94話 どれが箱庭か…①

「キミはどう考えたって、おれの家に様子を見に来る時間があるのならば病院に行くなり寝たりしたほうが良い」

「それ、昨日彼女にも言われた」

「……はぁ、うちで寝てく?って言いたいけど、自分の家で寝付けない人が他人の家でくつろげるわけがないか」


 顔を合わせるたびに彼の顔色が酷くなっていく。人の心配をするよりもまず自分の心配をしてくれと思うが、どうにも彼は自分のことよりも他人のことを考えていたほうが気楽なタチだという。……気持ちは分からないでもないが。


「……大丈夫」

「大丈夫じゃない人間は大丈夫って言うんだよ」


 不眠気味になっている人間にコーヒーを出すのは良くないと思い、ホットミルクを出す。温かい牛乳なんて初めて飲んだ、なんて漏らすものだから彼の私生活がますます不安になる。どう考えたって他人に救いの手を伸ばす前に、彼が支援されるべき人間だ。牛乳を電子レンジにかけて飲むという発想がそもそも欠けていて、よくもまあ生きてこられたものだと思う。


「オレのことは別に……ちゃんと医者にも行ったし、薬も飲んでるよ。お陰で前よりは寝られてる。平日だけど今日は休みだし、キミのところにきたのは、つい癖というか。何かしてないとやっぱり不安で」

「休職しろって言われたのに週一の休みで妥協してもらった。そうだろ」

「なんでそこまで聞いてるの」

「チーさんから。「オレじゃもうユキちゃんのこととめらんねえから、浅間くんどうにかしてけろ~」って、電話口で泣かれたよ」


 前々から彼の様子はおかしかったし、随分と面倒なことに巻き込まれているなと思っていたが、それは日を追うごとに悪化しているように見えた。いつもならそんな皺だらけのジャケットなんて羽織らないし、髪もそこそこ整えてきているのに最近はどこか雑だ。声もそんな普段から低い声で喋るような人でもない。


「……ごめん」

「キミが調子を崩して、本来キミが支援すべき人間に心配を掛けたら元も子もないだろう。別におれはそこまで困っているわけじゃないし、視野が狭いなりにそこそこやっていけてるけれど、明日食べるものに困って余裕が一切なくなっているような人間だってキミは相手をするんだから……まあ、他人の面倒を見ていたほうが気楽ってのは、おれもそういうところがあるから否定する気はないけどさ。衣食住のバランスが崩れちゃ、なんもできないだろ」

「……ほんと、浅間くんには言われたくない」

「だろうね」


 自分も他人に説教できる立場ではないことは重々わかっている。自分が倒れたりしなければ、別に彼らに支援を受けることなく生活できたのだから。それでも迷惑を掛けるのが身内だけのおれと、それで食っている彼では追う責任が違う。おれがいなくなったところで、どうせ誰も困らない。役所の人たちの仕事が増えるだけだ。


「死体、なら正直そこそこ見慣れてはいるんだ。訪問したら人が死んでたってことはよくある。それに、自分の祖父もそうだった」

「……」


 珍しく彼が自分のことを口にした。ついこの間、変な気を起こして彼のメッキを剥がそうとしてしまったのだが(それについては正直申し訳なかったと思っているが、知的好奇心ばかりは制御仕様がなかった)、それが吉と出たのだろうか、前よりも心を開いてくれたように思える。まあ、彼のような人間にとって、それがいいことなのかはわからないが。少なくとも自分という存在をああいうものだと定義して世界を見ていたいのであれば、今の状態は現実とのギャップで心苦しい状態だろう。


「母親から逃げるために大学に進学するときに、祖父がサインしてくれたり、入学金を払ってくれたりしたんです」


 母親から逃げる、その言葉と昔の彼の姿が重なる。両親の寵愛を受けずに育ったという点では一致しているのに、おれの姉と彼との違いはいったいなんだろうなとふと脳裏をかすめた。せめて、自分の姉が彼のような人間だったら、おれもここまで捻くれやしなかっただろうに。


「ごめん……これじゃどっちが面談に来たのかわからないね」

「人の話を聞くのは好きだよ。というかキミは目にしただろ?おれは”ああいう”人間だから、人の苦しみの方がよっぽど共感できる。いいエサにさせてもらうから、構わない」


 きっと自分もつらいのだ。己の周りをうごめく大多数の人間が、さほど苦しみを覚えていないのではないかと思うと、じゃあ自分はなんだと思う。それなら、いくらでも毒牙を向けてくれた方がおれはまだ人を信じることができる。いいや、きっと苦しんでいない人間が嫌いなのだ。それは生きているとは到底言えないから。苦しみのない人生なんて、生きている理由も意味もない。

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