第55話 言えなかった言葉

「は?」


俺は一瞬目が点になって聞き返した。


「ですから、先輩を初めて見たとき、おばあちゃん家で飼っている犬のペスを思い出しました。あ、おばあちゃんというのはこの緑茶をくれた父方の祖母で、今静岡に住んでいます。」


「その話は前に聞いたな。」


「そうでしたっけ?で、おばあちゃんの家で飼っている犬がいるんですけど、その子がとても気位の高い性格で、おばあちゃんの言う事しか聞かないんです。遊びに行ったとき、私が構うと、てんで相手にしてもらえないんです。」


「まぁ、犬は家の中で上下関係を作る動物だっていうし、森野は下とみなされたんだろうな。」


「悔しいですが、その通りだと思います。時折犬ながら、すごく小馬鹿にした顔をされるときがあります。」


まぁ、森野だしな…。なんとなくその情景が思い浮かぶような気がした。


「でも、可愛いところもあるんですよ。

以前おばあちゃんと一緒に買い物に行ったとき、ペスを外に繋いで、お店に入って私だけ早めに買い物を終わらせて外に出たんですが、おばあちゃんがいなくて、不安なペスはすごくオロオロしちゃってて、私と目が合うと、すごくホッとしたように尻尾を振って喜んでくれたんです。」


その時の事を思い出したのか、 森野はふふっと微笑んだ。


「普段小馬鹿にしている私でも、不安なときはいないよりマシだったんでしょうね。」


俺はふと嫌な予感がして森野に問いかける。


「君、まさかとは思うけど…。」


「はい!先輩と初めて目が合ったとき、まさにその時のペスそっくりの顔をしていました。

基本男の子は苦手なんですが、これは余程大変な事態が起こってるのかと、つい放っておけない気になって、声をかけてしまいました。」


森野はクスクス笑いながら答えた。


「君、人の第一印象を犬とか言ったか…?」


俺は思わず口元が引き攣った。


落ち着け!落ち着くんだ、俺。


俺は怒りが込み上げて来そうになるのを必死に堪えながら昨日、今日で森野について発覚した衝撃の事実について思いを巡らせた。


そうだ。俺は、森野に対して謝らなければならない事があったんだ。

怒ってる場合じゃない。


「ま、まぁ、第一印象はともかくだ。その…。

その時俺が言った言葉が、森野を怒らせたんじゃないかと…。


あの、ヒートアップしてるときは放置して、落ち着いた頃に丸め込めばいいって言った事…。」


「!!」


森野の顔からさっと笑みが消え、固い表情になった。

やはり、森野はあの時の事で俺を許せない気持ちを抱いてるのだろう。


「その、あの時は…」

「あの時は本当にすみませんでしたっ。」


ん?

俺が言おうと思った謝罪の言葉をどうして森野が口にしているんだ?


「ごめんなさい。私あの時、一瞬先輩を前のお父さんと重ねてしまいました。」


「小さい頃離婚したお父さん…?」


「は、はい…。私、他に女の人を作ってお母さんに悲しい思いをさせたお父さんがずっと許せなかった。憎いと思っていた。

二股した上に、女の子達を自分の都合のよいように扱おうとしている先輩がお父さんと同類の人間に見えて、お父さんに出来なかった復讐を代わりに先輩にしたんです。」


「……。」


「謝ってすむような事じゃないけど、

勝手な思い込みで、彼女さん達との仲を裂いてしまって、先輩の立場を悪くしてしまって、本当にごめんなさい。

先輩と関わるようになって、先輩は私が思っているような人じゃない事がすぐに分かりました。」


「森野…!」


感動したのも束の間、次に続く森野の発言に言葉を失った。


「先輩、結構子供っぽいし、以外と不器用だし、嘘下手だし、すぐにやらかして窮地に陥るし…。」


おい、待て森野。言い過ぎだぞ?

すぐにやらかすのはお前もいい勝負だからな?


「例え二股事件がなかったとしても、きっと浮気はバレていたことでしょう。」


晴れやかな笑顔でそう言い切った後、一転して森野は少し悲しげな表情になった。


「それでも、今よりはずっと自然な形で収拾がついていたに違いありません。私が変に引っ掻き回したせいで、大事になってしまいました。許嫁と同居の件もそうです…。ずっと後悔していたんです。」


