きみが遠くへ行くまえに
常和あん
第1話 かぼちゃ
地方都市の繁華街から少し離れたところに居を構える小さなライブハウスは、開業以来の活気に満ちていた。
入口から伸びた観客の行列は、開演時間が迫るにつれてその長さを増していく。
「なんか緊張してきた」
川野広斗は、ライブハウス内の奥にある狭い楽屋の中をうろうろと動き回っていた。
楽屋といっても、8畳ほどの部屋に会議机とパイプ椅子が数脚、壁に大きな鏡が1枚あるだけの簡素なインテリアしかない。
かろうじて真っ赤に塗られた木製の扉が、ここを楽屋だと盛り上げようと頑張っている。
ところどころペンキがはがれて土台のコンクリートがむき出しになっている壁に書かれた落書きは、今までこの部屋を使ってきた人たちの熱い想いが詰まっていた。
ただ、今日はその落書きは無造作に高く積み上げられた段ボールによって見えなくなっていた。
その段ボールのせいで、広斗が動き回るといっても限られたスペースしかない。
「なんで広斗が緊張してんのよ、ステージに立つわけでもないのに」
しゃがみこんで段ボールの中身を物色している綿原美織が呑気な声を出した。
「あ、ほら見てよ、これ。去年のクリスマスに店長が着てたサンタクロースの衣装だよ。洗濯してなさそうじゃない? くさそー。うわっ、やっぱくさい」
広斗は、美織の後頭部を見下ろしながら、わざとらしく大きなためいきをついた。
「なんでお前は緊張しないでいられるんだよ。今日は会社のお偉いさんも見にきてるんだろ」
「らしいね。スカウトしてくれた事務所の親会社の重役って言ってたから、相当お偉いさんなんだろうね。それよりも、ほら、広斗も嗅いでみなよ。この世の終わりみたいな匂いするから」
「まじか…」
「まじまじ。ほら、嗅いでみなって」
夏休みが始まったばかりのこの時期に不釣り合いな赤と白のジャケットを広斗に押しつけるようにする美織の目は、楽しくてたまらないと言わんばかりにキラキラ輝いている。
まじか、と言ったのはそんな美織に対してであって、この世の終わりみたいな匂いにではない。
広斗は見慣れたはずの美織の顔を、まるで異星人でも見るかのような目で見た。
この異星人は、今日がどんな日なのかわかっているんだろうか。
外に並んでいる観客の目的は、ライブハウスの店頭に高々と掲げられたポスターにあった。
――綿原美織 デビュー直前 ラストステージ
毎週末、このライブハウスで歌っていた美織を観客の誰かがSNSにあげたのが約1年前。
それがSNS界の有名人の目にとまり、一気に拡散された。
特別美人ではないが愛嬌のある顔と確かな歌唱力、それにピアノとギターを弾きこなし、作詞作曲も自分で手掛ける美織は、あれよあれよという間に世間の話題になった。
そして、レコード会社から本格的なデビューのスカウトがきたのは2カ月前。
明日が事実上の契約日となる。
つまり、今日が個人的に活動できる最後の日。
その日に慣れ親しんだライブハウスでの最後の公演を行うことが、美織のたっての希望だった。
地方からスターが誕生するという噂が噂を呼んで、ライブハウスには美織を一目見ようとする人たちの波が途切れることはなかった。
遠方からわざわざ足を運ぶ新規の観客が徐々に増え、今日はその最高潮ともいえる集客を見込む予定だ。
美織にとってはこのライブハウスでの集大成となる日で、今日の出来次第で契約内容も左右されるだろう。
そんな大事な日の主役が、薄汚れたサンタクロースの衣装を持っている美織である。
広斗は、目の前に差し出された赤と白のジャケットを無視して、うしろにあったパイプ椅子に腰掛けた。
座るときに、もうひとつ大きなため息をつくことも忘れずに。
「ちぇ、なによ、ノリ悪いんだから」
美織はぶつぶつと文句を言いながら、別の段ボールを物色し始めた。
広斗は、18年前に隣の家同士に産まれ、物心つく前から一緒に過ごしてきた幼馴染を、いや、異星人を観察した。
