Ep.4 HARUNA 5
でも、自分で来る必要があった理由はすぐわかった。
あたしが進んでいくにつれ、うす暗い空間がほんのりと明るみ、その光の中でフッと女生徒とすれちがったり、こちらに手を差しのべて横を歩く女性らしい姿が見えたりする。
ここにあるリトル・ハルナの記憶は、これまでみたいに特定の時空の中にすっぽり入り込んで体験するようなものでなく、エルザハイツの形をした意識の空間に前後の脈絡もなく断片のようなものとして漂っているのだった。
かすかな気配にすぎないそれらにあたしが接近すると、磁石に引き寄せられるように反応して、出来事がようやくホログラムみたいに像を結ぶのだ。
「リトル・ハルナをここに連れてきたのは、どうやら織倉美保のようだね」
ローレンスのつぶやきに、あたしはうなずいた。
リトル・ハルナの姿は当然見えないが、今より若いスーツ姿のミホ母さんは、あたしを励ますように手を引き、守るように肩を抱き、安心させるように背中におぶってくれている。
そうやって、いくつかの部屋を訪ねたらしいことがわかった。
「どおりで人影が少ないと思った。寮生の服装からして、夏の休暇中なのだろうな。その間に、学園長の織倉美保が直接泊まり込む必要があるような事態になったのだ」
とにかく始まりは一階にちがいないと、ローレンスとあたしは階段を降りた。
ハンニャから逃げることになるまでは比較的明るく、むしろ楽しそうな場面が展開されていく。わずか七人しか残っていない寮生たちを気づかって、母さんがみんなで手作りするスパゲッティパーティを開こうと提案する。
にぎやかに盛り上がっていたというのに、最後の最後で怪しい物音が響きわたる。それが最初の兆しだった。
あたしとローレンスは、母さんが幼いあたしを連れて謎の物音の原因を調べに二階へ昇っていく後を追った。リトル・ハルナがカギの使い方を憶えたのはこのときだ。
二人は、入り込んだ部屋の一つが水びたしになっているのを発見する。これはイスと氷を包んだタオルを使ったトリックだと、母さんが幼いあたしに説明している。
ところが、その事件をきっかけに、残っている寮生たちがお互いを警戒し合うような不可解な出来事が、立て続けに起こっていたことが判明する。
「なるほどね。連続した奇妙なイタズラの理由を探るために、ミホ母さんは生徒たちの部屋を回って聴き込みをしていたんだ」
ということは、ほぼエルザハイツ全館へ足を運んだことになる。あたしたちがまだ見ていない上階のどこかで、ハンニャとの忌まわしい遭遇が起こったのだ。
あたしたちはふたたび階段を昇りはじめた。
降りたときとは真逆に、一歩ごとに凶々しい気配が濃くなり、息苦しいくらいに緊張感が高まっていくのを感じる。
「さっき何か言いかけてたよね。こんなに絶望的な色合いになってるのは、恐怖のせいだけじゃないって」
「ああ、そうだったな。リトル・ハルナが一人で逃げてきたってことさ。恐怖にかられてそうせざるをえなかったのだろうが、母親の織倉美保がいっしょにいたはずだ」
「あっ、そうだった――」
ミホ母さんは、調理や食事のときだけでなく、怪音の謎を調べにいくのをあたしが追っかけたときも、小言ひとつ言わずに幼いあたしをいつもそばにいさせてくれ、優しく見守ってくれていた。三階や四階の記憶まであるってことは、寮生の間を回るのに、あたしを連れていってくれたっていう証拠だ。
(母さんはいったいどうなったんだろう……!)
