ナツミカン

阿良々木与太/芦田香織

きっと、言えない

「あのね。山本に告白されちゃった」



 ちょっと照れたように、そしてどこか得意げに、美香はそんなことを言った。途端に私の心臓はずしんと重くなって、周りの音が遠のいていく。それでも美香の言葉ははっきりと入ってきた。



「山本に?」



 全部聞こえていたはずなのに、信じたくなくて聞き返す。美香ははにかみながらうなずいた。美香は顔が小さいから、そうやって顔を動かすたびにマスクがずれて不便そうだ。私は自分のマスクを直すふりをして、こぼれかけた涙を誤魔化した。



「……付き合うの?」



 恐る恐るそう聞くと、美香はきゅっと目を細めて綺麗に結ったおさげをくるくるといじる。



「どうしよっかなーって、迷ってる」



 迷ってるなら付き合わないで。そう言いたいけれど、言えない。美香は友達だから。けれど付き合っちゃいなよ、とも言えなくて、そうなんだとつぶやいた。


 換気のために開けた窓から風が吹き込み、視界の端のカーテンが大きく膨らむ。誰かが留め忘れたんだ。鬱陶しそうにしている後ろの席の子に近づいて、そっとカーテンの紐を括ったのは山本だった。


 他の男子よりも背が高くて、成長痛がつらいと語っていた山本。足が速くて陸上部からもサッカー部からも勧誘を受けたのに、吹奏楽部に入った山本。


 美香も彼と同じ吹奏楽部だ。小さくて可愛らしい美香と、山本が並んだらお似合いすぎる。自分の入る隙間なんてない。せめて私も吹奏楽部に入っていればよかった。



「ね、夏未はどう思う?」



「え……」



 山本が離れていったのを見計らって、美香は小声でそう聞いた。こんなことを無邪気に問いかける彼女は、残酷だけれど悪意はない。だって、私の好きな人が山本だなんて、美香は知らないから。


 そのうち言おうと思っていたのに、言えなくなってしまった。ここで私が好きだから付き合わないで、なんて言える勇気があればよかった。でも私は美香みたいに可愛くない。彼女くらい可愛かったら、ライバルになろうという気持ちが湧いたかもしれないのに。


 けれど、それでも山本の好きな人は美香だ。今私が彼の告白を否定したら、私は好きな人を傷つけることになってしまう。それはできない。八方ふさがりな状況に、また涙が出そうだった。



「ねえ、夏未? 聞いてる?」



「うん、聞いてるよ」



 美香の声が嬉しそうなのがつらかった。けれど彼女の背中を押すことはできなくて、ただ黙り込む。彼女は浮かれているのか、そんな私の様子を気にしてはいないようだった。



「山本ってさ、他の男子とちょっと違うじゃん。大人っぽいっていうかさー。だから、付き合ってみてもいいかなって」



 マスクで半分隠れていても、彼女の顔がほころんでいるのは手に取るように分かった。くっきりとした二重とまんまるな黒目がマスクと黒髪の隙間からキラキラと主張している。



「別に、一緒に見えるけどなあ」



 嘘。私も山本の大人っぽいところに惹かれてしまった。他の男子みたいにぎゃーぎゃー騒がなくて、笑い声すらもうるさくない。ちょっと茶色がかった髪は地毛らしい。教室の窓から光が差し込んで、彼の髪が透き通るのを見るのが好きだった。



「そう? 夏未のタイプじゃないのかな」



 違う!と叫びだしそうなのをぐっとこらえる。マスクの中で唇をかんだけれど、きっと彼女にはバレていないだろう。そうかも、と震える声で笑えば、美香はちらりと教室の後方へ視線をやった。


 そこでは山本たちが、ロッカーにもたれかかりながら談笑していた。ときに男子のふざけが行き過ぎて、ガシャンッと何か倒れるような音がする。それでも山本は動じずに、転んだクラスメイトの腕を引っ張って起こしていた。


 他の男子と並ぶと、彼の背の高さは余計に目立つ。そのせいで、どんなに人に囲まれていても彼の顔ははっきりと見えた。



「告白ってさ、どんなふうにされたの」



 気になっていた質問を、こわごわと投げかける。美香は後ろに向けていた顔をこちらに戻し、その大きな目の中に私が映った。私の心の中がバレてしまいそうで怖かった。



「部活終わって、一緒に帰ってたんだけど。その帰り道で……って感じかな」



 また心が痛む。自分から聞いたくせに、聞かなきゃよかったと後悔した。吹奏楽部の部活終わりなんて、私の全く知らない二人の時間だ。西日のきつい帰り道を、二人で並んで歩く姿は想像に容易かった。



