【Web版】お姉ちゃんの恋人

藤浪保

第1話 お姉ちゃんの恋人(前編)

『マジ啓太けいた超ウケるんだけど~』

『うっさい、うっさい、うっさい!!』


 お姉ちゃんの部屋のドア越しに笑い声が聞こえてきた。この二人はいつも楽しそうだ。


 私は、トントン、とドアを軽くノックした。お姉ちゃんの「どうぞ~」という声がちゃんと聞こえてから、ドアを開ける。


 漏れてきている声からして絶対違うとわかっているけど、うっかりそういう・・・・場面に出くわしてしまったら、互いに気まずいどころの話ではない。


「お母さんが、これ、どうぞって」


 部屋には入らずに、持っていたジュースとお菓子が載ったお盆を突き出す。


「ありがと」

莉子りこちゃん、いつもありがとう」


 立ち上がって受け取るお姉ちゃんの後ろで、啓太さんがぴしっと正座してお礼を言ってきた。さっきまでお姉ちゃんとあんなに砕けて話していたのに、私に対してはいつもこうやって丁寧に接してくる。彼女の家族には嫌われたくない、という心の表れだろう。


 そう、お姉ちゃんと啓太さんはつき合っている。


 ――そして私は、その啓太さんに恋をしていた。



 * * * * *



 三つ上のお姉ちゃんが啓太さんを家に連れてくるようになったのは、今年の夏のことだ。


 理由は簡単。受験勉強のため。互いに得意科目の勉強を教え合っているらしい。


 だけどそんなのただの口実だってことは、私にもお母さんにもバレバレだった。


 ちゃっかりしているお姉ちゃんの事だから、さっさと家族公認にしてしまおうという思惑もあるんだろう。


 初めて啓太さんが家に来た日、たまたま学校の用事で遅く帰った私は、居間に入るなり、お母さんが「お姉ちゃんが今日彼氏を連れてきたの! すんごいイケメン!」と興奮気味に話すのを聞いた。


 テレビを見ていたお姉ちゃんは「彼氏じゃない! 断じて! 莉子、絶対勘違いしないように!」と断固として否定していたけど、大げさなほどに慌てた様子が、それが嘘であることを逆に強調していた。


 彼氏がいたことさえ初耳だった。


 でも、お姉ちゃんは美人で頭もいいんだから、彼氏がいても不思議でもなんでもない。私が知らなかっただけで、啓太さんとは長いのかもしれないし、初彼でもないのかもしれない。


 お姉ちゃんに写真を見せて欲しいと頼んだら、持っていないと言われた。恥ずかしがっているんだと思った私は、それ以上追求しないであげた。


 その三週間後、四回目の来訪で、ようやく私は啓太さんに会った。


 帰宅して玄関を開けると、見慣れない男物の靴があって、一目でお姉ちゃんの彼氏の物だとわかった。


「ただいま~」


 声を上げた途端、ガタガタッとお姉ちゃんの部屋から音がした。そして、ドアが勢いよく開く。


 そこから男の人が顔を出した。


「莉子、ちゃん……?」

「え、あ、はい」

「あ……えっと、あの……」


 視線をらしたその人の顔が、みるみるうちに真っ赤になっていく。


 そして、はっと顔をすると、直立不動の体勢になった。


神田かんだ啓太です! よろしくお願いします!」


 きっかり九十度お辞儀をされて、びしっと右手を差し出される。


 驚いてたたきに立ち尽くしていた私はローファーを脱ぎ、おずおずと近づいて、その手を軽く握った。


「よろしく、お願いします」


 途端、びくっと啓太さんの体が震えたかと思うと、左手をそえられ、ぎゅっと両手で強く握られた。


「よろしくお願いします!」

「よ、よろしくお願いします」


 再度言い合った所で、プッと吹き出す声がした。見れば、お姉ちゃんがドアの所でお腹を抱えて爆笑していた。


「笑うなっ!」


 啓太さんは私の手を離すと、右手を振り上げてお姉ちゃんの方へとずんずんと歩いて行った。


 そしてドアの向こうに消える直前こっちを向き、目をそらしながら、「ほんとに、よろしく」と小さく呟いてから顔をひっこめた。


『緊張しすぎ』

『仕方ないだろ! 嫌われたくないんだから!』

『なんならお母さんより緊張してたね』

『だから笑うな!』


 ドア越しにお姉ちゃんの楽しそうな声と、恐らく顔が真っ赤のままで憤慨しているであろう啓太さんの声が聞こえてきた。


 私はそれをBGMに向かいの自分の部屋に入り――。


 ――ずるずるとドアを背に座り込んだ。


 なにあれ!?


 超イケメンなんですけど! イケメン過ぎるんですけど!?


 啓太さんはびっくりするくらいのイケメンだった。モデルさんかと思うくらいに。


 緩くパーマのかかった焦げ茶色の髪、整った顔立ち、背が高くて、学ランがとても似合っていた。私の中学はブレザーだから新鮮。極めつけに声までいい。


 私は自分の右手を見た。


 ぎゅっと握った啓太さんの手は大きくて、骨張っていて、年上の男の子であることを強く意識させた。


 ばっくばっくと全力疾走でもしたように心臓が大きく鳴っている。


 完全な一目れだった。


 そしてそれは、同時に、完全な失恋でもあった。


 啓太さんはお姉ちゃんの恋人だ。奪う気なんてさらさらないし、お姉ちゃん相手に奪えるわけもないし、そうでなくたって年下の私なんてお呼びではないだろう。


「マジかぁ……」


 私はズキズキと音を変えた心臓を抱えながら、夕闇の部屋でそのまましばらくうずくまっていた。




 報われない恋は忘れるに限る。


 そう思った私は、啓太さんへの気持ちを、心の奥底に沈めることにした。


 それでも、家で二人の仲むつまじい様子を見ているのはつらかった。私の入る隙間なんて髪の毛一本分もないんだって実感してしまうから。



 * * * * *



 その日、いつものように、お母さんから託されたお盆をお姉ちゃんに渡すと、意を決したように、啓太さんが正座したまま私に話しかけてきた。


「あ、あのさっ!」

「はい」

「莉子ちゃん、いま受験勉強中でしょ? わかんない所とかないのかなって。俺、一応、高校生だし、教えてあげられる事もあると思うんだよね」

「ないですね」


 さらっと答えると、がんっ、と頭に石でも落ちてきたかのように、啓太さんがショックを受けていた。


「まあまあ、そう言わずに。莉子、国語苦手だって言ってたじゃない。啓太に教えてもらえば? 文系科目は得意だよ?」


 お姉ちゃんが笑いながら助け船を出してきて、私は思わず天井をあおいでため息をついた。


 恋敵こいがたきに塩を送ってどうするのだ。


 お姉ちゃんにとって、私なんて取るに足りない相手なんだろうな、と思った。いや、私の気持ちなんて知らないから、当然なんだけど。


「気にしてくれてありがとうございます。でも大丈夫です」


 私は早口でそう言って、ぺこりと頭を下げると、逃げるようにその場を後にした。そんな事をしなくても、私は二人の関係に反対したりしない。


『あーあ、フラれたねー』


 閉めたドアの向こうから、ケタケタと笑うお姉ちゃんの声が聞こえた。

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