Credulity

Onfreound

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「これ、お兄さんの絵ですか?違うのは分かってますけど、とっても上手ですね」


「この絵、右バッターじゃん。僕は左利きであることに誇りを持って生きてきたんだ。こんな背信行為する訳ない」


「しょうらいのゆめ」の欄に描かれた、野球選手。僕の画力から想像するに、保育士の誰かの絵なのだろう。


 大学生になると同時にひとり暮らしを始めて、最初の夏休み。部屋の掃除をしていると、棚から変わった紙が出てきた。


 保育園児の頃、誕生日会の日に貰ったカードだった。どうやら、家を出るときの荷物に紛れ込んだようだ。


 こういう類いのものは大体ゴミ箱行きなのだが、捨てることすら忘れ去られていたのだろう。かなりボロボロで、文字もところどころ消えている。


「野球選手ですか。お兄さん、いつまで野球してたんですか?」


 そんな疑問が浮かんでもおかしくない。他人から見れば、今スポーツをしてるようには思えないだろう。


「野球なんてしたことないぞ」


「そうなんですか?確かに、ライパチの控えぐらいだろうとは思いましたけど...」


「まぁ、ボール投げたりバット振ったりはした経験はあるけど。自分がチームスポーツを出来ると思うか?」


「知りませんけど、端っこでウロチョロするぐらいは出来るでしょう」


「それはスポーツをやってるって認められるのか?」


 野球を観るのは好きだし、一応知識はあると思う。技術はほぼゼロだが。


「大体、こういう欄ってスーパーマンとかゲームキャラとか、なれるわけがないやつを書くもんだろ。いや、最近はYouTuberとかなのか?それなら可能性はあるのか...」


「勝手に分析始めないでもらえます?というか、野球選手はまだ"なれる"方なんじゃないですかね」


 そうかもしれない。野球選手は現実の仕事だ。仮想の存在を目指してるのではない。


「ない。野球選手も変わらんわ」


「はぁ...それって、実は野球選手になりたくなかったとかですか?」


「んー、まぁなろうとはしなかったな」


 軽く咳き込む。


「お兄さん、そんな昔から嘘ついてたんですね。確かに詐欺師になりそうな見た目してます」


「何だそりゃ」


「なら、本当は何になりたかったんですか?某パンのヒーローになりたかったけど、恥ずかしくて言えなかったとかですか?」


 何になりたかったのか。その質問に対する答えは、用意出来なかった。


「何って、そんなの知らんよ」


「昔の将来の夢を聞いてるんですよ?まさかその年で...」


「あのな...考えたことないんだよ。自分が将来なりたいものなんて」

 

 目を擦った。当然、見える景色は変わらないままなのだが。



 大学生になれば楽しい。多分、自分はそんな言葉を信じていたのだろう。大学生に具体的なイメージがあった訳ではないが、少なくとも”今”と違う世界のように思っていた。


 現実を見れば、課題や予習に追われる日々なのは変わらない。遊びに行く時間や気力はないし、誰かと話すこともない。そして、不安を抱えながら生きるのも、あの頃のまま。

 

 それでも、自分が大きく変わったのは、間違いない。分かりやすく言うなら、長年自分を苦しめてきた、鬱が治ったのだ。


 鬱は中学1年から始まり、思春期を跨ぎ、大学受験の直前まで続いた。楽しさや爽快感のある生活と引き換えに、なかなか印象的な日々を送らされることになった。


 不幸であり、辛く、醜い人間。当時は、それが自分であるとしか思えなかった。一応、ある程度は未だにその概念に囚われている。でも、今はあの頃の様に、常時辛さに囚われることはなくなった。


 良かったかどうかは、別として。



「すきなたべものがみかんってあるけど、そーなの?」


「嫌いじゃないぞ。でも1番食べた果物は林檎だし、正直梨の方が好きだわ」


「りんごとなしをいっしょにならべないでよー。きのことたけのこどっちもすきとかいうみたいじゃん」


「林檎と梨は時期が違うだろ。まず、菓子なんてどっちも好きでいいだろ」

 