「どっかに呼び出して―、とかじゃないんだ」



 後悔を心の中に押し込めて、冗談交じりに笑う。美香もつられて笑った。彼女の声は高いから、笑うと小鳥みたいだった。



「全然、そんなんじゃないよ」



 そんなことを言いあっているうちに、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。同じ教室内にいるのに、またねと手を振って自分の席へ戻る。教室の後ろに固まっていた男子たちも席に戻って、私の斜め前に山本が着席した。


 だるそうに背中を丸めて、頬杖をついている。その視線は一瞬教室に入ってきた先生に向けられて、またすぐ上部の時計へと移った。


 ただでさえ声の小さな国語教師は、マスクのせいもあって余計に聞こえづらい。お昼ご飯を食べた後の体に、まるで子守歌のように響いている。


 斜め前の彼はもうこくりこくりと舟を漕いでいた。その姿にときめいて、それから少し心が痛む。山本は美香のものになってしまうかもしれない。


 彼は、彼女に一体何と言って好意を伝えたのだろう。そのときどんな顔をしていたのだろう。きっとそれは自分が一生見ることの出来ない表情だと思うと、苦しくてしょうがなかった。



 それから三日後、美香から山本の話を聞くことがないまま、彼女が学校を休んだ。体調不良らしい。朝に『おなかいたい』とラインが来ていた。


 中学校の教室はもうグループが定まってしまっていて、私は美香がいないと基本的に一人だ。お弁当はみんな一人で食べなければならないからいいけれど、それ以降の昼休みがどうしようもなく退屈だ。


 誰も私が一人でいることなんて気にしていない。けれど周りのことばかり気になる。本でも読んでいようと、机の中から読みかけの小説を取り出したのに、目が滑って全然読めなかった。


 ざわめきに満ちた教室を見渡す。窓の方へと視線を向けると、なぜか一人で突っ立っている山本と目があった。慌てて目を逸らす。いつもは教室の後ろで駄弁っている山本が、どうして一人でいるのだろう。


 そう思っていると、私の席に近づいてくる足音が聞こえ、顔を上げるとそこには山本がいた。


 近い。椅子に座っているのに後ずさりしそうになる。今までずっと遠目に見ていたせいか、近くに立つ山本の背の高さに圧倒された。私を見下ろす彼の表情は、なんだか焦っているように見える。


 彼はせわしなく視線を動かして、誰もこちらを見ていないことを確認しているようだった。私は山本の用件が分からずに、ただ心臓がバクバク鳴るのを感じている。



「あ、あのさ……」



 山本の、まだ声変わりのしていない澄んだ声が、耳に届く。細い指がそっと机に置かれた。彼の体重がかかって、わずかに机が動く。



「……やっぱ、あとで」



 山本は照れ臭そうにがしがしと頭をかいて、後ろにいた男子のかたまりの方へ小走りで行ってしまった。私は茫然と、その後姿を見送る。山本はロッカーに辿り着いてからもずっとこちらに背を向けていて、その表情を見ることは叶わなかった。


 私も椅子に座ったまま後ろを向いた中途半端な姿勢から、ゆっくりと体を前に戻す。まだ心臓の音がうるさい。山本はどうして、私に声をかけてきたんだろう。


 わからないけれど、嬉しかった。同じクラスになってから、山本が声をかけてくれたのは初めてだ。


 思わず頬が緩んでしまう。マスクをしていなかったら、変な子だと思われてしまっていただろう。普段は煩わしいマスク生活に、今だけ少し感謝をする。


 あとでと言われたけれど、彼の言うあとではいつなのだろう。そう思って午後の授業中そわそわしているうちに、放課後がきてしまった。


 筆箱に一本ずつシャーペンを入れ、のろのろと片付けをする。山本が鞄を背負って席を立つ動作に、体が震えた。ほとんど人のいなくなった教室で彼が振り向く。


 一歩こちらに近づいた山本は、教室にまだ人がいるのを見ると、私を手招きして教室の外へ連れ出した。慌ててペンケースを仕舞い、鞄を肩にかける。いや、そもそも私が帰る準備をする必要はなかっただろうか。


 廊下に出て、彼は私の前を歩きながら、人の少ない階段の前で立ち止まる。少しほこりっぽい空気が漂っていた。


 山本は落ち着きなく手をポケットに突っ込んだり、首の後ろに回したりしている。そんな彼のそわそわが伝染して、私も意味もなく自分の髪に手を伸ばした。



「あの、さ」



 聞き取りづらいくらい小さな声で、山本はそう切り出した。向こう側の廊下がざわついていて、下手したら聞き逃してしまいそうだ。自分の息さえ殺して、彼の言葉を待つ。



「相澤の、ことなんだけど」



 相澤は、美香の苗字だ。途端に頭が重くなって、初めて貧血になった時のことを思い出した。うん、と返事をした自分の声が聞こえない。



「その……俺のこと、なんか言ってた?」



 そう言われて、きっとまだ返事をもらえていないのだと思った。山本は、私が美香から告白の話を聞いていることを知らない。そして私は、美香が山本にどう返事をするのか知らない。


