第12話

 草むらをかき分けてきた文也さんは以前にも増してみすぼらしく見えました。文也さんはひしと相原先輩を抱きしめ、何度も「すまなかった、もういいんだ」と声をかけ続けていました。



「なぁ浩。お前がそうやって黙っていることは、きっと桜さんの望むところじゃない。僕はそう思うよ」


「…………そうか、健介。お前には勝てないなぁ」


「おう、後は全部僕が責任持つから。浩は知ってること全部話して、楽になってよ」



 その言葉に覚悟を決めたように相原先輩は話し始めました。



 ◆◇◆◇◆



 俺が桜と初めて出会ったのは、先生の塾に通い始めてすぐだった。俺は塾なんて行かなくても自分で勉強は間に合ってると親に伝えていたのに、心配性の親が無理矢理に通わせたというのが真相だ。だけど、それもいいかと思っていた。俺は将来きちんとお金を稼いで、美穂を養っていくんだって中学生ながら考えていたから、そのために勉強は無駄にはならない。



 その分美穂と居られる時間が減ったのは俺にとっては痛手だった。中学一年の時に告白されたときは、恋愛なんて自分には関係のないことだと思っていたから、すぐに答えは返せなくて、でもこの件で美穂と話も出来なくなるのは嫌だったから、付き合うことを決めた。それから二年の間で、俺は美穂に夢中になっていたと言ってもいい。こんなことを言っても信じられないかもしれないけど、それはずっと変わらない事実だった。



 桜は塾の一番後ろの席の右端を陣取っていた。そして俺は偶然隣の席に座った。俺や他の子達が分からないところを質問しに行くのに対し、彼女はいつも席を動こうとしなかった。全て理解できる秀才なのかと思っていたらけしてそうではないらしく、同じ問題に何分も何分もかけているのを見て、どうして質問しないのか気になって話しかけることにした。



「なあ、質問しにいかないのか」



 急に話しかけたものだから、桜は面食らっているようだった。数秒経って自分が無視をしてしまっていることに気づいたのか、「いかない」とか細い声で返した。



「どうして?分かんないんじゃないの」と尋ねると「お父さんに聞きづらいの」と答えた。なるほど、この子は先生の娘さんなのか。確かに自分の親に勉強の質問はしづらいかもしれない、と思った。それから俺も自分の勉強に戻ったんだけど、やっぱり同じ問題をずっと考えている。



 なんだか無性に気になって、俺が分かる問題だったのもあって、勝手に解説を始めた。そしたら、初めて笑顔を見せて「ありがとう」とお礼を言われた。



 それを契機に俺は桜にたびたび勉強を教えることになった。俺は親が自習に行けというので、部活の後毎日通って、その度に桜に勉強を教えながら色々な話をした。本来自習中に話をするのは褒められたものじゃないんだけど、先生はおそらく見て見ぬ振りをしていてくれた。



 その中で俺の部活の話をしたら、応援に行きたいというので、たまたま美穂が来られない日にある練習試合があったから、その日に桜を招待した。特に後ろめたさなどはなかったけれど、彼女の居る身で他の女の子と仲良くなりすぎるのは、あまり褒められたものではないと思ったからだ。



 その日もしっかり勝って解散となり、その日も自習に塾へ行く予定だったから、桜と一緒に帰っていた。その時だった。滅多に自分から話し出さない桜が話を切り出したのだ。



「相原君、大活躍だったね。かっこよかった」


「それは、どうも。ありがとう」


「相原君はさ、私の唯一の理解者なんだ」


「そんなことないよ。先生だって桜さんを大事に思ってくれてるだろ?」


「ううん、違う。お父さんは結局私のことを恨んでいるのよ」


「恨んでる?」


「そう。私が生まれたときにお母さんが死んじゃったから。だから私のことは出来るだけ見たくないんでしょ。私が家に戻ってからも高校生の授業があるからとか、教材をつくるからとか何かしら理由をつけて私が眠るまで帰ってこないの。私が親友だと思ってた子だって、最近は彼氏ができてそっちを優先して私のことなんてもうどうでもいいんだ」


「そんなこと……」



 その時の桜は何処か少しおかしかったのは当然気づいていたし、この話を続ける場合じゃないことも本能で理解していた。しかし、桜は話を続けた。



「ねえ、相原君、私と付き合ってよ」


「付き合うって…………」


「男女の付き合い、カップルってこと。わかるでしょ?」


「…………ごめん。俺、もう彼女が――――」



 その先は続けられなかった。なぜなら彼女の持つ包丁の切っ先が、彼女の首に今にも突き刺さろうとしていたからだ。



「何してるんだ!やめろ、そんなこと」


「相原くんに振られたら、私もう生きてる意味なんてないもん!」


「落ち着いてくれ!」


「別れて!別れてよ!彼女がいるなんて関係ない!私の隣から離れないでよ!」


「分かった、分かったから。それを下ろせ!」



 彼女は手を下ろさない。俺は美穂にその場で電話をかけようとした。だけど、俺にとって美穂はもうこんなことで別れられるほど浅い関係ではなかった。だからどうしても電話をかけることが出来なくて、咄嗟に電話をかける振りをして「いきなりだけど、お前とは別れる!じゃあな!」と叫んだ。



 桜はゆっくりと手を下ろした。とにかく俺のせいで一人の人が死ぬなんて耐えられなかった。桜は俺が本気だと分かったのか、包丁を地面に落として「ごめんなさい」と泣き始めた。俺はすばやく包丁を回収して持ってきていたタオルに包んで俺の鞄に入れ、泣きじゃくる桜を抱きしめた。