 蜜柑は種を出さないといけないのが嫌だった。食べはするが。


「じゃあ、しゅみがうんどうだとか、とくいなことがじゃんけんだとかいうのもうそなの?」


「じゃんけんが得意ってなんだよ。強いのか?」


「おにーちゃんのことだし、あとだしがうまかったんだね!」


「それだけの瞬発力があれば、確かに運動も趣味だっただろうけどな」


 テレビゲームを買ってもらったのは小学校に入ってからである。運動をしていてもおかしくはなかった。


「へー。おにーちゃんはみえっぱりなんだね。しかも、これがてーせーされずにつかわれているんだからねー」


「園児本人がいってることなんだから素直に書くだろ。訂正を迫られたら泣いちゃうわ」


「そーいうはなしじゃなくて、てーせーしてくれるおともだちもせんせーもいなかったんだよね?おにーちゃんのにんげんかんけーのきはくさもむかしからなんだねってこと」


「もう少し優しい表現もあるんじゃないか。何でそんな心に刺さる言い方するんだよ」


「はりちりょーってあるでしょ?ささりまくればきっとからだがよくなるよ!」


「そうならイガグリは健康グッズとして重宝されるだろうな」


 外を見る。雲一つない晴天で、ただただ眩しい。


「おにーちゃんって、じっさいほいくえんじのころはなにしてたの?」


「仮病で休もうとしたり、なんか言われる度に泣いたりしてた」


「あ、さっきもおもったけど、おにーちゃんってなくの?」


「泣くわ。夜な夜な枕を濡らす日々を送っているぞ」


「それあせだよ。おにーちゃん、いじでもエアコンつかわないからね」


「だって、地球温暖化で人類が滅んだとしたとき、僕は努力したっていう言い訳になるじゃん」


「じゃあ、パソコンつかうのやめればいいーじゃん。だいたい、かんきょーのためになにかしてるの?」


「んー、腕時計は中学生の時買ったものから変えていないぞ」


「それをかぞえちゃうのがもうだめだよ。ほかには?」


「えー...貧民の僕が出来ることはそんなないし」


「おにーちゃんって200びーぴーえむのメトロノームぐらいブレてるよねー」


「何その評価。物理的に表されても困るわ。大槻ケ〇ヂの文章力を見習って頂きたい」


「あたしがいたところでかわらないでしょ、おにーちゃんは」


「そりゃそうだわ」


 カードをポケットに突っ込み、ベットに腰掛ける。窓から差し込む日の光が、背中に突き刺さる。



 嘘をつかないことは、恐怖だった。

 

 小学校のコミュニティには、愛されキャラなんてポジションはなかった。いじめられるか、いじめられないか、どちらかしか居場所はなかった。


 極度の面倒くさがりだった自分は、本当ならいじめられるべき存在であった。実際、保育園の頃はそうだった。しかし、小学校では、"何でもでき真面目であるという印象"が、僕の立場を変えた。


 当たり前だが、嘘だった。しっかりテスト勉強をして、それでも高得点をとれない程度の学力だった。途中で伸びた短距離走と習っていた水泳以外、運動は全くできなかった。手先は不器用で、玉結びすら怪しいレベルだった。料理も絵も楽器もダメだった。ちなみに水泳に関しては、5年も習っていたのに、今では泳げなくなっている。


 自分が何かに優れていたとしたら、それは恐怖感であったのだろう。入学直後、新しい環境に慣れないうちは、周囲への恐怖の故に、真面目な人間を演じていた。次第に構造が分かっていくにつれて、権力者に良い感じに目を付けられるような努力をした。


 同時に、恥ずかしい姿を見せないようにした。何もできないから、あらゆる成績を偽装した。先生の話を誰よりもしっかり聞き、素早く行動した。クラスメートの中では一番、授業や行事に対する準備を行った。友人は出来なかったが、こいつがいる方が正しい、みたいな存在になることができた。


 副作用は大きかった。失敗に対する恐怖を尋常でないほど増大させた。自分が優秀でないとバレてしまうことは、当時の僕にとって死と同義だった。何も決められない本当の自分は、僕ではなかった。