「森野…。」


それは、俺も同じ事だった。もし出会ったあのとき、森野にあんな言い方をしなければ、森野の古傷を抉るような事はなかった。


両親から許嫁と同居の件を持ち出されたときに、『モブ』なんて言わなければ、

森野を可愛いと思う度に罪悪感を感じる事もなかった。


例え森野がその事を何とも思っていなくて、その発言がなかったら、許嫁や同居に同意しなかったのだとしても。


でも…。


その先の思考をなぞるように森野は言った。


「起こってしまった事は取り返しがつきません。私が今からでも先輩に償える事って何かありませんか?」


森野は真剣な表情で問いかけてきた。


「彼女さんとの仲は本当にもう駄目なのでしょうか?先輩が復縁を望むなら、私、彼女さん達との仲を取りもってもいいですよ?」


本当に何も分かっていないな。


森野の思い遣りから出た言葉は刃のように俺に突き刺さる。


俺は森野に諭すように言った。


「気持ちは有り難いけど、俺と彼女達の仲は既に終わってるんだ。俺も彼女達ももうそれぞれに違う道を選んで歩いている。復縁なんか望んでいないよ。」


「そ、そうですか…。やはり、一度壊れてしまった男女の仲を取り戻すのは難しいですよね…。」


森野はしゅんと肩を落としたが、また何かを思い付いたように顔を上げて提案してきた。


「それでしたら、私との同居を解消してもいいですよ?」


「!!」


「今、夢ちゃんのツテで他に条件のいいシェアハウスがないか探してもらっているんです。もしいいところが見つかったら、そこに移ろうかと…。」


「森野…。」


「先に同居を解消して、許嫁もお互いに気持ちが無い事が分かれば、いずれは解消され…。」


「森野!!」


堪らず、大声を出した俺を森野は怯えたように見上げた。


「俺はそんな事一つも頼んでない!森野が自分の罪悪感から逃れたいから、俺から離れたいだけだろう?」


「ち、違う!私はこの上先輩に迷惑をかけるのが忍びなくって…。先輩がいい人であればある程私はここに居ていいのかと思ってしまう…。」


俯く森野を横目に見ながら、俺は思案していた。本当にこいつとはなんでこんなに難しいんだろう?


嫌っていたときは、図々しく近寄って来たクセに、関係が少し改善されたかと思ったら、勝手に離れていこうとする。


でも、俺の中で、既に優先すべき事は決まっていた。


森野にどう思われてもいい。嫌われてもいい。結局胸につかえている事を謝る事すらできない。


それでも、俺はただ…。


俺はいつものように、高圧的な態度で言ってやった。



「君はバカなのか?」



森野は目を丸くして、俺を見上げた。


「俺がいい人に見えるのか?そりゃ、悪かったな。最近勉強が忙しくて、森野苛めるの手ぇ抜いてたわ。森野。勝手に出ていくなんて、許さないぞ。自分の罪深さを知ったなら、俺にもっと仕えろよ。お前は俺がされた事の倍返しするぐらい、こき使って、苛め抜いてやる。

取り敢えず、今日の夕食は豪華焼肉定食な?」


「ええっ。まだ月の半ばなのに、そんな豪遊を!?」


「口答えは許さん!!」


「そんなご無体な〜。」


縋るように俺を見てくる森野に、咳払いをして付け足した。


「まぁ、変に安い肉使われてもかなわんし、2000円までなら、補助を出してやらないでもないが…。」


蔑むように上から見下ろしてやると、何故か森野は吹き出すのを堪えていた。


「ぶ、ぶふっ…。」


「おい、何で笑ってるんだ?」


「し、失礼しました。くしゃみが出そうだっただけです。

分かりました。先輩。今日は焼肉定食で!

他には何か私にできる事ありますか?」


「あ、ああ…。じゃあ、窓が汚れているから、窓拭きをしといてくれ。」


「窓拭きですね。後は何かありますか?」


「ああ、後はそうだな…。今日は日頃のストレス解消に君を思い切り罵倒したい気分だから、家事が終わったら、数学がどのくらいできないか俺に見せてくれないか?」


「分かりました。家事が終わったら、先輩に数学を見てもらいます。そして、先輩のストレス解消の為、そのできなさ具合を罵倒されます。」


森野はきまり悪くなるぐらい、じーっとこちらを見詰めてきた。


「な、何だよ?言いたい事があるなら、はっきり言えよ!」


「はい。先輩がいい人と思ったのは私の勘違いでした。先輩はとても横暴で性格のひねくれたひどい人です。ですから、私はもう先輩に罪悪感を抱いたりしません。先輩が嫌がろうと、迷惑だろうと、図々しくここに居座らせてもらおうと思います!」


「お、おう…。本当に図々しい奴だな。」


棒読みで一気にまくし立てる森野に俺は押され気味だった。


森野林檎はそれからふっと寂しそうに微笑った。


「だから、先輩も私に悪いなんて思わないで。」

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