とある探偵事務所の一幕

@Aithra

『第一話』

くたびれた土気色に死相が添えられたら、佳境の合図である。

嘆息と白煙がまざって、残ったのは乾いた呻きひとつだった。いやな稼業だ……。

背広の男は、煙った空気を右手に払いながら、無言で顎をしゃくった。


「おもてで吸うヤニはまずいんですよ。良識の味がする」


おもむろに、これでおしまいにします、と付け加える。

しわくちゃのネルシャツに煙草と無精髭をたずさえた装い、ハエの似合う三十路だ。

もう一歩きたなければ、腐っていないだけ不思議なくらいだった。


「殊勝なせりふですな。すでに五度聞いた」


男の口から、嘲笑めいた声がもれていた。

かすかに鼻白み、親指と人差し指に手挟んで、金属へ押しやる。

火花が死んでいくさまが、男の虚勢を映すようだった。


「曲がりなりにも、ひたむきに働いてきました。十年とちょっと、稼ぎが多いとはいえないけど……稼ぎが……くそっ、俺の稼ぎがだめだったのかっ!」


鈍い音がして、ティーカップの二組が揺れた。

こしらえたげんこつの底面が赤くなっている。


束の間に男は眼を瞑り、前の面差しを一瞥した。

先までのそれが嘘のように、額の皮膚が血管を結んでいる。

鬼の形相とはこういうのを言うのだろうが、男には見慣れた光景であった。


「確信がおありで?」


「なら、いまごろ弁護士の厄介に。証拠がほしいんです」


ぬるくなったそれを一口啜って、ソーサーにもどす。

そうしながら、またこの手の依頼か、と思った。

よしんば「探偵」などと謳っていても、このざまでは、どちらかといえば私立家庭裁判所とか形容するのが近い。

人様の関係に立ち入る点で見るなら、間男より間男と呼ぶに相応しい所業だ。


「では、ことの顛末を説明していただけますか。奥方の特徴も。きみ、メモを」


「はあ……このところ、妻の帰りが立て続けに遅かったんです。私のほうが早く家に着いて、こんなこと滅多になかった。それで、疑問に思って、訊いてみたんです」


「そしたら奥方はなんと?」


「外せない仕事の付き合い。そう、なおざりに告げていきました」


曰く、その妻はデザイナー業に勤めていて、酒の席はない。

残業はほとんど在宅でこなし、時間の融通が利く業種だった。

胡乱に思って問いただしたところ、それらしい理由をつけてすげなくあしらわれる。

男のせわしなさから事務的な日々が続いていたらしく、ますます不安の募る一方──しかも彼女は相当な美人で、座視に耐えかねたのが数週間前のことだ。


「だから、つけてみた。そういう次第ですか」


「はい。その日は出張で、明くる昼まで帰らないと伝えてありました。会社を早退けして、妻の職場に張り込んで……」


男は唾を飲み下し、一拍をおいて言った。


「案の定、妻は定時上がりです。うちと逆方向に歩いてゆきましたよ」


「……ざんねんですな。紅茶のおかわりは?」


いただきます、とは声に出さなかったけれども、男は瞳で首肯する。

簡易キッチンからティーポットを運んで、茜色の中身を注いでやった。

湯気からほのかな柑橘類が薫り、よどんだ空気を芳香に満たす。


「夢中で尾行しました。ゆけばゆくほど、景色が都会的になっていくんですよ。立ち止まったのが小一時間は経ったあと。いまどきデパートなんぞがある大きな駅です」


男は会釈してからちょっと飲み、緩慢な仕草で続けた。


「妻が見たことのない顔をしてた。男です。向かっていった」


「身体的特徴を教えてください。顔は? 背は? メガネ……」


「上背百八十はある! 良いコートを着てた。良い鞄と、良い時計と、良い靴もだ! あの野郎、あいつのからだに腕をまわしやがって……」


激昂に委ねて煙草を取り出そうとしたが、もう空だった。

勢いのままにシガレットケースを叩きつける。

名門ブランドのロゴマークが刻印された、見るだに高価なそれの表面が、ひしゃげてもはや見る影もない。


「さようで。心中お察しします。失礼を承知でお訊ねしますが、なにか心当たりはありますか? ……奥方が心変わりするような」


「ないとは言えません。私は仕事に明け暮れてましたし……まあ……遊んだことも。しかし、断じて妻を愛してました。記念日を忘れたことはありません。指輪だって、寝る間もつけたままなのに!」


