。そこが貴様の永劫の寝床だ」


 高く切り立った崖の下は、濃い闇に覆われていてここからは見えない。ロギエルの角が暗黒の奈落へと消えていったのを崖の上から見届けると、レオゼノクは全身に纏っていた赤い獅子の装甲を無数の光の粒に変えて消滅させ、人間の姿に戻った。


「これから、どうするかな」


 遠く地平線の彼方を見やって、変身を解いたレオニダスは大きく嘆息した。この星の支配者だったロギエルが滅びた今、全ては自由である。人々を抑圧していた神はたおれ、人類を縛りつけていた重い鎖は断ち切られた。闇が過ぎ去り、明るい光が射し始めたこれからの新世界で果たして自分はどのように生きていこうかと、レオニダスは取りとめのない考えを頭に巡らせながらその場を去り、いずこかへと旅立っていった。


「………」


 太陽の光が届かない、暗澹とした闇の中。湿った冷気が淀む崖の底では、蹴り落とされたロギエルの角が小刻みに震え、不気味な紫色の光を放ちながら、まるで意思を持っているかのようにゆっくりと動き出そうとしていた――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る