「もちろん、彼女はこの後若松ダイスケと結婚し、双子の息子たちを産むことになる。今もベルリンにいて、何事もなかったように平和に暮らしているだろう。だが、これはリトル・ハルナの妄想ではなく、実際にあったことの記憶のはずなんだ。だれも憶えていないというだけで、彼女の身に何も起こらなかったことにはならない」
ローレンスはあたしに言い聞かせるように言い、慎重な足取りで昇っていく。
その後を恐る恐るついていきながら、あたしは思った。
(当時のあたしには三人も母親がいたけど、かといって、だれかがだれかの代わりになるなんて考えたこともない。だれもがかけがえのない〝本当の母親〟だったんだ。もし、その一人が大きな危難に見舞われたとしたら……)
こうやって悪魔の巣窟を思わせるようなたたずまいを見上げると、たしかに幼いあたしが、不安と悲しみとかすかな希望がない混ざった、複雑な気持ちをその場に残していることが感じ取れる。その感情が、悲劇的な色彩をいっそう強めているのだった。
一階昇るごとにおぞましさが増してくる。
ついに四階まで来ると、そこはもうエルザハイツの一角とは思えないほど変貌をとげていた。壁面は無気味にゆがんでそこここに傷のようなヒビが入り、床は得体の知れない液体でぬらぬらと濡れそぼっている。
「ここだ……」
ローレンスがつぶやく。
言われるまでもなく、そこがリトル・ハルナが脱出してきた部屋だとわかる。
ドアは漆黒の闇のように変色しているというのに、まるでギラギラと輝くように存在を主張し、凶々しい妖気を漂わせている。
あたしは、いったいどんな惨状が現れるのだろうかとドキドキしながら、ローレンスと並んでその前に立った。
これまでなら、たちまちリトル・ハルナの記憶がよみがえって、待つまでもなくドアが開くはずだった。ところが、なかなかそうはならない。
すると、ドアがギシギシといやな音をたててきしみ、あろうことかどんどん巨大化しはじめたのだ。玄関扉に渡されていたのと同じ重そうなカンヌキまで出現し、まるで地獄の門を思わせるような様相になっていく。
「ローレンス、聞こえる? 中で母さんが悲鳴を上げてるよ。悪魔みたいな笑い声も――」
あたしは思わずドアに駆け寄ろうとする。
「よすんだ、ハルナ!」
ローレンスがあたしの手を取って引きもどし、かばうように抱きしめた。
そのときだった。
今や城門のようになったドアが、いきなりこちらにむかって倒れかかってきた。階段の手すりをバキバキと破壊し、バターンと大音響を上げて横倒しになる。
あたしたちはその衝撃にあおられ、反対側の壁際まで軽々と吹き飛ばされた。
痛くはないけど、衝撃は感じる。やっと身体を持ち上げると、パックリ開いた大穴からむかいの部屋の中が丸見えになっていた。
部屋の主らしいネグリジェ姿の女の子が、残酷な笑みを浮かべながら上のほうへ視線を向けている。その先には、なんと苦悶の表情にゆがんだ母さんの顔があった。
母さんは、頭にツノを生やした和服姿の人影に首を締められ、空中に高々と吊るし上げられているのだ。両手と両足はもうダラリと力なく垂れていて、顔の色はひどく青ざめ、口の端からは一筋の血がつたい落ちている。
「そ、そんな……」
あたしは呆然としながら立ち上がった。
「ちがうよ、ハルナ。そうじゃないんだ。これは――」
ローレンスがあわててあたしに何か言いかける。
だけど、さらに驚くべきことがそのとき起こった。
ネグリジェの女の子があたしたちに気づき、こちらを指さしたのだ。
クルリとふり返ったのは、まごうことなきハンニャ面。
そいつはミホ母さんをゴミ袋みたいにかたわらに投げ捨てると、ズカズカと歩きだし、階段スペースをふさぐドアの残骸を踏みつけながら、あたしのほうへまっすぐ向かってくる。
すぐ後ろにつづく女の子も、ハンニャと同じく自信に満ちたためらいのない大股で、かたわらのローレンスへと迫る。
近づくにつれ、彼らの姿はありえないほど巨大化していった。
「ハ、ハルナーっ……」
ハンニャの顔が視界全体をおおいつくしたとき、エコーのかかったローレンスの叫びが、どこかへ吸い込まれるように遠ざかっていくのが聞こえた――
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