「いま、遊んだと? それは奥方に?」


「いえ、遊んだといっても、ささやかなものです。奴らあれから、すぐさま宿に入っていったんですよ。比べるべくもないでしょう!」


薬指をかかげて、おのれの潔白を主張するように、曇りのない金属が閃く。

しばらくその様子を眺め、然る後、静かにうなずき、言葉を返した。


「仔細、わかりました……やるだけやってみましょう。そのぶんなら、長くはかからんでしょうな。一両日あればじゅうぶんです」


「まさか! この足で行くとでも? 今日あした、妻がことに及ぶ保証もない」


「心配召されるな。弊社はこれでもプロです。あなたがたのような事例は、山と請け負ってきました。無論、結果如何ではお代をいただきません。おまかせください」


あまりに明瞭な声色で断言され、男は押し黙るほかなかった。

こなれた手筈で妻の名前に勤め先、くせや嗜好を書き留める。

その最下部に男の電話番号をしたためて、ペンを置いた。


「それでは、お約束どおり、明日までにお電話いたします。気を楽にしてお待ちを」


「本気なんですか? もしでたらめや詐欺なら……」


「用心深い御仁だ。件のあとなら無理もないですな。弊社は完全に成果報酬型です。まず結果から納得していただく。お代はそれからです」


いかれた業務形態だ、と男は思った。

一見おままごとのようだが、事務所を構え、従業員が二、三名。

訝りつつも、自分に損はない。男はそれ以上の追求をやめた。

また来ますよ、とだけ言い残し、男はそこを後にした。


その姿をひとしきり見送ったのち、探偵は振り返って簡易キッチンに戻る。

湯を沸かす。茶葉を入れ直す。薫りをたしかめ、頷いて席に向き直る……。


その女が訪れたのは、ちょうど十分後だった。


「ごめんください。しばらくですわね」


「ええ。お待ちしていました。今、終わったところです。おかけください」


濡羽の艶髪をなびかせ、その女は腰掛ける。

その肌はなでやかな曲線美を描き、意思のやどった双眸にうるおった桜唇。

笑っていれば、さぞ絵になったであろう。


「それで、結果のほどは?」


「黒ですな。悔いてもいません。音声はここに……」


そして、探偵は手のひら大の集音器を取り出す──テーブルの下面から。

女がそれをしげしげと長め、数回再生したところで頷いた。


「そう。やはりね。流石は成果主義の探偵さん」


「当然ですとも。我々はプロです。納得いただいたようでなによりです」


「報酬については手筈通りに。彼からのでお支払いするわ」


「かしこまりました。ちょうど今から、彼に依頼完了の連絡をするところです。きみ、携帯をよこしてくれ」


ドアをへだてた事務室に声をかけると、何拍か遅れて返答がある。

程経て、固定電話の受話器を片手に、男が奥からやってきた。

見上げるほどの長身に女は一瞥して、礼を告げる。


「あなたにも、ずいぶんお世話になりました。謝礼は弾むわ」


パーカとスウェット生地のパンツに身を包んだ大男は、気恥ずかしそうに会釈する。

もう片方の手には、紙袋が握られていた。

なかを見ると、豪奢な装いが一式、丁寧に畳んだまま仕舞われている。


受話器を受け取ると、その探偵は狡猾な笑みをたたえ、開口一番に告げた。


「弁護士の者です。貴方の奥様のことで連絡差し上げました」

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