第1章 第1部 §3  馬車での出来事

 何かがあると意識した瞬間から、感じられなかった人の気配も鋭敏に察知し始める。やはり誰かが居るようだ。


 ローズは足音を殺しながら、馬車に近づいてみる。


 殺気は感じられないが、念のため松明を地面に突き刺し、剣を抜いて、更に壁際まで耳を澄ませて近づいた。


 馬車の中からも息を殺しながらも、乱れている呼吸音が聞こえる。お互い息を殺している状況らしい。


 それから新鮮な血の臭いがする。扉が閉められている事により、臭いの拡散を防ごうとしていたに違いない。だからこそ馬車の扉が閉まっていたのだ。暗がりであるなら、扉の開閉も気づかれる可能性も余りない。ローズの勘が勝ったといってよい。


 だがこれで馬車の中に人がいることを確信する。誰がいようが彼女の知ったわけではない。


 少なくとも息の殺し方はプロ級である。もし盗賊の残りなら、首を頂けるかも知れない。とにかく馬車のドアを開け、中を確認してみる。


 馬車のドアを開けると同時に、すばやく中へ乗り込み、気配のする方に剣を突きつけた。予想はしていたが、案の定相手は、反撃をしてこない。車内は酷く血の臭いが隠っていた。


「ちっ!見つかった……か、盗賊共にでも……頼まれたのか?殺るなら一気に殺ってくれよ……」


 馬車にいたのは、身の丈二メートル近くある男だった。馬車内の椅子に背を持たれ、右胸を手で押さえ苦しそうにしている。彼の指の間からは、三本の矢が、突き出ており、目を閉じて眉間に皺を寄せ、苦しそうに呼吸している。きっと呼吸の度に、痛みが走るのだろう。一呼吸する度に彼の額から汗が流れ落ちている。


「どう……した。殺るなら……殺れよ」


 相手を確認しないまま、彼はそう口走っている。死の覚悟は潔い。其処には彼の生き方を感じる箏が出来る。潮時を心得ているようだ。


「怪我……、してるのね、安心して、私は盗賊じゃないわ。少し待ってて」


 ローズは、一度馬車を出て、先ほどの松明を取りに行く。彼の怪我の状態を確かめるためである。そして再び馬車に戻る。その際に、男の右足が、膝から下が無いことに気が付く。先ほどの義足は彼のモノのようだ。松明で一度、彼の顔を照らした。


 髪は燃えるような銀髪で、左眉の少し上から、頬の中ぐらいまで、ナイフか何かで斬られて出来たと思われる、あまり深そうではない古傷がある。ただ妙にハッキリとついた傷なのは確かで、まずその素性は素人ではないだろう。と、其れがまず彼に対する第一印象だった。


 口元から血が流れている、肺を傷つけられているのだろう、息を殺すことが出来なくなった彼は、時折咳き込み、血を吐く。


 彼の顔立ち全体は、如何にも一匹狼と言う感じを受けるほど、切れ味のあるワルの顔をしている。彫りが深く、北欧系と思われる。痛みで顰めっ面をしていることも、その印象の一因を担っているだろう。


 彼の彫りの深い顔立ちと、端正な顔立ちは、この世界では、プロージャと呼ばれる民族の顔立ちである。この大陸との裏側の人種でもある。


 顔の話は、また後ほどにして、今は、彼の傷を治療してやることが先だ。


 馬車内に掛けられているランプを開け、松明から火を移し、再び壁に掛け、邪魔になる松明は、一度外に置くことにする。間違って火事になってしまっては大変だ。


 ローズを盗賊と思いこんでいることから、彼は盗賊でないのは確かだ。この状態でそのような芝居が打てるはずもない。


 そんな彼の右腕をそっと退けてやると、矢が本当に彼の胸板を突き破っていることが解る。胸から突き出ているのは矢羽で、シャフトが可成り見えていることから、貫通はしていないようだが、間違い無く肺には届いている。


 この間際に、彼がぼそりと独り言をぶちまけるかのように、息を乱して話す。


「へへ……、盗賊と、女剣士の気配も区別がつかねぇなんて……、相当やばいな……」


 どうやら、ローズが彼女が盗賊でないことは、理解したようだ。


「お喋りはその辺にして。矢を抜くときに舌噛んじゃうわよ」


 ローズは、彼の額の汗をそっと手で拭うが、彼の右手が、それをはらりと除けた。


「そんな事したら……、血が吹き出しちまう」


 助かる見込みが出てきたというのに、余計な事をされて殺されてしまうのが、納得行かなかったのだろう。この状態でよく其処まで判断出来るものだと、ローズは関心を覚える。


 其れと同時に意識が確りしているのなら、彼が助かる見込みは十分あるという確信をする。


「安心して、回復魔法の心得があるから……」


 ローズがそう言うと、男は意外にも素直で、逆らう様子を見せなくなる。


 確率論の問題だった。矢の刺さったまま街で手術を受けるか、矢を抜きこの場で治療を受けるか。どちらがより、生存への確率を高められるかと、たったそれだけの算段だ。


 しかし問題なのは矢の刺さり方だ。貫通しているのなら、そのまま矢の進行方向へ抜いてしまうこともできるが、このままでは、矢尻が体内に引っかかって、一本一本抜いていては拷問だし、激痛で自ら傷を深くしかねない。どちらにしても出血は酷くなる。


 ローズは考えた。掠め取るようにして、三本の矢をほぼ同時に抜き、せめて痛みだけでも一瞬に押さえるしかないと。


「ほんの一瞬だから、動かないで……」


 ローズの指示に、彼は苦しいながらも、息を止め、震える身体を必死で止める。そして、ローズが、一瞬の間を見極め、矢を一気に抜き取る。


「がぁぁ!」


 激痛に、物凄い力で馬車の壁を叩く。その瞬間に、ミシミシ!という音がした。目を見開き、首に筋を立て苦痛を懸命に押さえている。彼の服が目に見えて血で染まり始めた。


「天なる父よ。この者の傷を、癒し給え……」


 素早く治癒の魔法で、彼の傷を塞ぎ始める。


「よし、傷は塞がる。これでもう……大丈夫な……はず……」


 その時ローズは、自分が傷を治している相手が誰なのかを知った。痛みも通り越し、虚ろに天井を眺めているその瞳は、血に飢えたような真っ赤な瞳をしていた。この男こそ、ドライ=サヴァラスティアだったのだ。


 怪我の治療は、進行していたものの、何を考えたらよいのか、一瞬解らなくなる。


 彼はまだローズの素性を知らない。体力的にも彼に勝てる見込みはないはずだ。大丈夫だ。殺すならマリーを殺したその理由を吐き出させてから殺してしまえばよい。ローズは何度も思考の奥で、そう言葉を繰り返した。


 少し痛みの癒えたらしい彼が、突然声を発する。


「死ぬかと思ったぜ、これで、治癒の魔法を掛けてるのが彼奴だったら……、マジで死んでたな」


 しかし、ローズの表情は硬直したまま、ドライを見つめているだけだった。


 飽和状態になりかけ、複雑で不快感も入り交じったローズの表情は、ドライには理解できない。尤も面識のない二人が意思を疎通させることなど有るはずがない。


「……、おい、女、どうしたよ。ぼうっとして……」


 次のドライの呼びかけに、ローズは我に戻る。そして、少し殺気だちながら、彼を再確認する。

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