「美織はなんでそんなに落ち着いていられるんだよ。外の声聞こえないのか。お客さん、めちゃくちゃ来てるんだぞ」
「だってライブハウスはいつもと同じ慣れたところだし、ステージに立てば客席にいる人はみんな同じだよ。お偉いさんだろうが大統領だろうが、並んでるかぼちゃと思えばなんともない」
「かぼちゃ?」
美織は別の段ボールから引っ張り出してきたハロウィンの飾りつけに使われたジャックオーランタンを自分の顔の前に持ってきた。
広斗からは美織がジャックオーランタンの腹話術をしているように見える。
「これでもライブハウスに出始めたころは、お客さんの視線が怖くて毎日緊張してたんだよ。それで、お客さんをみんな並んでるかぼちゃだと思うことにしたら、こわくなくなったの」
「お客さんって言ったって、今までは友達か知り合いだったろ」
「知り合いだったとしても、10人以上の視線が全員自分に向いてるんだよ。慣れるまでは、そりゃこわかったよ」
「それにしたって、お偉いさんをかぼちゃ扱いかよ」
「お偉いさんも人間でしょ。人間イコールお客さん、お客さんイコールかぼちゃ、でしょ」
抱えていたジャックオーランタンを段ボールの上に置いて、その顔を自分と向かい合うように振り向かせると、三角の目と視線を合わせるようにして優しい手つきでその頭を撫でた。
広斗は、美織の言葉にひっかかるものを感じた。
いつも通りの何気ない会話だが、自分にとって重要な事柄が含まれているような気がする。
広斗は動揺を悟られないように、努めて明るい口調で尋ねた。
「つまり、観客は全員かぼちゃで、ステージにいる美織から見えている観客は全員同じってことか」
「うーん、そういうことだね」
「友達も、親も?」
「私がそんな器用じゃないって知ってるでしょ。かぼちゃフィルターにかけたら全員同じにしか見えないって」
「ふーん」
「まあ、でも」
ひろげた段ボールのふたを閉じて、美織が立ち上がった。
「たまに光ってみえるかぼちゃもあるんだけどね」
「どっちにしろかぼちゃじゃないか」
美織は、あははと笑ったあとに、よいしょ、と声に出して立ち上がった。
「そろそろウォーミングアップしようかな」
手についた埃を払う仕草をした美織は、うわっ、と大声を上げた。
「どうしたんだよ」
「手が真っ黒! 洗ってくる!」
放置された段ボールや、その中を素手で漁っていたから当然のことだろう。
大事にしているたった1本のギターを触るには、許し難いことだ。
美織はさすがに少し慌てた様子で、重い木製のドアを開けてトイレのほうへと駆けて行った。
一瞬開いたドアの隙間から外の喧騒が直接楽屋の中に流れ込んで、ドアがゆっくり閉まるのと同時に外の音と楽屋内の音に分別された。
ふざけたように作られたライブハウスだけど防音とかはちゃんとしてたんだな、と、ところどころ真っ赤なペンキの剥げかかったドアをみつめながら広斗は思った。
いや、そんなことよりも、3年間通ったライブハウスのドアの造りの新発見よりも、重要な新事実が広斗の思考を占めていた。
おれも、かぼちゃだったんだ。
この3年間、広斗が客席にいるときにステージに立つ美織とたったの一度も視線が合ったことがない。
その理由は極めて単純だった。
美織にとって、おれもその他大勢にすぎなかったということだ。
友達と親のことを聞いたとき、おれも?という言葉を飲み込んだ。
決定打を打たれたとしたら、それを受け止めるだけの心の準備ができていなかった。
「まじか……。ってことは完全に脈なしってことかよ」
ただの幼馴染だった美織が広斗にとって特別な存在になったことを自覚してから、美織にとっても自分がそうであってほしいと願ってきた。
その願いは、たったいま儚く砕け散った。
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