§8

「おい嬢ちゃん、あまり遠くに行くんじゃねぇぞ?」

「……いつになったら、私の名前を覚えるんですか? それとも、名前で呼ぶ気が無いんですか?」

 ある昼下がり、マグは珍しくバッカスに連れられて街を歩いていた。道行く人は皆、好奇の目でマグの顔を眺めている。何を好き好んで、あの好色男に付いて歩いているのか……? という事だろう。だが、自分への飛び火は嫌と見えて、遠巻きに見るだけで、話し掛ける者は誰一人として居ない。バッカスが商品を求めて店主に話し掛けても、彼とは目を合わせようとせずに、最低限の対話だけで事を済ませようとしている。これが先入観……普段から植え付けられたイメージというものなのだなと、マグは肩を竦めた。

「寂しい物ですね」

「ん? あぁ、慣れてるさ。いいんだよ、ギブ・アンド・テイクが成り立てば文句は無い」

 冷めた回答だった。バッカス自身が自らの置かれた立場を冷静に分析した結果であろうが、それはあまりにも寂しすぎる、自虐に近い回答であった。

「まぁ、俺の場合は……自分で蒔いた種だからなぁ、文句を言う事自体がそもそも、筋違いなんだがよ」

 目深に被った帽子の影から片目だけを不気味に光らせて、彼は街を行く人々を逆にせせら笑うかのように呟いた。それを見たマグは、先程とはニュアンスを変えてバッカスに問い掛けた。

「……寂しく……ないですか?」

「なんで?」

「いや……なんとなく、です」

「変な奴だな」

「アナタにだけは、言われたくないです」

 そのリアクションに、バッカスは声を上げて笑った。ちげえねぇ、と。

「何で……そこで笑えるんです?」

「俺以上に変な奴なんて、そうは居ないだろ? 強いて言えば……」

「……!! わ、私だって言うんですか!?」

「違うのか?」

 バッカスの意外すぎる切り返しは、マグの理解の範疇を越えていた。なぜ自分が変人に変人扱いされるのか? とてもではないが納得できる回答ではなかった。が、続くバッカスの台詞は、更に彼女を唖然とさせた。

「だって、札付きの変人である俺からずっと離れないで、一緒に寝泊りまで出来る女の子なんざぁ、他には居ないだろ?」

「なっ……! そ、そうせざるを得ない状況を作ったのは、アナタ自身じゃないですか!!」

「え? ……俺が? ハテ、俺、嬢ちゃんに何かしたかなぁ?」

「……!! こっ、この『契りの刻印』の所為で、私はアナタから離れられないんですよ? それをまさか、忘れていた……とか!?」

「それ、タトゥーじゃなかったのか?」

 何と、バッカスは自分が付けた『刻印』の事をすっかり忘れて……と言うより、最初から認識していなかったと言った方が正解だろう。とにかく、マグが何故、自分から離れずにずっと一緒に居るのか分からない……つまり彼の視点からは、マグの方が彼にくっついているように見えていたのだ。

「あ、あは、あは……あははははは……」

「ど、どうした嬢ちゃん、気でも触れたか?」

「呆れ果てて、もう何も言えない……」

「わっかんねぇなぁ……」

 然もありなん。バッカスはマグに契約を迫られた際、既に酩酊していた。その時の言動すら記憶に残っているかどうか怪しい状況で、正気を取り戻した時には、何故か女の子を抱き抱えて寝ていた……という感じだったのだ。これで、マグが何故バッカスから離れる事が出来ないのかを、理解しろという方が無理である。

「何よそれ……これじゃまるで、私だけが空回りして……馬鹿みたいじゃない……いや、馬鹿そのものだよ。自分を虜にした本人が、その事を認識していないなんて……これ以上の馬鹿な話は無いわ……あはははははは!!」

「なぁ嬢ちゃんよ、俺が嬢ちゃんに何かしでかして、それが原因で自由を奪われてるってぇんなら、説明してくんな。その言い方じゃ、俺が大悪党みたいに聞こえて気分が悪りぃや」

「……いいでしょう、説明しましょう……ただ、説明したところで、何の解決にもなりはしませんけどね……」

 泣き笑いの表情のまま、溢れる涙を拭おうともせずに、マグは語り出した。自分が唐突にバッカスに捕獲され、接近した事を好機と考えて短時間だけ虜にしてすぐに開放し、故郷に帰る資格を手に入れたら、サッサと人間界から去ろうとしていた事から始まり、バッカスを『抹消』しない限りは、元の世界へ戻る事も出来ないという事も含めた全てを。

「じゃ、何かい? 嬢ちゃんがヴァンパイアだって言うアレ、ジョークじゃなかったのかい!?」

「そんな寒いジョーク、誰が言うもんですか!!」

「ハァ……なんとまぁ、そんな事情だったとはねぇ……道理で、いくら嫌がらせをしても出て行かなかった訳だ」

「……!! あ、あれ、わざとだったんですか!?」

 そうだよ、とアッサリ頷いたバッカスを見て、マグは頭の中で何かが切れる音を確実に聞いた。刹那、彼女は怒りに満ちた瞳でバッカスを睨みつけ、何かを必死で堪えるような表情を見せた後、ダッとその場を走り去った。

「……やっぱ、俺が悪いのか?」

 いかにもバツの悪そうな表情を湛えたバッカスだけが、そこに残された。彼は自問自答を繰り返しながら、どうすれば汚名を返上できるか、それについて考え込んでしまった。

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