 それでも、決めることを面倒くさいと思う気持ちは、卒業まで消えることはなかった。



「野球、見に行くか」


「嫌だよ。席からじゃよく分からないじゃん」


 昔、家族旅行で2回球場に行った。高校1年の頃応援に連れ出されたこともあった。あまり内容は覚えてないが、どの試合も応援している側が負けた。


「面倒なだけだろ?行けば面白いって」


「知らん人が隣にいるのが無理。テレビで見るのが一番いい」


「兄さんにとって、誰だって知らん人だろ」


「そうだな。講義も受けれないわ」


 それでも、趣味はスポーツ観戦だって言ったけど。確か、4か月前ぐらいには。


 中学入学時は色々な自己紹介のパターンを用意していたのだが、活かされはしなかった。ここ数年は同じ内容を使いまわしている。


「...なぁ、外に出るぞ」


「どうして」


「そうだな...あれだ。体動かさないとぐっすり寝れないだろ」


「あー。小6の頃はそうだったわ。あの頃はめちゃくちゃ元気だったなぁ」


「兄さんが元気とか、全然想像できないけど」


「いやぁ、間違いなく人生で一番輝いていた時期だった。1年の奴らとかに殴られてたわ」


「いじめられてるときが輝いてたって、どんな神経してるんだよ。もしかしてドM?」


「違うわ。それだけ人気者だったんだよ。いっつもゲラゲラ笑ってたし、常に誰かにいじられてた。多分全校で一番うるさい奴だったぞ」


「兄さんが?誰かの記憶と混同してるだろ。早めに病院に行った方がいいって」


「そうならもう手遅れだろ」


 実際、他人の記憶のようなものだった。もしかしたら、ヤバい博士に洗脳させられているのかもしれない。


「まぁ、体の細胞は頻繁に変わるからな。今の兄さんとは別物だったんだろう」


「...内面までは変わらんよ。少なくとも自分は」


「変わっただろ。胃液とか」


「どうして物理的な話にしてるんだよ。会話下手くそか?」


「そりゃ、兄さんしか話し相手がいないからな。流石に上手くはならないさ」


「すみませんね、こちらの言語センスがカスなもので」


「ずっとネットに浸ってるんだから、少しぐらい語彙は増えてもおかしくなさそうだがな。学生らしく頭を働かせろよ」


「言葉を聞いたり見たりはするけど、実際に使わなきゃ覚えないって。そうじゃなきゃ今頃英語ペラペラだわ」


「それは兄さんの努力不足だろ」

 

 背中に感じていた熱さは、いつの間にか消えている。少しだけ涼しい風が、窓から入り込んでくる。



 田舎の小学校ならではだろう。卒業式では卒業生全員に、何度か発言の機会があった。その1つが、卒業証書をもらう直前、自分の将来の夢を宣言するというものだった。


 周りは一応具体的に決めていた。イラストレーターとか、ゲーム開発者とか、パティシエとか。僕が彼らの内面に関心がなかっただけかもしれないが、そんな様子を見たことはなかった。


 彼らがどう考えていたかは知らないが、僕も何かそれっぽいものを言えばよかったのだろう。12歳が考えそうな将来の夢について、適当に述べればよかったのだろう。


 小学6年生になると、上のコミュニティはなくなった。嘘つきは後ろ盾を失い、ただの優秀そうな人になった。本当の姿がバレてもいないのに、死にかけた。


 すぐに、自らを造っていく生活に限界を感じた。どうせ嘘をついたところで、怒られなくなる以上の成果を得られなくなっていた。


 結局、嘘つきの代わりに自分が出るようになった。彼は幸運なことに、年下からいじられるキャラという新たな居場所を見つけた。時代の流れなのか、これまでとは変わった人間関係が構築されていた。僕が上ばっかり見ている間に。


 リアクションとか話し方とか、色々準備、反省をする日々ではあったが、明らかにこれまでよりも楽だった。反応が目の前で見えるのは、とても安心できた。出番を失った嘘つきは、一旦死んだ。


