Ep.4 HARUNA 4

「……きろ、ハルナ。起きるんだ」


 耳にささやきかける心地いい声で、だんだんと眼がさめてきた。

「ああ、ローレンス。あたし……眠ちゃってたんだね」

 なんだか身体がフワリと浮き上がるような具合いに起き上がった。

 視界も、たそがれ時か、古くなって赤茶けた写真みたいな色がかかっていて、妙に現実感を欠いている。眼をこすってみたけど、ぜんぜん変化がない。


 横を見下ろすと、なんと幼児の自分がベッドにうつ伏せになって寝ていた。

 疲れ果てて眠りに落ちたこの子に引きずられて、同化していたあたしも眠ってしまったのはわかるが、いったい何が起こったっていうんだろう。


「なんか、変な感じだよ。身体も、見えるものも」

「そうだろう。ヒトが眠っていても脳は活動している。これは、眠っている幼いきみの意識の世界なんだ」

 ローレンスは言いながら、さっきまでのエルザハイツを見る懐かしそうな眼ではなく、用心深い視線を周囲に向ける。


 ここはやっとたどり着いたエルザハイツの空き部屋にちがいないのに、壁や家具類の細部はボーッとかすむように赤茶けた色に溶け込んでいてはっきりしない。ちゃんと見えるのは、窓とベッドの周辺、それと入ってきたドアの形くらいだ。天井なんて、空洞がどこまでもつづいているみたいだ。


「てことは……記憶の中の自分の、またその夢の中ってこと?」

「いや、ちょっと違うな。夢じゃない。今はノンレム睡眠という、脳の活動が比較的沈静していて夢を見ない状態だから、これも記憶だ。つまり、今まで私たちがたどってきた記憶の、さらに奥にある記憶ってことになる。幼児のきみが眠り込んでくれたおかげで、入り込むことができたんだ」


「それで、あたしもあなたと同じような……なんていうんだっけ、〝残留人格〟? そんな感じのものになって、ちっちゃなあたしから幽体離脱したんだね」

「そういうことだ。この子――という言い方は変か――つまり、リトル・ハルナが眠っている間なら、きみは客観的な存在としてこの世界を歩き回ることができる。子どものことだから多少混乱したところはあるだろうが、すくなくとも直近の経験は鮮明なはずだ。なぜこんな事態に至ったのか、それなりの手がかりはつかめると思う」

 ローレンスが妙に慎重な言い回しで説明する。


「あたしも行かなくちゃダメ?」

 あたしは、幼い頃の自分自身を初めてまじまじと見つめて言った。

 こうして分離してみると、たしかに、リトル・ハルナという呼び方がピッタリくる気がする。そして、なぜか、この子のそばを離れるのがためらわれるのだった。


「だって、深川の店からここに飛んだときは、あなたが一人で通路を見つけられたじゃないか」

「やっぱり怖いか? 記憶の中の記憶にもぐるなんて、たしかに私だってそう何回も試みたことがなかったはずだ。現実の自分から遠ざかりすぎるからだろうね。『二度ともどれないかもしれない』と、本能的に危険を感じてしまうのだ」


「そんな気がする。それに、寝てるこの子はどうなるの? もしも、もどってくる前にハンニャに見つかったりしたら……」

「ああ、そのことなら、たぶんまだ当分は心配ないよ」

「なぜ?」

「忘れたのか? リトル・ハルナは、残りのカギをゴミ箱に隠したじゃないか」

「そういえばそうだった……」


「いいかい。わずか二歳の子どもがカギを使うなんて、ハンニャには思いもよらないだろう。物陰やトイレ、給湯室とか、すぐもぐり込める場所を徹底的に探すはずだ。それだけでも相当時間がかかる。カギ束が見当たらないことにようやく気づいたとしても、そっくり持ち去ったと考えるのが当然だ。そうなれば、一部屋一部屋ドアを破っていくしかなくなるんだ」

「あっ!」

「カギを散らばったままにしておくと、それを使おうとしている意図がすぐバレるし、足りないカギの部屋にいることも見破られてしまうからね。そこまでとっさに思いつくとは驚くばかりだよ。さすがは姫と私の娘だ」


 そうだったのか――

(ハンニャを出し抜いたのは、クローゼットにTシャツを投げ込んで注意をそらしたことだけじゃなかったんだ!)

 深川の店に貴重なレシピを残したことといい、我がことながら、リトル・ハルナにはあたし自身も驚かされっぱなしだ。


「リトル・ハルナを置いていく危険は承知のうえさ。事件はおそらく半ば近くまできている。このまま成り行きを追っていったとしても、こんな幼い子がなぜ一人で逃げなければならなくなったのか、そもそものいきさつはわからないままになってしまうかもしれない。きみにとって、それでは納得がいかないだろ?」

 あたしはうなずいた。


「恐ろしさを感じてるのは、きみのおかげでかろうじて生かされている私も、結局同じなのだよ。それに、自分に起きたことは、自分の眼で確かめなければ意味がない」

 たしかにそのとおりだ。

 あたしはためらいつつもなんとか立ち上がった。


 ドアを開けてギョッとした。

 エルザハイツそのものが古色蒼然とした建造物だけど、これはまるでさらに何十年も経ったような廃墟かお化け屋敷みたいなムードだ。


「リトル・ハルナには、こんな風に見えてるってこと?」

 恐る恐る廊下に踏み出しながら、あたしは震える声でローレンスにたずねた。

「そんなことはないさ。さっきまで見ていたのが、リトル・ハルナにとっての現実の光景だ。しかし、心象風景はすっかり絶望的な色に染められてしまったってことだ。まるで死の淵をのぞき込んでいる者のように救いがない」


「ハンニャと出っくわした恐怖のせいなんだね」

「たぶんそれだけじゃないだろう。幼い子どもの心をこれほどにむしばむものといえば……おっと、気をつけろ!」

「あっ――」

 視界がいきなり傾いた。

 廊下の真ん中を歩いていたはずなのに、なぜか足を踏みはずしたような具合に身体が下へ落ちかかる。


 ローレンスがとっさに手を伸ばし、あたしの二の腕をつかんで引き上げてくれた。

「どーなってるのっ!」

「二歳児の記憶というのはこれくらい不安定だってことだろうな。カギの合う部屋を求めてうろうろしていた。足元なんかろくに注意していたはずがない」


「落ちたらどうなるんだ?」

「文字どおり、奈落の底さ。虚無にのみ込まれてしまう。それで現実に引きもどされるならまだしも……最悪の場合、私たちの存在は消え失せる」

「ほ、ほんと……」

 周囲の風景が異様なだけじゃなく、この世界ではあたしたちもそれくらいもろくてはかない存在だってことなのだ。


「だから、ぼんやりしているところは絶対信用するんじゃない。壁も、階段の手すりもだ」

 ローレンスが慎重な口調で警告する。


 記憶の旅に対して、今までのあたしはどこか気楽な観光客の気分でいた。いくらひどい場面に遭遇したって、こちらは安全でいられるとたかをくくっているところがあったのだ。

 だけど、そんな甘い考えはいっぺんに吹っ飛んでしまった――

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