 黙って首を横に振る。彼の目からは、残念だと思っているのがひしひしと伝わってきた。かきあげた髪の隙間から見える耳が赤い。照れると耳が赤くなるタイプなんだ。美香も、それを知っているんだろう。



「そっか……りょーかい、ありがと」



 山本は切れ長の目をくしゃりと歪ませて笑う。パッと手を挙げて去っていく後ろ姿を引き止めたいけれど、彼を引き止めるなら美香の話をしなければならない。


 山本の後ろ姿が涙でじわりとにじんだとき、ふと彼の足が止まった。なぜかこちらを振り返る。慌てて涙をぬぐった。



「あのさ、このこと相澤には言わないで」



 不安そうに眉を下げて、山本が訴えてきたのはそんなことだった。言わない、言えるわけがないのに、彼はそんな心配をしている。



「大丈夫、言わないよ」



 そう言うと、山本は安堵の表情を浮かべて笑った。初めて、私に向けられた笑顔だ。それが嬉しくて、寂しい。


 それから彼はまた私に背を向けて、今度こそ部活に向かった。私は慌てて教室を出たせいで開けっ放しだった鞄のチャックを閉める。ジッパーの隙間から、筆箱から転げ落ちたシャーペンやら消しゴムが見えた。


 帰り道、電源をつけたスマホには美香から『もう治ったよ、明日ノート見せて』とラインがきていた。来ないで、なんて送れなくて、OKとスタンプを返す。山本も同じ部活なら美香のアカウントを知っているだろうし、心配のメッセージでも送っただろうか。



 それから一週間後に、他のクラスメイトから美香と山本が付き合っているらしいという話を聞いた。美香は私に言わなかったけれど、本当は薄々気づいていた。


 きっと美香も、私が山本を好きなことに気付いていたんだろう。だから、私には言わなかった。言えなかったんだ。


 それでも美香とは今も仲良しだ。昼ご飯を食べたら一緒に話すし、数学だるいねなんて他愛もないことを毎日飽きもせず言い合っている。


 いつも通りに話していると、美香の背後から山本が現れて彼女にそっと何かを耳打ちした。美香はそれにほんの少し笑って、山本はまた教室の後ろへ戻っていく。私はその瞬間の山本の表情が見れなくて、わざとらしく目を逸らした。


 美香は何もなかったみたいに、五限めんどいね、なんて話を続けようとしている。私も何もなかったみたいに、そうだねと返す。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。自分の席に戻ろうと美香の机から離れると、チャイムの隙間に彼女の声が聞こえた。



「ごめんね」



 思わず振り返る。前髪とマスクに挟まれた、宇宙が広がっているみたいな黒い目からは、彼女の感情が読み取れなくて怖かった。彼女は私をまっすぐ見据えている。私は聞こえなかったふりをして、自分の席へと逃げた。


 美香はなんで謝ったんだろう。山本と付き合っていることを私に言わなかったから?それとも私が山本を好きなことを知っていながら彼と付き合ったから?


 何も言わずに謝るくらいなら、いっそ無知なふりをして教えてほしかった。あっけらかんと事実を伝えられれば、きっと私も彼女を許せただろう。


 でも、もういいよと言えなくなってしまった。許せなくなってしまった。美香が私に隠している罪悪感に耐えられなくなったのかなんなのか知らないけれど、そんな風に謝るなんてずるい。


 席に座り、自分の腕をぎゅっと握る。怒りで肩が小さく震えた。


 けれど、何も行動しないで勝手に失恋したのは自分の方だ。告白する勇気がなくて、彼に好かれている美香を妬んでいた。私に彼女を許さない権利なんて、あるだろうか。


 午後の授業はそのことばかり考えて集中できなかった。ホームルームを終えて、モヤモヤする気持ちを抱えたまま席を立つ。



「夏未」



 呼ばれて振り返ると、そこには美香が立っていた。不安そうな顔をして、鞄をぎゅっと握りしめている。



「今日部活ないから、一緒に帰ろ?」



 恐る恐るこちらを伺うような視線で聞いてきた彼女がまるで子犬のようで、思わず笑ってしまった。美香もなんだか安心したように、下がっていた眉がゆるむ。



「いいよ」



 その日の帰り道は、明日には忘れていそうなどうでもいい話題ばかり並べて歩いた。空はオレンジ色に染まっていて、夕日が眩しくて目が開けていられなかった。


 そういう時間がゆっくりと、私の後悔と罪悪感と、失恋の痛みを溶かしていった。

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