 俺は桜を好きになるか分からなかったけれど、彼女を見捨てるようなことはしてはいけないと強く思った。だから俺は桜と付き合うことにした。ただ一つ桜を騙していたのは、美穂との関係はまだ終わっていなかったということだけだった。



 桜が自傷を仄めかすほど取り乱したのは後にも先にもその時が最後だった。俺は出来るだけ本当に桜を彼女として扱って、彼女が不安にならないように振る舞った。桜も初めは無理矢理付き合った後ろめたさがあったのか、余所余所しい態度だったけれど、俺は彼女が不安になってまた自傷に走らないように、桜にも真摯に対応した。



 だからだろうか。彼女は俺を束縛しなかった。携帯の履歴を見たり、位置特定アプリを入れたり、そんなことは一切しなかった。だから俺は美穂との関係と桜との関係を続けることが出来た。ただ休日はほぼ桜と一緒にいたから、美穂との時間はどんどん減っていった。美穂が俺のことを全く疑わなかったから余計心が痛くて、いつまでこんな関係が続くのか、と考えるようになった。



 桜と一緒に居てもやはり俺が考えているのは美穂のことばかりだった。でも桜が大事な存在である事もまた事実だった。だから、俺はもうこの歪んだ現状から抜け出せなくなってしまったことを察した。



 そんなとき、桜とのデートで駅前のスポーツショップに行ったとき、居ないはずの美穂がそこにいて、ご存じの通り俺はビンタをもらった。当然だ。俺は許されないことをしているんだから。



 俺は何も考えられないほど焦っていた。それはこの件が原因でまた桜が死んでしまうと思ったからだ。美穂に二股状態がバレてしまった以上、俺と桜は一緒に居られない。だからまた桜が一人になって、自殺をしてしまう。それがありありと見えた。



 桜は俺と美穂が付き合っているとしった瞬間に自分のしてしまったことの意味を知ったのだろう。一心不乱に「ごめんなさい」と謝り始めた。俺は一瞬桜に脅されて付き合っていたということを話す案が脳裏に浮かんで、すぐに打ち消した。



 なぜなら美穂と桜が親友だったと知ったからだ。このまま桜を悪者にしてしまえば、美穂は俺の味方について桜が孤立してしまうかもしれない。そうなれば予想できるのは最悪の未来だけだ。だけど、ここで俺が一番の悪者になれば、美穂と桜は俺を共通の敵としてまた繋がれる。そして、それは上手くいったはずだった。



 また美穂と桜は親友に戻ったと知って安心していた。でも俺は大事な人を二人失ったことと、自分が罪を背負うことに耐えられるほど精神が強くなかった。毎日寝ていると悪夢が俺を襲うようになった。夜中に起きてトイレで親にバレないように吐いた。塾を独断でやめたから両親から責められるようにもなった。



 そんな状態で野球なんて力が出せるわけがなかった。どんどん調子が出なくなって、二年の時にほぼ確定で推薦を約束してくれていた学校から推薦が取り消しになって、美穂と桜が進学しないであろう私立の学校を第一志望にして勉強した。



 見事に合格できたと知って久々に喜んでいた矢先だった。



 先生から桜が自殺したことを知った。



 俺には分かった。桜はこの一年間、俺を犠牲にして、美穂を騙して親友を続けることが耐えられなかったんだ。そして遺書がないと知ったとき、俺は絶対に桜があんなことをしたなんてことは墓場まで持っていくことを決めた。俺が犠牲になることで彼女の死が美しいままでいられるのなら。



 ◆◇◆◇◆



「嘘!そんなの嘘に決まってる!あたしは信じない!信じないんだから!」


「美穂さん!落ち着いてください!」



 浩さんが語った彼目線での真実を聞いている途中、美穂さんはもう聞きたくないという風に頭を抱えて涙を流し始めました。どうみても錯乱しています。私は彼女の側で、彼女を支えることにしました。



「嘘よ、嘘。だってそれって……浩はあたしを好きでいてくれたのに、あたしは浩を信じられなかったってことじゃない!」


「違うよ。俺が美穂を騙したんだ。だから、美穂は何も悪くない」


「嫌だ、そんなの真実とは認めない!」



 彼女の心境を思うと胸が痛くてたまりませんでした。自分の最愛の人をたったの一瞬も信じてあげることが出来なかったという真実は、心臓に刺さるには鋭利すぎます。



 悔しいけれど、私にはこの場をどうにかする力はありません。だから頼みますよ、先輩。



「そうだね。僕も今浩が語ったことが全て真実だとは思っていない」



 と思っていたのですが、一体何を言い出すんですか、先輩。思わず先輩を睨んでしまう。



「結局、この場において一番正確な真実を語れるのは、内海さんでも浩でもない。


「健介、何を言ってるんだ。桜がどうやって真実を語るって言うんだ」


「文也さん頼んでおいたものは持ってきてくれましたよね」



 先輩は文也さんに語りかける。文也さんは先ほどの話を聞きながら泣き崩れていた。しかし、その表情はどこか憑きものが落ちたようにすっきりとしていて、今まで見た中で一番健康そうに見えた。



「ああ、これだ。今まですまんかった」



 そういってポケットから二つの封筒を取り出した。そこには『お父さんへ』と書かれたものと『浩と美穂へ』と書かれたものがあった。



「さあ、真実を語ってもらいましょう。この『桜の手紙』にね」

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