 そんな中で、卒業式を迎えてしまった。だから、自分は、こう言った。


「僕は、将来、自分らしく生きる人間になりたいです」



「...おにぃって、何で生きてるの」


「え、何急に。哲学?」


 外はやはり暑く、長ズボンに熱が溜まっていく。都会に出る前、半ズボンで外に出歩いてはカッコ悪いと言われ買わされたのだが、未だに慣れない。


「...おにぃって、しょっちゅう死にたいってつぶやいてたじゃん。中学とか高校のときに」


「それはよくご存じで」


 誰にも見られていないのが分かる。人通りの多い道路のようだった。


「そういえば、その答え作ったんだよな、昔。懐かしいわ」


「...おにぃって、懐かしがるの好きだよね。現実から目を逸らしてるんだね」


「なるほど、確かになぁ」


 眼科に行ったとき、乱視で近視だと診断された。少しやりすぎたのだろう。


「あれだよ、そんなエネルギーの大きな行為、自分にはまだ耐えられないんだよ」


「...何言ってるの?」


「そのまんまだって。前にも後にもパワーが強すぎるから、自分じゃ不相応なんだよ。とりあえず、今は」


「...はぁ、ロマンチストなんだね」


「何言ってんの?」


 ぼんやりと歩き続ける。考えることに必死だった。


「...どうでもいいけど、しんじゃだめだよ。おにぃがいなくなるのはダメだから」


「おい、質問してきておいてどうでもいいとか...」


「...だって、どうでもいいじゃん」


「...どうでもいいな、本当に」


 目についたコンビニに向かう。行けば、その先で意味を見出せるかもしれなかった。



 健康だけが取り柄だと思っていたから、肺に穴が開いたときの衝撃は大きかった。


 高校3年生の夏休み前、期末テストが終わってすぐの日だった。起きてから数歩進むだけで息切れするレベルだったのに、病院に着いたのは夕方。左肺は縮み切っていた。それでも今無事なのだから、人間の生きようとする力は凄いものだ。


 そんな中、自分は、死にたくないと思ってしまった。


 自分が具体的に死の可能性を実感したのは、いつ以来だろうか。相当幼かった頃、手すりに腕がはまって抜けなくなったときからはないと思う。病気とか怪我とかはあったが、当然のように生きると思っていた。


 久々にこの感覚を思い出した、で済んだらどうでもよかった。問題になったのは、僕が普段から死にたいと思っていたためだった。


 鬱の時期は希死念慮が口癖になっていた。5、6年も呟いていたら飽きそうなものだが、特に理由も方法も考えず、ただただ死にたがっていた。


 これまでの言葉は嘘だった、と断言はしたくない。しかし、死が非常に近づいたタイミングで意見を変えたってことは、そういうことだった。混乱した。鬱である僕が、ありのままの姿だと思っていたから。


 退院してすぐに、また死にたがるようにはなった。夏季補講に行くようになってからは、あの時死んどけばよかったとか思い始めた。でも、明らかに違和感があった。胸が潰れる恐怖感だけではない。心の中から何かが抜け、ぼんやりとしていた。言葉の重みが消え、聞こえているのに聞こえない。そんな状態になった。


 翌々月、鬱の症状が消えた。自分を残して。



「バック、ボロボロじゃないデスカ!?たくさん詰め込んで大丈夫だったんデスカ?」


「長年こんな使われ方しかしてないからな。6連投するリリーフみたいなものだ」


「1年どころか、半年も持たなそうですケド...」


 買いだめしてしまうのは、田舎暮らしの癖だった。物が足りなくなってからでは遅いのだ。


「ていうか、長年って言いましたカ?これいつ作ったんデスカ?」


「小6の家庭科の授業。ミシンの準備の仕方分かんなかったから、勝手に割り込んで使ってたわ」


「やり方ぐらい分かるデショウ!?...でも、そうデショウネ。中学に入ってからこんなダサい迷彩柄のバック、作れないはずデスシネ」


「どういうことだよ。いいセンスだろ」


 荷物を冷蔵庫の前に置き、フラフラと座り込む。怒る人は誰もいないから、気が緩んでしまう。


「...はぁーぁ」


「大して動いてないデショウニ、お年寄りデスカ!?体力の落ち具合は若者以上デスネ...」


「若者じゃないなら何に分類されるんだよ。やっぱ現役19年目はベテランか」


「その数え方だと20年目なんデスヨ。知ってマス?初年度は1年目になりますからネ」


「そうか。それだけやれば引退試合もあるだろ」


「いやいや、戦力外に決まってますヨ!」


 天井を見上げた。今更、屋根が高い家なんだと気づいた。 


「...そうだよな、戦力外だわ」


「どうしたんデスカ、そもそも指名されないとか言った方が良かったデスカ?」


「いやいや、戦力外にしといてくれ。肩書が欲しい」


「カタガキ...?そういえば、お兄さんが大学行った理由の数十パーセントって、カタガキが欲しいからデシタッケ?」


「大体は現実逃避の為だぞ。まぁ、出来てるかは置いといて」


「生きてるんデスカラ、嫌でも現実は見るデショウ。働くよりは目を逸らせるかもしれませんケド...」


「費用さえ出せば、やることと金が直結しなくなって気楽だぞ。あと作業がちょっと単調じゃなくなる」


「センパイの人間性が酷いのはいいデスケド、表現ぐらいは楽しげに出来ないんデスカ?」


「そりゃ、楽しめればいいんだろうけど」


 ようやく冷蔵庫を開ける。窪んだペットボトルを取り出し、口に運ぶ。


「あのさ」


「ハイ!何デショウ?」


「他の人って、面白く生きるために努力してたりするの?」


「...知ってるわけないデショウ。ワタシガ」


「だよな。お前だもんな」


「そうだったとシテ、センパイは努力しないデショウ?何か適当に言い訳シテ」


「分からんぞ。お手軽に出来るのならやるかもしれない」


「やりませんヨ!大体今ダッテ、本当は鬱とか周りの人に問題があるって思ってるんデショウ?楽しみ方が分からないのハ、自分のせいじゃないって信じたいんデスヨネ?」


「そこまで言ってないじゃん。合ってるけど」


 中身はブラックコーヒーだった。相当前から、この味が苦いのかどうか忘れたままだ。


「......」


「......」


「...あれだ、将来の夢を決めなかった罰とかなんじゃないか」


「凄い理由デスネ...もっと受けるべき罰はあるデショウ」



 中学進学してすぐ、正直な自分と外部への恐怖感が衝突した。新たな環境には地盤がなく、昨年のようにはいかなかった。けれども、人にへりくだる無駄さと面倒くささも感じていた。


 折衷案ってことで、人間関係の分析に力は入れずに、とりあえず真面目そうなふりをすることにした。まぁ分析なんて長いことしていなかったし、中学生が相手だと規模とか複雑さが増していてほぼ不可能だった。


 しばらくは色々と気を使いながら過ごしていたが、重要な問題に気づいていなかった。他人という基準がないのに、何をもって僕が真面目に見えているとするかが分からなかった。


 テストや通知表を見れば成績は分かった。でも、これは何を意味しているのだろうか?勉強が出来るということだろうか。中学のテストはドリルからそのまま出るものが多いから、暗記力が高いということだろうか。客観的な評価そのものかもしれないが、クラスメートが採点したものではなかった。


 困っていたとき、不思議なことが起こった。感覚が分裂した、というのが正しいのだろうか。自分の心を、2つの存在が占領し始めたのである。


 1つは、プライドがやたらと高い何かだった。非常に攻撃的で、とにかく他の存在を拒絶、罵倒、蔑視した。なのに極端に打たれ弱くもあり、都合が悪くなるとすぐ死のうとした。


 1つは、自己否定を生み出す何かであった。あらゆる場面で自分や”何か”自体を卑下する根拠を見つけ出し、それらにぶつけていった。とにかく自己否定をしなければならないという義務感、使命感を抱えていた。おそらく理由は何でもよかった。


 2つは、とにかく活発だった。プライドの高い何かの攻撃対象は、自分自身、あらゆる動植物、社会現象、自然環境、物体など多岐にわたった。対象そのものに興味はなくとも、クレーマーのごとくいちゃもんを付けていった。そうして生まれた隙は、自己否定を生み出す何かの餌になった。否定をされると、やはりプライドの高い何かは酷く傷ついた。まぁ、別に文句を言ってなくても否定されるのだが。


 特殊だったのは、痛みとか苦しみとかの感覚を、自分も共有させられることだった。いや、実際には、”僕”だけが実感していたのかもしれない。しかし、どれだけ苦しもうとも、僕はそれらをコントロールしておらず、する方法は分からなかった。だって、それが自分だと信じていたから。


 僕は、自分を自分で評価できるようになったと考えたのだった。これまで、他者に目を向けないと評価なんて分からなかった。それが突然、自分の心がほぼ常に何かしらの評価をするようになった。内容は酷く偏っていたが、全然気づかなかった。ただ、それに従って生きるだけだった。


 プライドの高い何かを攻撃するペースはどんどん早くなるし、尋常じゃない数の罪状で繰り返しなじられ続ける。だから、そのうち僕は辛いとか、死にたいとかしか考えられなくなった。なのに、自己否定を生み出す何かは、死のうとする自分さえも否定した。他者やこの社会、世界、神とかのおかげで生きさせてもらっているのに、死ぬなんてとんでもないとされた。でも、自分のようなクズが生きようとするのも否定された。いつまで経っても、死にたいと思いながら生きなければならなかった。



 鬱が治ったというか、2つの何かが死んだ。そっちの方が僕の中では正しい表現だった。

 

 時間がかかったが、気胸で空いた穴から追い出されたのだろうか。唯一虚無だけが、ぐちゃぐちゃな心で生き残った。


 あまりにも心が軽すぎて、気持ち悪ささえ感じた。僕の中が急に静かになり、語彙が減った。失敗しても何も感じなくなった。自分は馬鹿になったのではないかと思った。


 自分が帰ってきたために、明らかに勉強に身が入らなくなった。僕が5年以上それなりに勉強していたのは、死んだ何かからの低評価のせいだった。受験生の重要な時期なのに、面倒くさがりな面が存分に出た。そもそも僕のことばかり見ていたから、受験が何であるかもよく分かっていなかった。滑り止めで済んだのは、ただただ幸運だった。


 このまま、ぼんやりと生きていくわけにはいかない。そう考えた自分は、記憶を頼りにあの頃を再現しようとした。鬱は、自分の知る中で最もマシな生き方に思えた。正直に生きるとだらけるし、昔のようにする環境はなかった。というか、自分のことばかり考えすぎて、他人との関わり方なんて忘れていた。


 奇妙な試みは、中途半端に失敗した。


 プライドの高い何かの癖が強すぎて、再現できなかった。そんなに不満が思いつかないし、人並み以上には心は折れるけど、以前と比べれば悩めなかった。


 自己否定を生み出す何かを創ろうと、とりあえずそれっぽい言葉を並べ立ててみた。だが、正直否定されてる感じがしない。何かは、自分ではない、別の視点からの言葉に思えた。自分で言ったところで、実感がなかった。


 気づけば、僕が求めることを言う都合のいい他人を創る、そんな作業に変わっていた。他人が何なのか分からないから、どんな設定でもよかった。そのうち、受け入れてもらいたいなんていう、正直な自分が主張し始めたりして。



「でも、そうかもしれないだろ。将来どんな人間になりたいか決めなかったせいで、神のフォローを受けられなくなったのかもしれない」


「別に否定はしませんけどね。じゃあ、決めときましょうよ。現世は無理でしょうから、来世とかその先のために」


「来世ってどんな仕事が人気なんだよ。eスポーツのアナリストとか?」


「もう人気ですよ。きっと革命家とかでしょう」


「革命家って...」


「お兄さん、つまらないですもん。それぐらいしないと来世は来ないですよ」


 ベットに倒れ込もうとして、止めた。長針は6時を指していた。昼寝には遅すぎるし、明らかに夜ではなかった。


「お前、不出来だよな。もうどうでもいいけど」


「お兄さんに言われるのは気持ち悪いですけど、どうしてですか?」


「端から僕に来世はないって言うべきなんだよな、そこは。どれだけ僕に甘いんだよ」


「甘いですかね。ただ可能性として言っただけですよ。私は不可知論者ですから」


「...話を繋げ辛い返しはやめてくれよ」


「そんなこと言われましても...一応、私は私ですし」


「...え、あれ?お前誰だよ」


 今日初めての疑問だった。慌てて、次の言葉を考えた。


「...えーと、ツケです。お兄さんが将来の夢を決めなかったから」


「いや、無理があるだろ。笑っちまうわ」


「じゃあ、他人を見なかったツケです。不幸ですよね?私にずっと気を遣われるんですからね」


「そう考えると怖いか。僕なんかじゃなくて、もっと大事なことを気にしろよ」


 そう繋げて、言葉を切る。

 

 テレビをつけると、野球中継が流れていた。リードを取りすぎたランナーが牽制死する姿に、不思議と納得してしまった。

 

 



 


 


 


 


 



 



 

 




 


 

 

 


 


 


 

 


 

 



 

 



 



 


 






 



 

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